『日本書紀」に伝えられる天壌無窮の神勅を、国家は神代の「歴史的事象」と位置づけ、国体の根拠としてきた。けれども中国やエジプトなど日本よりはるかに古い歴史と文化伝統をもつ国とくらべると『古事記』や『日本書紀』は成立があまりにも新しく、なおかつそこに記されている神武紀元以来の歴史そのものが、世界の親国と称するにはあまりにも短くみすぼらしい。 神が最初の国として創造したはずの日本が、そんなに短い歴史の国、みすぼらしい文化の国であるはずはない―この思い込みがエスカレートし、ついに記紀は日本のほんとうの歴史を覆い隠すために編まれた偽物の史書だと、彼らは見なすにいたった マツカーサーと同じく、米マスコミも、また日本のマスコミも、天皇による現人神否定に目をくらまされたことは明らかだ。けれども重要なのは、じつはまったくそこではなかった。天皇を天照大神の子孫とするイデオロギーー国体護特の根拠となったイデオロギーにとそ、詔書をめぐるGHQと日本政府・宮内省の交渉の最重要ポイントがあった。天皇位という神輿存続のキモは、天照大神の直系たる「神の裔」という一点にのみ宿っているという視点を、彼らはもちえなかったのである。 「神の裔」という神話が生き延びた結果、国家神道の頂点に君臨する伊勢神宮も「皇祖神」天照大神を祀る神社として生き延びた。「天皇の国」というイデオロギーは表舞台から姿を消したが、「天皇の国」というイメージそのものは、戦後も一種のロマンとして、あるいは日本や日本人のアイデンティティを語る際のキーワードとして、ふわりとした空気のようなかたちで生き延びた。 東京裁判における天皇訴追の急先鋒だったオーストラリア政府の意見も引いておこう。 天皇裕仁は個人的には、平和的願望と自由主義的な思想の持ち主であることは疑いないようだが、憲法の規定では、宣戦、講和、条約締結の権限は天皇にあり、侵略戦争を認可したことは、戦犯としての個人的な責任となる。…太平洋戦争は天皇の開戦の詔書によって開始したものである。米国国務省は真珠湾奇襲の天皇の責任を、軍国主義者の脅迫によるものとして、免除しようとしているが、実際は彼がいつも軍に脅迫されていたわけではない。彼が本当に平和主義者なば戦争を拒否できたし、退位や自決(ハラキリ)によって抗議できたはずである。たとえ戦争をいと思っていなかったとしても、開戦を認可したのだから、それだけで責任がある。 昭和天皇が先の戦争で日本がフィリピンに多大な迷惑をかけたことを、何度も謝罪した。アキ大統領は恐縮し、「そのことは忘れましょう」と語った。 橋本明によれば、日本人記者はみな安倍のブリーフィングに出席しており、フィリピン側の会見には「日本人記者らしい人影は見つからなかった」。そのためとの寝耳に水の情報に、日本の記者ちは仰天した。記者クラブは、ただちに宮内庁に緊急記者会見を求めた。会見に応じた安倍は、「にかの間違いであろう。全くそんな話は出なかった。戦争に関する話は全く出なかった。・・・・・・大統領報道官が間違えたのではないのか。陛下が謝ったことなど全くなかった」と、全面否定した。 … これら一連の政府説明がすべて嘘だったことが、平成二十九年に公開された外交文書によって明らかになった。そこには、天皇と大統領の会見前に、外務省が「第二次世界大戦について積極的にお触れにならない方が適当」という意見書を天皇側に渡していたことや、実際にはベニングのブリーフィングどおりの天皇による重ねての謝罪があったにもかかわらず、「既に戦争の話は出なかった旨否定しているので、否定の態度を続けるつもりである」との宮内庁の方針が記載されていたのである。
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水俣病わかめといえど春の味覚。そうおもいわたくしは味噌汁を作る。不思議なことがあらわれる。味噌が 凝固して味噌とじワカメができあがったのだ。口に含むとその味噌がねちゃりと気持わるく歯ぐきにくっついてはなれない。わかめはきしきしとくっつきながら軋み音を立てる。 「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」 白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である 私のたしかめたところでは、石牟礼氏はこの作品を書くために、患者の家にしげしげと通うことなどしていない。これが聞き書だと信じこんでいる人にはおどろくべき知れないが、彼女は一度か二度しかそれぞれの家を訪ねなかったそうである。「そんなに行けるものじゃありません」と彼女はいう。むろん、ノートとかテープコーダーなぞは持って行くわけがない。彼女が患者たちとどのようにして接触して行ったかということは、江津野杢太郎家を訪なうくだりを読んでみるとわかる。彼女は「あねさん」として、彼らと接しているのである。これは何も取材のテクニックの話ではない。存在としての彼女がそういうものであって、そういうふれあいの中で、書くべきものがおのずと彼女の中にふくらんで来たことをいうのである。 一九六二(昭和三十七)年の夏、一人の女の子が静かに息を引きとった。この子が解剖され、"胎盤を通じておこった水保俣"(胎児性水俣病)と診断されたことで、この年の十一月に十六名が同時に胎児性水俣病と認定されたのである。先の言葉どおり、誰かが死亡してやっと認定されたのである
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明治の文教方針は、旧来の民間信仰や類似宗教(天正時代以降、新興宗教はこう呼ばれた)を「迷信」として否定し、欧米流の科学的な思考を軸とする近代国家への脱皮へとひた走っていたからで、その反動が明治中期以降の神憑り的な日本神国信仰・天皇信仰へと国民を誘導する一因になっている 現下の日中戦争は、必ず日米戦へと行きつかざるをえないが、星条旗を国旗とする米国が「星の文明」なのに対し、皇国日本は日の丸を国旗とする「日の文明」なのだから、世界文明は必ず米国の象徴である夜(星)から、赫々たる日本の夜明け(日)へと進展していくと訴える正恭の思想に、王仁三郎とさしたる隔たりはなかった。 「明治大帝の孫の治世に日本がすべての海外領土を失ってしまうことになったのは、自分にとって手ひどい打撃である」 「今日も、御上にやりこめられちゃった」「私達はいくら努力しても人格、御上は神格でいられる。子が親にやりこめられる。あたり前の事。御上の神格、御立派さにはいつも頭が下がる」
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何度も文章で称賛される美しく才能がありついでに武道や軍事にも秀でた女性が古い価値観の人物達に煩わされながら大活躍と苦手要素の大盛りで乗れなかった。そのキャラ付けに大型バイクにノーヘル、理由は肌荒れや化粧崩れって時代が違うとはいえ… カウンセリングを理解しない短絡的でステレオタイプな人たちの言動が催眠のそういった人たちと同じに見えてしまうのもなんだかまどろっこしい。現実問題としてそうなのかもしれないが描写としては既視感が否めない。 優秀で知識のある主人公サイドと理解のない凡夫との乖離は催眠よりさらに大きくなっている気がする。そして今作は出てくる人物がほとんど凡夫でそういうやりとりが多いのもあまり好きではない。 結局美由紀を好きになれなかったんだろうな。最後の大立ち回りも敵が取って大騒ぎになった行動をお前も取るのかと思ってしまったし、オチもなんだかなあ。 広島や長崎で被爆者と向かい合う人間だから自衛隊幹部に良い印象を持ってないという描写も気になった。実際そういう傾向があるのだろうか。
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武装では私達は中国人の教師が受けもつ二倍の授業を受けもたされたが、それは彼らより配給 食糧が多いからだと説明されて驚いたものだ。私達は食糧の多寡でもって体力の度合いを計るの にはとまどいを覚えた。しかし中国では食事でのエネルギー摂取量が一般的に低いので、個人の 体力は直接的に(かつ公的にも)食糧の消費量に関係してくるのだ。シァオ・ワンの話を聞いていて、武漢大学の体育の教師のことを思い出した。米の配給量が普通は三〇斤なのに、彼らは三八斤だから体力があるといって同僚の羨望の的だった。生徒連が試験中に余分のエネルギーを使うために、どれだけの肉や野菜の"両”(重量の単位)が必要かと議論していたのを思い出す。それが高度への適応力にも影響することは間違いない。中国中央部からチベットに戻って普通の状態に慣れるのに六カ月はかかるとスイも言っていた。 ビクニックの三日目、"ショトゥン"が始まった。僧侶達は夏に生まれた幼虫を踏み殺すことがないように何週間もお寺にこもる。ショトゥンはこのおこもりの終わりをつげるお祭りだ。そ吉村昭 の始まりは十六世紀で、山から下りてきた僧侶を俗人がヨーグルトで接待する習わしだった。それが後に夏の歌劇と合体し、ヨーグルトの接待は芝居に道を譲ったのだ。
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「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。 大江健三郎の真面目な文章 「判決は下った。満額とれた。満額とれたちゅう ことは、ふた親の、いのちの値段をつけてもろう たちゅうことじゃ。 殺された、ふた親の値段が一八〇〇万円、ほら、 認定制度による壁決めてもらいました判決で。ああ、世間じゃ、高 か金もろたよ、もうけたよ、というでしょう。う らやましかよ、と言うに違いなか。ああ、どのよ うにして死にましたいのちか。ただの、働いて、 病気して、生きて、死んだいのちとちがいます。 親が働いて残してくれた金とちがいます。親が 働いて残してくれた金ならば、わたしゃ遠慮なし に、どんどん使います。なんで親の命ば、世間様 に、裁判で、決めてもらわんばならんのか。どう いう姿して死んで行った命か。 なんが嬉しかか。なんが満額か。 だ、いっちょうも手がけなし、銭の面も見ん いらんよ、いらんです。一八〇〇万なんの。ま 京にやってきました。銭の面のなんの見ろうご なか。戻してもよかです。 たった今、ああいまから先こういう銭は、殺さ れた親ば削って、食うてゆくとと同じです。何年 かかっていのちおの切れたか」と言いました(石
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この推測が当たっているかどうかという問いに対する考古学の答えは、ノーである。それは、つぎのような点から否定できる。 まず、この推測の前提には、天皇陵古墳に眠っているはずの古代の天皇の遺骨に、その民族や「人種」にかかわる何らかの証拠が残っているだろう、という思いこみがあるかもしれない。しかし、第二章で紹介した未盗掘古墳の雪野山や勝負砂でさえ、遺体は溶けさってまったく残っていないか、青銅イオンの影響で断片がわずかに形をとどめているにすぎなかった。天皇陵古墳も条件は同じだ。ましてや、この章で見てきた三つの巨大古墳のように、掘り荒らされていたり、早くから人が入りこんだりしていることが多いことを考えると、天皇陵古墳に古代の天皇の遺骸が残ている望みは、ほとんどないといっていいだろう。 よしんば、分析に耐える遺骸が見つかったとしても、骨だけでは、民族などの人間集団の同定は不可能だ。一般に渡来系といわれるのは、比較的長身で頭蓋が長いなどの特徴を持った「新モンゴロイド」に属する人びとだが、こうした特徴の人骨は、弥生時代の九州を中心にたくさん知られており、天皇陵古墳の時代よりも一〇〇〇年近く前のころから、ふつうにみられる形質である。 大陸や朝鮮半島からやってきたこのような形質と、縄文時代以前からあった形質とが長いあいだに混じりあって、今日のわれわれ日本列島人の身体的な特性のもとになったと考えられている。混交の度合い、個体差、そのときどきの環境要因などが複雑に作用しているなかで、列島のある時代の特定の個人がどのような民族や人間集団に属しているかを骨から決めるなどということはナンセンスだ。 まず、未盗掘古墳から考えてみよう。これまで繰り返して述べてきたように、未盗掘古墳とは、物と物、物と遺構との関係が完全に保たれた状態の古墳のことをいう。この状態を手つかずのまま、調査の技術がより進歩しているだろう未来の考古学に託すべきだ、というのは、たしかにひとつの見識かもしれない。 この見識は、国だけでなく、地方自治体の調査組織や大学など、およそ発掘を仕事としている機関のあいだで、近年ますます共有されるようになってきている。そうだとすれば、あえていまそれに手をつけるためには、未来まで待つ値打ちを超えて、明日からの考古学や社会に役立つ相当の価値を、そこから引き出してこなければならないということになる。未盗掘古墳を発掘する論理とは、そういうことだ。 未盗掘古墳の発掘とは、理化学の研究にたとえると、理想的な状態のもとでおこなわれる貴重な実験であり、その成果もさることながら、考古学の知識や技術を高めるためのまたとない機会といえる。知識や技術がさらに発展した未来の考古学に未盗掘古墳をできるだけ残そう、という論理についてはさきに述べたが、逆にいえば、そうした知識や技術を発展させる最高の機会が、未盗掘古墳だともいえるのである。
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「使いにくい兵器」 そもそもが原点から考えて、ハーグ条約などで化学兵器をいちはやく非人道兵器と決めつけた理由はどこにあったのか。そこにはただ化学の発達による脅威ばかりでなく、もともと毒そのものを悪魔的とする中世、さらにさかのぼれば古代以来のヨーロッパの独特の思想が反映していた一面もあったのではないか。それにしてはその悪魔に魅入られたように、とくにルネッサンス期には毒殺があいついだのだが、これに対しその対極として称えられたのは神に誓って戦う、騎士道である。だからローマの法律家は、 「戦争は兵器で戦われるもので、毒物で戦われるものではない」 といったといわれる。この言葉をアジア出身のウ・タント国連事務総長が報告の中で引用しているのはちょっと皮肉だが、ともかくキリスト教徒同士では毒は用いてはならず、しかしトルコ軍などの異教徒には用いてもよかったのである。 こう考えると、アメリカが当初から「人道的兵器」説を唱えたのも、大洋によって旧大陸から遠さかって、こうしたヨーロッパ的伝統から切り離されたことによる一つの現われとみることもできるのである。 歴史はまた、個人が健全にみえても、国家が病むことがあるのを示している。ハーンのような良識に富んだ人物が、国家の命令に唯々諾々と毒ガス実行部隊の先頭に立って戦場を駈けまわる。ハーバーに至っては、国家を至上の価値と考え、あらゆる科学の知識を動員し開発に狂奔した。しかし、にもかかわらずその最愛の国家に裏切られたハーバー。また二子を失ったネルンストの悲嘆。前の戦争の教訓から化学兵器製造を必死に阻止しようとしたが空しく、の破滅を予言して死んだボッシュ。さらには、ふたたび狂気にまきこまれまいと研究ら、その研究成果がまたたくまに技術に転用されて、核兵器が開発さ知ったときのハーンの涙。これらはなにを訴えるだろうか。 戦争は、病んだ国家に対する手荒いが有効な治療法である。近代国家が人類の文化に及ぼした貢献は大きいにしても、世界観を異にする国がある以上、戦争の危険はたえずある。そのためにある程度備えることは必要だろう。しかし、その戦争で健全な国がつねに勝者となるという保証はなく本当は病気は治療よりも予防である
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花づくりの小軀の人が、なぜに、天皇暗殺謀議という大それた事件に足を踏み入れたかの根拠は、花を愛するという感傷にまぎらわせては掴めない。園丁生活にそのタネは確在していたとみるのが私の卑見である。土ごしらえがなくては草花は生きぬ。溝口大尉が「馬ひけいッ」と声を発し、大勢の女中に、「行ってらっしゃいませ」と見送られながら、近衛隊へ帰ってゆくうしろ姿を見送った力作には、クツワを取ってゆく一兵卒が哀れに思われたろう。ここにも人間不平等の思いの根を育てる培養土はある。うちひしがれた兵に、差別される者の悲しみをみた。いや、その大尉のまたがった馬に、遠い在所の馬の匂いを嗅ぎ、小浜へ無言の帰還をなしたであろう百姓の男三男の骨の声をきいたかもしれぬ。西洋ダリアをつくる園だけ、格別の温風が吹いていたなど、私は信じられない。
何度も文章で称賛される美しく才能がありついでに武道にも秀でた女性が特にジェンダーに関して古い価値観の人物達に煩わされながらで大活躍と苦手要素の大盛りで乗れなかった。そのキャラ付けにバイクのノーヘル、理由は肌荒れや化粧崩れって時代が違うとはいえ… 広島や長崎で被爆者と向かい合う人間だから自衛隊幹部に良い印象を持ってなく描写も気になった。実際そういう傾向にあるのかイメージなのかどちらなのだろう。
内容自体は面白かったがマッカンドレスに感情移入はできない。親の心配を鼻で笑い金を燃やして最後は助けを求めるメモ残しながら逝くってイキった反抗期の延長って感じ。親との関係は同情しなくはないが。最後のがなければ自分の世界を貫いたとも思えるが結局青い理想に酔ってただけかな。20歳ごろ迄に読んでたらまた違ったのかも。 あとマッカンドレスの話は
腕回りを一センチ大きくするために、ポディビルダーが日々のトレーニングや食事にどれだけ執着 しているかを知ってほしい。過剰な筋肉をつくり出すには、過激な行為が伴う。本書に登場するボデイビルダーたち――克己の日々を送りながらコンテストに出場するビルダー、女性らしさという不可思議な観念と向き合う女子ビルダー、生涯スポーツとしてボディビルと取り組む高齢者ビルダー、さらに薬物を使ってまで筋肉の肥大に懸けるビルダーたち⋯⋯彼らの他にも、あるポディビルダーは肉体の秘密を説き明かすため東京大学を中退して東京医科歯科大学に再入学したし、筋肥大の妨げになると家族を捨てたビルダーもいた。 ところが世間はそんな彼らを#ムキムキ"と揶揄する。筋肉を軽視する裏には、身体とし、魂の不滅を説く東洋的な思想の影響もあろう。
が伝わってくる(傍点は原文のまま)。 へこの同じ程外思想の横田教授の東大法学部における講義がいいかに現実の国民生活に対す る彫粛性を欠いたものであるかの一実例としては、今春三月、国際法第一部の試験問題公展 古くなった条約の拘束を免れたいと思う時、そこに如何なる方法がある。 に対する学生の答案内容において、これを見ることが出来るのである。 横田教授は右問題に対する答案の講評を、四月新学期の初頭においてされたのであるが、 それによると、「かかる場合には自国が当事国以外の第三国に併合せられればそれでよい。」 の答案が、驚くなかれ、十以上あったというのである。しかも横田教
一切経をさすとすると数冊どころではない 四と死 毎朝汁かけご飯を食べる者が私を裏切る 天狗は悪魔 同じ市役所に勤める課長の2人が片方はかくれキリシタンの子孫でもう片方は役人の子孫。互いに「加害者」と「被害者」と呼び合う 祖先がこの宗教を命がけで隠して、われわれに伝えてくれた。だから、われわれも、外部に対して隠すのが祖先に対する供養 外部の者にお掛け絵を披露した後には宴会が開かれるがここでは魚が出される。生臭を用いることで仏教と区別するためか
配車アプリや出前アプリやカーシェアを目新しいもののように紹介しているが、2018年といえばJapan taxiや出前館はコロナ前から利用していた記憶があるし、タイムズカーシェアリングも利用され出していたような。ポイントはそこではないのかもしれないが中国のIT先進ぶりを表すように書かれているように感じるので違和感がある。ガジェット自体に疎い年配者向けの書籍だろうか 「正体」というタイトルからもっと清濁併せ呑む内容かと思ったが基本はサクセスストーリー 経営者の人柄礼賛も鼻につくけど何よりガン闘病の件いる?特に著者の 大学が学生向けのサービスとして著作権料払って学生に公開している映画を、学生起業家がダウンロードして契約者特典として事業者に配るって権利的に大丈夫なんだろうか。書籍に書かれてるってことは大丈夫なんだろうけど中国ならありうるからと思ってしまう
「清張作品の醍醐味の一つは不倫だ」という僕の主張は、必ずしも同意を得られず、「そーいうことは、一般にはあまり指摘されていません」などと反論されることがありますが、そんなのは嘘だ! 清張を愛する読者(とくに中年男)が、こんな重要な事実を見逃しているはずがないじゃないですか。 清張作品の問題点を生き生きと挙げていく北村薫と有栖川有栖