新聞広告で見て「箱庭ってなんだろう?」と思って読んでみた。 見開きページの左が文章で、右がイラストという体歳。 歴史の起承転結がわかりやすいようにイラストを箱庭風に書いてみました、という趣向だ。 ただ、イラストは…う~ん、これで歴史がわかりやすくなった、とはいいがたい。 歴史とは事実そのままではなく、物語としての起承転結、解釈のことだ。 事実をそのまま列挙した年表は味気ないが、物語として語られる歴史小説や映画は面白い。 ひとつひとつの事実の間を埋めるのは、感情だったり、損得だったり、幸運あるいは不運だったりする。そうして、独立したイベントは、歴史家や小説家によってつなぎ合わされ、意味を持たされて整合性のある物語となる。 だから、箱庭という起承転結化された一枚の絵で、時代の区切りとなる大きなイベントを語る、という試みはたいへんいいと思うが、一目で歴史の物語を俯瞰するにはごちゃごちゃしすぎてしまった感がある。 なかには「フランス革命④ ロベスピエールの恐怖政治」のように、スッキリとわかりやすく俯瞰できるイラストもあるのだが、全体としてはいまひとつ、か。 左ページの文章による解説は、簡潔でなかなかよかった。
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林七郎さんの書評 2023/05/23 1いいね!
2023年5月23日に読み終わりました。己の言葉に置き換えると、「文脈は縁(えにし)である」ということが伝わって来ました。人文の縁も異なもの味なものです。人脈というと、いまは金の亡者が使う良くない意味になりますので、人脈ではなく縁です。図書館は、今風に言えばソーシャル・キャピタルなんだなと思いました。図書館とは、500年経過していて、遅くて、繋がりにくい、誤配、遅配も多いアナログSNSです。でもそれくらい「ポンコツ」だからこそ、人や本の縁がリッチになる。他方、巨大で速いインターネットのデジタルSNSは、邪悪な魔物であることが露呈して、疎外される人々ばかり目立ってきました。 私は親が不仲で、家が貧しくて、だから家のなかにいたくもなく、かと言って金もない、友だちもいない、だから、家に家族が誰かいるときは、いつも公立の図書館にいました。家に誰もいないときに家にいる清々しさと、図書館に独りでいる清々しさは、等価交換できたのでした。 新渡戸稲造が、新しい五千円札になったとき、私の父親は新渡戸稲造を知らず、新聞社に「新渡戸稲造って誰ですか?」と電話して尋ねていたことをよく覚えています。 父は、自分が知らないことを、図書館で調べるということを、知らなかったのです。父はいまも、スマホをもっていても、メールもLINEもできません。知ろうとする力が昔も今も弱いのでしょう。父は「スマホでテレビが観たい」ってドコモに相談に行ったら、高いスマホと通信料のプランを3年縛りで売りつけられて、テレビはスマホ端末についているワンセグTVで見ているのですが、スマホにしたから、テレビを見られるようになったといまも騙され続けています。 私がその後、学歴を手にして、結果として貧しさから逃れることができたのは、親や家庭から独り逃れて過ごした、図書館のおかげでした。しかしながら、サラリーマンになっても、全然楽しくなかった。本の世界を生きることが目的であって、青木海青子さんが就活中に耳にした、「中小企業の社長なんかにもペコペコ」されるお立場・ご身分なんて、要らないなと私も思いました。 気がついてみたら、父と私は、たいして違わない、なんの立場・身分も肩書もない、社会的につまらない人間になってしまいましたが、私には本があります。本の世界にひらかれているテキストは、いまもまだほとんどオープンネットワークでは検索できません。そのことが希望です。読みたい本が次から次へと出てきて、いくら時間があっても足りません。青木真兵さんの言葉を引用します。 お金にならない活動を「趣味」という言葉で括って脇にどけていると、いつの間にかこの小説(『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー)で描かれているような社会になってしまうし、そうなっていることにも気づけなくなってしまう。社会には、お金にならない活動を、何のためにしているんだろうというところに耳をすますような繊細さが必要で、そうした細やかさをみんなが失えば、一気にディストピアが訪れてしまうのです。 お金にならない読書、我先にと競争に勝つためではない読書、500年かけてつくられた遅いほうのSNSで文脈をたどっていく…。ハイパーリンクではつながらない、本の文字と、死人と、生き惑う人々との、かすかなつながりを弱々しくたどりながら、私も生き惑いたいと思ったのでした。
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2023年5月21日日曜日に読み終わりました。技能実習生(=反吐が出るような霞が関文学単語)は、北関東のど田舎に暮らしている私にとっては、切実な問題なのです。田舎道では、夕暮れ時に自転車に乗っている彼らを轢き殺しそうになりますし、防犯カメラなどもかなりきっちり設置しています。 この本の中でもぼんやり書かれていますが、技能実習制度によって、日本にやってくる人々の多くは、いわゆる境界知能だろうなと思います。日本人にも、境界知能は1700万人いると言われています。境界知能とは産業革命以後のパラダイムに適合しづらい比較劣位であって、それ以上でも以下でもありません。技能実習制度とは、経済的に困窮する資本主義経済の弱者を、商品として取引する現代の奴隷貿易であって、まさしく官製人身売買そのものです。アーレントのいう「凡庸な悪」は、この日本に現存するのです。アジア各地から正義を騙り境界知能を募る悪徳スキーム、それが技能実習制度です。 それから、ベトナム語で兵士を意味するボドイなる組織は、今流行りのDecentralized Autonomous Organization (DAO)だなと思いました。自律分散型のネットワークです。SNSによってヒエラルキーよりもネットワークが力を持つ、その力学は国民国家をシロアリのように蝕んで行きます。自律分散型ネットワークは、欲望の領域、つまり金儲けや、悪いことや、エロいことで先行します。金儲けで言えば暗号資産ですし、悪事で言えば最近流行りの広域強盗団ですし、エロでいえばFC2のようなものです。中枢がないので、国民国家が取り締まりようがないわけで、北関東のベトナム人も、フェイスブックなどのSNSでベトナム語で直接繋がっています。中枢がないので、豚や桃を盗まれても農家はほとんど泣き寝入りです。 この本は、突撃取材を元にした一次情報ばかりなので、かなり信用できます。警察からの2次情報フォワード機関でしかない、17社警視庁記者クラブに偉そうに巣食う正社員サラリーマン(自称記者)とは違います。技能実習制度については、先日抜本的な見直しが、当局によって示されましたが、私によれば、技能実習制度よりも先に、こんな人にあらざる技能実習制度にコスト依存している、日本の1次〜3次産業がぶっ壊れています。 国内の資本家が、技能実習生のどんな能力に、そのケチ臭い金を支払っているかと言えば、生身の人間の「手の動き」だけなんです。例えばウーバーイーツなども、ピックとドロップの手の工程にしか、労働価値はありません。「手の動き」以外はもう、既にロボットやAIのほうが安くて早くて確実なんです。残るは、複雑な「手の動き」だけです。でもその複雑な「手の動き」も、やがて労働の対価ではなくなります。ホワイトカラーは、すでに死んでいます。17社桜田門記者クラブのサラリーマンのようなホワイトカラーが、これからは技能実習生になるしかない、そんな時代もすぐそこ。 上野でテレカ売ってたイラン人がいなくなったように、気がつけばボドイもいなくなるし、それよか先に、日本の殆どの産業が緊縮、萎縮します。
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たかさきやま自然動物園探検隊長さんの書評 2023/05/20
神ないし絶対的存在への作者の希求たるや想像を絶するものがある。作者はなにか痛切な思いで救いを求めていた。それがなにかはわからない。しかし、その渇望を感じ取れない向きが、いくら本書を読んでも、単に宇宙叙事詩などと綺麗事の修辞に終始してしまうのは目に見えている。そして、作者は神に辿り着けないことを既に認識していた。神は自身を助けてはくれないと観念していたのは間違いない。大学の哲学科に入った途端に絶望して退学してしまう悲惨というか、我が儘とも云える体験に加えて、本書を貫く絶望感がそれを示している。本書に満々た絶望感、更には、難解を極めた筆致の何れもが、作者自身の救いがたい絶望感を読者にそれと悟られまいとする作者の良心がそうさせたのではなかろうか。 中には、実際に作家に取材したのはいいが、照れ屋の作者が、かけがいのない女性を果てしなく追い求めた作品であり、そのモデルに阿修羅王を位置付けたと、わかったようなわからんような釈明をしたのを真に受けて、作品そのものに直当たりする評者として本来在るべき努力を惜しんで解説文を執筆したりしているのを見れば、その不勉強、況んや欺瞞には、憤慨を通り越して怒りすら覚える。 作者の神への渇望、救いへの渇望は、実は執筆前から、満たされることはないと、確固たる貞観があったに違いないのだ。だからこそ、神への案内役となるべきあらゆる宗教者や哲学者を作者のいわば分身として神を探索する営みを続けさせてみたものの、元々虚構に過ぎない神に到達出来るわけなどないのだ。 しかし、神の存在をかようなまでに虚構の存在と位置付けて決着を付けるとは、余りにも大胆不敵である。はたまた、蛮勇というべきか。なんとも疑問だが、宗教の欺瞞を暗に指摘した作品ともいえる。神の存在をかくも虚構で覆い尽くした怪作は、恐らくほかにあるまい。 SF大作がかくも問題作であって良いのか、わからん。何れにせよ、人々の倫理観、道徳観、そして宗教観に厳しく迫る傑作ないし怪作であることだけは間違いない。 宇宙叙事詩なる美辞麗句でSF傑作と評するのはその場凌ぎの天才、実体は【天災】政治家の答弁を批判する資格などないと心得るべし。 2023.05.21
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2023年5月17日水曜日読了。樋口一葉の生涯を、家計というシングルアングルから見通したら、とてもあたたかい伝記になる不思議、読後感は、素晴らしいのひとことに尽きます。エコノミクスの語源は、ギリシャ語の「家」を意味する「オイコス」から来ていますので、まさしく家計によって、人の運命も国の運命も大きく左右されますし、樋口一葉が五千円札のアイコンになる、というバタフライ・フライ効果もまた、樋口家の家計からの、百年を越える波紋です。 経済というアングルから浮き出てくるのは、共同幻想としての近代国民国家と、江戸時代の封建制度との過渡期的な一葉の価値観であり、それは主に母親とのコントラストではっきりします。 やがて彼女が、社会活動家というビジョンを得ることになるのも、江戸末期に無理して父が手に入れた士族という身分とソーシャル・キャピタルがあったからこそであり、社会活動家という彼女だけのオリジンが生まれてはじめて、樋口一葉は後世に残る国民作家になったのだ、という伊藤氏貴の見立てには、読んでいてしびれました。泣けました。 彼女だけのオリジナルな視座で貧困を捉えたからこそ、一葉は国民作家になり得た、このことは小説という藝術そのものの本質でもあると私は思います。小説というアートは、大衆の困窮をテクストにすることによって、マッシヴなアートになったのです。このことは、川上未映子や村田沙耶香といった現代の世界文学に通じる中核です。この本、強くおすすめします。
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2023年5月13日土曜日読了。夏葉社の『美しい街』の最後の方に能町みね子が文章を書き寄せていて、いいなと思いながらそれを読んでから、能町みね子についての過去作を読み始めました。 これは、私小説と言って差し支えないだろうなと私は思いました。私小説とはなにか? 私によれば、それは生き方を創造したものです。西村賢太はいま私小説家と呼ばれますが、それはおそらく、歿後弟子という新しい生き方をクリエイトした人という称賛です。巨人の肩に乗る、なんて言葉を識らない人にもそのことの意味を与えました。 能町みね子は、新しい「二人歩記」(長渕剛)の生き方をつくり出しています。シェアハウスのオーナーのような、いまでは簡単に偉そうな高みに立てる凡百のシミュラークルではない、タイマンの「歩記」を書こうとしている人、それだからこそ、西村賢太にもひかれて、尾形亀之助の歿後養子になりたい、なんて言っても、きちんと重みがあるのです。 能町みね子と西村賢太に通底していることは、オリジナルな生き方をクリエイトせざるを得ないところ、己の無価値、この世への諦観という出発点、ではないかと思います。 『幸せではないが、もういい』ペーター・ハントケの世界観、とでもいいましょうか。世界への怨念、それを瓦斯として燃やして灯りにする言葉、引火するほどまばゆい内面、そういう本だなと思いました。
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きゃべつさんの書評 2023/05/13 1いいね!
たべもの絵本とバトルものとの合わせ技 はじめの2ページでおすしが自走するので回るお寿司屋に行くのかと思いきや••• 迫力のある絵 せりふ、というかオノマトペは「すしーん」「しゃり」「すしゃー」「すしし」「すすし」「しゃりーん」「ねったーん」と多くはないがフォントがそれぞれの音量を表現していて、バトルが臨場感をもってくりひろげられる。まきずしダイナソー🦕に追いかけられるシーンは怖いし、その危機が上から降ってくる物体によって「ピザッ」と食いとめられるのもおどろき。そして、凶暴な?ダイナソーが立ち去り、上空の偵察機がそれを見守っている。 いわくありげなストーリーが、いろいろ美味しそうなにぎりずしキャラクターにより展開されるので目が離せない、このスピード感を楽しんだ。 でも、かこさとし先生の作品のように、一個一個のおすしをじっくり見る楽しみ方もあるのかな? おもしろい。たべもの絵本の好きな人に「読んだ?」ってメッセージを送ろう。
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たかさきやま自然動物園探検隊長さんの書評 2023/05/13 3いいね!
過去の世界へ時間を超えて行ってみたい。 まだ写真も残っていない時代、歴史の教科書の記述などでしか知ることの出来ぬ頃の世界を、この目で見て体験してみたい。そんな誰もが一度は抱くであろう叶わぬ思いに答えてくれるのが本書。 昭和の時代の小学生がしばしば読まされた学研の『科学』と『学習』の何れかに掲載されたのが始まりである。これら両雑誌の名前を聴いて即座にそれとわかる人は、同時に歳もバレることになるのだ。 それは別として、一体どんな方法で過去の世界へ飛んでいったのか、その仕掛けが面白い。また、仮に過去の世界へ行けたとしても、家族や仲間がいる今の世界へ無事に戻って来れるのか、【行きはよいよい⤴️♥️帰りは怖い⤵️⚠️】なんてことにならないのか。希望と同じ位に不安や危険もある過去への旅。それは、貴方をスリルとサスペンスに満ちた夢の世界へいざなうことでしょう。 時代劇でしか観られない筈の本物の忍者に過去の世界で実際に出会ったとしたら、果たしてどんな展開が待っているのやら。 我が国のSF黎明期の作家として知られる光瀬龍がこども達の夢に応えたいと著した渾身の本作は、NHK少年ドラマシリーズの一つとして実写版にて放映されました。人気お笑い番組『笑点』のベテラン座布団運びの山田隆夫が出演していることでも知られています。因みに、かつて小学5年生向けのNHKの教育番組に山田隆夫は、6年生で出ていました🙄。現在でも港区愛宕にある放送博物館でその一部を観ることがでます。 いわゆる時代劇ならば、長剣を遣う武士と対等以上に渡り合うのが常の屈強な先頭集団である忍者に、時代を超えて敢然と立ち向かう中学生達。体力絶倫とは程遠かった作者なればこその憧れともいうべき、運動能力に秀でた中学生達なら、どんな活躍をするだろうというSFならではの展開に期待大。 夕ばえ作戦という題名は最後まで読み進めないとわからないのが憎いところ。 2023年05月13日
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2023年5月12日金曜日読了。図書館の本との運命も、ネットでわざわざ検索して、手繰り寄せる本だけでなく、むしろ、図書館でふと目についた本のほうが、心に残る、あとあと肥やしになった、なんていうことも多いです。この本もそうでした。引用します。 どんな本でも最初は、丁寧に丁寧に読んでいくんです。最初の十ページくらいはとくに丁寧に、登場人物の名前、関係などをしっかり押さえながら読んでいく。 そうすると、自然に速くなるんですね。最初いいかげんに読んでると、いつまでたってもわからないし、速くはならない。でも、本の基本的なことが頭に入ってくると、 もう自然に、えっというぐらいに速く読めるようになるんです。 いまの世の中では、ファスト教養などと呼ばれる、コンテンツの倍速再生術や速読術などがもてはやされますが、速く読むためには、最初は丁寧に読むことが大切、つまり急がば回れだと書いてあります。その通りですね。 ただ、井上ひさしがなぜそれほど速く読みたかったか、を想像すると、ファスト教養とかタイパを卑しく求める現代の白痴どもとは異なり、彼は何かを生み出すためには、その創造物についてのありとあらゆる先人の書物を読まなければならない、と考えていたのではないかと思います。それが当然なんだと思っていたのではないでしょうか。遅筆堂文庫の由来となった遅筆の真因は、何かを生み出すために、一冊も漏らさず、それに関連する過去の知見をとことん読み漁ったからだと思います。 これは、本への愛に溢れる本です。本を愛するすべての人に読まれるべき一冊です。 最後の部分を引用して、終わります。 生活の質を高めるということを考えると、いちばん確実で、手っとり早い方法は、 本を読むことなんですね。本を読み始めると、どうしても音楽とか絵とか、彫刻とか演劇とか、人間がこれまで作り上げてきた文化のひろがり、蓄積に触れざるを得ない。人間は、自然の中で生きながらも、人間だけのものをつくってきた。それが本であり、音楽であり、演劇や美術である。 いい悪いは別にして、人間の歴史総体が真心をこめ てつくってきたもの、その最大のものが本なんです。
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高崎山自然公園探検隊長さんの書評 2023/05/12 5いいね!
2023/05/15【改訂版】 冒頭の序章の記述が、地球誕生の頃の話が延々と続き、言葉を話す人間が登場するまでがとんでもなく長い。なかなかピアノの演奏が開始しないショパンのピアノ協奏曲第一番でもあるまいし、、、。 ふと見やると、上記【紹介】でも、序章の部分には全く触れていないではないか(苦笑)。かように、多くの人々が、冒頭42頁にも及ぶ序章を終えるまでに難儀して辟易し、人間が登場する次の章まで辿り着かないのが現状なのだ(たぶん)。 そこで、各方面から批判を受けることを承知の上、敢えて苦言を呈すれば、とんでもなく読者に不親切な(^^;)大作なのであります。しかし、それでは、折角の労作が勿体無いではありませんか。 そこで、以下の【補足説明入りあらすじ】を示しておくこととしたのだ。これは、光瀬龍フリークの方々からすると、余計なお世話かもしれないのだが、それはそれ、これはこれなのだ。いくら内容が充実していようとも、わかりにくいのはいかん。わかりやすさというものを評者は非常に大切なものと考えているのであります。淀川長治さんの映画解説なんてわかりやすくて面白かったよなあ。解説を聞いただけで、映画を見たような感じがしたものである。それは別として、以下進めましょう。 また、登場人物(登場生物というべきか)の序章から終章にいたるまでの【同一性】についても、単に、「彼」と詠んでいた○○がその後、□□として登場したり、同じ人物かそうでないかの区別が非常にわかりにくいのだ。 そこで、本書の解説を書いた資料を覗いても、本気で中身を読んで書いたものは、皆無ではないかとすら感じてしまうのだ。 まあ、とりあえず、補足説明つき解説をご覧ください。 ~記~ 地球創世記の地球が出来上がる経緯、地球上の生命誕生の仕組みを宇宙物理学・地球物理学的な知見をフルに生かして叙述する。三葉虫から、魚類(「魚族」と云う)と誕生して来た時系列に沿って、様々な生物が述べられた後、なんらかの生物が、今にも海から陸地に上がりそうな雰囲気を醸し出して序章は終わる。 因みに、18頁で生命の誕生について描かれている(序章11頁以降~22頁 )。 第一章 影絵の海 23頁~39頁 海の中の生物として、「かれ」という平仮名代名詞で呼ばれる知能を持った主人公らしき生物が初めて登場する(25頁)。人類と魚類の中間に位置する生物として描かれていると推察される。以後、筆者は、「半漁人」と呼びたいと思う。 ある日、なぜか海の中のあらゆる生物達が恐怖に怯えている異様な雰囲気の中にあって、躍動的で観察力に秀でた「かれ」は、地上に巨大な山脈のような近未来的な物体が移動している様を観察することとなる。しかし、それが何なのかは、「かれ」には理解不能であった。 「かれ」が海底のすみかに戻り、眠りに落ちた隙に、いつの間にか、最先端の科学技術の粋を集めたと思われる脳神経外科手術かなにか(施術)を受けている場面を描き、思わせ振りに第一章は終わる。(その後の章で、それは、サイボーグ化手術であったことが判明する) 人類がまだ誕生すらしていない有史以前の段階で、なぜ近未来的な技術が「かれ」に働きかけたのか、全く謎のまま第一章は終わり、読書は煙に巻かれることになる。 第二章 オリハルコン 40頁~123頁 本章に至って初めて、生の人間が登場する。哲学者プラトンがそれである。しかし、序章や第一章との脈絡は全く不明なままに物語が開始する。 プラトンは、神の怒りを買って一朝にして海の底に沈んだとされるアトランティス王国(49頁、57頁)についての記録を探す旅に出ていた。 一人の僭主による広大な地域の画一的経営より、狭い地域に多数の都市国家が乱立するポリス社会に理想国家のありようを観ていたが、アトランティス王国の滅亡はプラトンの理想に猜疑を齎すものであった。 また、プラトンはなぜか、かつてのアトランティス王国を自身の故郷のように感じていた(57頁)。 この記述は、あとへ続く物語の伏線であり、プラトンは前世において、アトランティス王国の国王の下で司政官を務めるオリオナエその人であったのだ。 プラトンは旅先で眠りに着いた時、自身がアトランティス王国の滅亡に、ほかならぬ司政官オリオナエとして立ち会った過去の経緯をまざまざと観せ付けられることになる(87頁以降)。 しかし、その辺りの叙述から、物語はやや異様な展開の趣を強めてくる。 ひとつは、国王の姿は奈良の大仏を思わせる巨大なものであり(90頁、91頁、113頁)、到底人間とは思えぬ描き方をされていること。しかも、アトランティス王国滅亡の直接の要因は、国王が命じた王国全体を民共々丸ごと引っ越すとの計画に臣民達が反対したことにあり、しかも、その引っ越し計画は、突然登場する「惑星開発委員会」の策定したものであり、それを天命ないし神の意として、国王が臣民らに押し付けようとしたのだとるなどの経緯である。 地球人類に科学を齎したのは、地球の外から現れたアトランティス王家の巨大な王族であり、端的には〝異星人〟が地球人類を支配して来た、しかも、神と崇められながらという構成なのである。これは、猿が人間に進化したとする進化論に対峙する宇宙人説とも呼ぶべき立場を踏襲したものであろうか。 アトランティス王国引っ越し計画に反対した臣民達は、王家すなわち惑星開発委員会の怒りを買い、海底というより作中では、宇宙の闇の底へ沈むことになるのである。 プラトンは、意識の深層に宿った、自らの前世、オリオナエであった当時の朧気な記憶に導かれ、〝宗主〟が待つであろうTOVATSUE集落を目指すのであった(~123頁)。 第三章 弥勒(みろく) 釈迦国の悉達多(しつだるた)太子が、貧窮に悩む庶民や外敵からの侵略危機といった国難にあってなお、庶民や妻子を置いてまで、梵天(ぼんてん)に会いに行くために四人の僧侶らと天界へ向けて旅立つのである。 梵天とは、【宇宙最高の原理】であり、広大無辺な宇宙をその手に観照する存在であり、万物流転の形相は全て天なるものの意志すなわち梵天王の意志なのである(135頁)。 しかし、民衆の不幸に直面するに付け、悉達多太子は、天の意志というものに、不審を抱いていた(137頁)。 だからこそ、梵天に会いにゆき、不審を払拭したいと考えているのである(137頁)。場合によっては、神を否定ないし拒否しなければらないと覚悟を決めている太子であった(137頁)。 しかし、辿り着いた先では、天上界(153 頁)が八万年もの長きにわたり破壊に瀕する状況を見せられることになる(143頁)。 その原因は、一方で、①宇宙空間の歪みにあるという、些かなりとも宇宙物理学的な知見がないと理解不能な領域へ持っていってしまう(144頁以下)。他方では、遂に太子が会うことが出来た梵天王の言葉として、②阿修羅王の天上界への侵略が原因だと謂わせる。しかも、阿修羅王こそ宇宙の悪の本質とまで謂わせている。 しかし、①宇宙物理学的な説明と、②神の世界における戦いとがどう結び付くのか、わからないので読者は混乱するのである。 太子は、梵天王の言葉によれば、悪の本質とされる阿修羅王に会うことが出来たが、阿修羅王からは、「五十六億七千万年後に人々を救うとされる弥勒に会え」と謂われる。 更には、「弥勒がまことの救いの神なら、その破壊の到来をこそ防ぐべきではないか」と誠に尤もな疑問を投げ掛けられるのだ(165頁)。言葉に詰まる太子であっ人物た。 阿修羅王は、自分の警告(この世界の荒廃は、世界の外部から齎されたものであること)を梵天王は聞こうとしないと謂う。 そして、梵天王は、【世界の外部のなにもの】からか、「阿修羅王こそが悪の本質である」との思考コントロール(洗脳)を受けているといい、太子はそれを直感的に真実だと理解するのであった(169頁)。 阿修羅王に案内されて、弥勒に会いに行った太子であったが、弥勒の座した彫像があっただけで、弥勒は実在しなかった。 阿修羅王に言わせると、人々が、弥勒が遠い未来に人類を救うと勝手に信じ込んだだけだという。弥勒の座像は、かつてこの世界を訪れ、この世界がおのれの領域にあることを宣言して去った異世界の住人をかたどったものに過ぎないのだという。 阿修羅王から弥勒の何たるかを聞かされて、途方に暮れた太子であった(187頁)。
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