2023年5月12日金曜日読了。図書館の本との運命も、ネットでわざわざ検索して、手繰り寄せる本だけでなく、むしろ、図書館でふと目についた本のほうが、心に残る、あとあと肥やしになった、なんていうことも多いです。この本もそうでした。引用します。 どんな本でも最初は、丁寧に丁寧に読んでいくんです。最初の十ページくらいはとくに丁寧に、登場人物の名前、関係などをしっかり押さえながら読んでいく。 そうすると、自然に速くなるんですね。最初いいかげんに読んでると、いつまでたってもわからないし、速くはならない。でも、本の基本的なことが頭に入ってくると、 もう自然に、えっというぐらいに速く読めるようになるんです。 いまの世の中では、ファスト教養などと呼ばれる、コンテンツの倍速再生術や速読術などがもてはやされますが、速く読むためには、最初は丁寧に読むことが大切、つまり急がば回れだと書いてあります。その通りですね。 ただ、井上ひさしがなぜそれほど速く読みたかったか、を想像すると、ファスト教養とかタイパを卑しく求める現代の白痴どもとは異なり、彼は何かを生み出すためには、その創造物についてのありとあらゆる先人の書物を読まなければならない、と考えていたのではないかと思います。それが当然なんだと思っていたのではないでしょうか。遅筆堂文庫の由来となった遅筆の真因は、何かを生み出すために、一冊も漏らさず、それに関連する過去の知見をとことん読み漁ったからだと思います。 これは、本への愛に溢れる本です。本を愛するすべての人に読まれるべき一冊です。 最後の部分を引用して、終わります。 生活の質を高めるということを考えると、いちばん確実で、手っとり早い方法は、 本を読むことなんですね。本を読み始めると、どうしても音楽とか絵とか、彫刻とか演劇とか、人間がこれまで作り上げてきた文化のひろがり、蓄積に触れざるを得ない。人間は、自然の中で生きながらも、人間だけのものをつくってきた。それが本であり、音楽であり、演劇や美術である。 いい悪いは別にして、人間の歴史総体が真心をこめ てつくってきたもの、その最大のものが本なんです。
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高崎山自然公園探検隊長さんの書評 2023/05/12 6いいね!
2023/05/15【改訂版】 冒頭の序章の記述が、地球誕生の頃の話が延々と続き、言葉を話す人間が登場するまでがとんでもなく長い。なかなかピアノの演奏が開始しないショパンのピアノ協奏曲第一番でもあるまいし、、、。 ふと見やると、上記【紹介】でも、序章の部分には全く触れていないではないか(苦笑)。かように、多くの人々が、冒頭42頁にも及ぶ序章を終えるまでに難儀して辟易し、人間が登場する次の章まで辿り着かないのが現状なのだ(たぶん)。 そこで、各方面から批判を受けることを承知の上、敢えて苦言を呈すれば、とんでもなく読者に不親切な(^^;)大作なのであります。しかし、それでは、折角の労作が勿体無いではありませんか。 そこで、以下の【補足説明入りあらすじ】を示しておくこととしたのだ。これは、光瀬龍フリークの方々からすると、余計なお世話かもしれないのだが、それはそれ、これはこれなのだ。いくら内容が充実していようとも、わかりにくいのはいかん。わかりやすさというものを評者は非常に大切なものと考えているのであります。淀川長治さんの映画解説なんてわかりやすくて面白かったよなあ。解説を聞いただけで、映画を見たような感じがしたものである。それは別として、以下進めましょう。 また、登場人物(登場生物というべきか)の序章から終章にいたるまでの【同一性】についても、単に、「彼」と詠んでいた○○がその後、□□として登場したり、同じ人物かそうでないかの区別が非常にわかりにくいのだ。 そこで、本書の解説を書いた資料を覗いても、本気で中身を読んで書いたものは、皆無ではないかとすら感じてしまうのだ。 まあ、とりあえず、補足説明つき解説をご覧ください。 ~記~ 地球創世記の地球が出来上がる経緯、地球上の生命誕生の仕組みを宇宙物理学・地球物理学的な知見をフルに生かして叙述する。三葉虫から、魚類(「魚族」と云う)と誕生して来た時系列に沿って、様々な生物が述べられた後、なんらかの生物が、今にも海から陸地に上がりそうな雰囲気を醸し出して序章は終わる。 因みに、18頁で生命の誕生について描かれている(序章11頁以降~22頁 )。 第一章 影絵の海 23頁~39頁 海の中の生物として、「かれ」という平仮名代名詞で呼ばれる知能を持った主人公らしき生物が初めて登場する(25頁)。人類と魚類の中間に位置する生物として描かれていると推察される。以後、筆者は、「半漁人」と呼びたいと思う。 ある日、なぜか海の中のあらゆる生物達が恐怖に怯えている異様な雰囲気の中にあって、躍動的で観察力に秀でた「かれ」は、地上に巨大な山脈のような近未来的な物体が移動している様を観察することとなる。しかし、それが何なのかは、「かれ」には理解不能であった。 「かれ」が海底のすみかに戻り、眠りに落ちた隙に、いつの間にか、最先端の科学技術の粋を集めたと思われる脳神経外科手術かなにか(施術)を受けている場面を描き、思わせ振りに第一章は終わる。(その後の章で、それは、サイボーグ化手術であったことが判明する) 人類がまだ誕生すらしていない有史以前の段階で、なぜ近未来的な技術が「かれ」に働きかけたのか、全く謎のまま第一章は終わり、読書は煙に巻かれることになる。 第二章 オリハルコン 40頁~123頁 本章に至って初めて、生の人間が登場する。哲学者プラトンがそれである。しかし、序章や第一章との脈絡は全く不明なままに物語が開始する。 プラトンは、神の怒りを買って一朝にして海の底に沈んだとされるアトランティス王国(49頁、57頁)についての記録を探す旅に出ていた。 一人の僭主による広大な地域の画一的経営より、狭い地域に多数の都市国家が乱立するポリス社会に理想国家のありようを観ていたが、アトランティス王国の滅亡はプラトンの理想に猜疑を齎すものであった。 また、プラトンはなぜか、かつてのアトランティス王国を自身の故郷のように感じていた(57頁)。 この記述は、あとへ続く物語の伏線であり、プラトンは前世において、アトランティス王国の国王の下で司政官を務めるオリオナエその人であったのだ。 プラトンは旅先で眠りに着いた時、自身がアトランティス王国の滅亡に、ほかならぬ司政官オリオナエとして立ち会った過去の経緯をまざまざと観せ付けられることになる(87頁以降)。 しかし、その辺りの叙述から、物語はやや異様な展開の趣を強めてくる。 ひとつは、国王の姿は奈良の大仏を思わせる巨大なものであり(90頁、91頁、113頁)、到底人間とは思えぬ描き方をされていること。しかも、アトランティス王国滅亡の直接の要因は、国王が命じた王国全体を民共々丸ごと引っ越すとの計画に臣民達が反対したことにあり、しかも、その引っ越し計画は、突然登場する「惑星開発委員会」の策定したものであり、それを天命ないし神の意として、国王が臣民らに押し付けようとしたのだとるなどの経緯である。 地球人類に科学を齎したのは、地球の外から現れたアトランティス王家の巨大な王族であり、端的には〝異星人〟が地球人類を支配して来た、しかも、神と崇められながらという構成なのである。これは、猿が人間に進化したとする進化論に対峙する宇宙人説とも呼ぶべき立場を踏襲したものであろうか。 アトランティス王国引っ越し計画に反対した臣民達は、王家すなわち惑星開発委員会の怒りを買い、海底というより作中では、宇宙の闇の底へ沈むことになるのである。 プラトンは、意識の深層に宿った、自らの前世、オリオナエであった当時の朧気な記憶に導かれ、〝宗主〟が待つであろうTOVATSUE集落を目指すのであった(~123頁)。 第三章 弥勒(みろく) 釈迦国の悉達多(しつだるた)太子が、貧窮に悩む庶民や外敵からの侵略危機といった国難にあってなお、庶民や妻子を置いてまで、梵天(ぼんてん)に会いに行くために四人の僧侶らと天界へ向けて旅立つのである。 梵天とは、【宇宙最高の原理】であり、広大無辺な宇宙をその手に観照する存在であり、万物流転の形相は全て天なるものの意志すなわち梵天王の意志なのである(135頁)。 しかし、民衆の不幸に直面するに付け、悉達多太子は、天の意志というものに、不審を抱いていた(137頁)。 だからこそ、梵天に会いにゆき、不審を払拭したいと考えているのである(137頁)。場合によっては、神を否定ないし拒否しなければらないと覚悟を決めている太子であった(137頁)。 しかし、辿り着いた先では、天上界(153 頁)が八万年もの長きにわたり破壊に瀕する状況を見せられることになる(143頁)。 その原因は、一方で、①宇宙空間の歪みにあるという、些かなりとも宇宙物理学的な知見がないと理解不能な領域へ持っていってしまう(144頁以下)。他方では、遂に太子が会うことが出来た梵天王の言葉として、②阿修羅王の天上界への侵略が原因だと謂わせる。しかも、阿修羅王こそ宇宙の悪の本質とまで謂わせている。 しかし、①宇宙物理学的な説明と、②神の世界における戦いとがどう結び付くのか、わからないので読者は混乱するのである。 太子は、梵天王の言葉によれば、悪の本質とされる阿修羅王に会うことが出来たが、阿修羅王からは、「五十六億七千万年後に人々を救うとされる弥勒に会え」と謂われる。 更には、「弥勒がまことの救いの神なら、その破壊の到来をこそ防ぐべきではないか」と誠に尤もな疑問を投げ掛けられるのだ(165頁)。言葉に詰まる太子であっ人物た。 阿修羅王は、自分の警告(この世界の荒廃は、世界の外部から齎されたものであること)を梵天王は聞こうとしないと謂う。 そして、梵天王は、【世界の外部のなにもの】からか、「阿修羅王こそが悪の本質である」との思考コントロール(洗脳)を受けているといい、太子はそれを直感的に真実だと理解するのであった(169頁)。 阿修羅王に案内されて、弥勒に会いに行った太子であったが、弥勒の座した彫像があっただけで、弥勒は実在しなかった。 阿修羅王に言わせると、人々が、弥勒が遠い未来に人類を救うと勝手に信じ込んだだけだという。弥勒の座像は、かつてこの世界を訪れ、この世界がおのれの領域にあることを宣言して去った異世界の住人をかたどったものに過ぎないのだという。 阿修羅王から弥勒の何たるかを聞かされて、途方に暮れた太子であった(187頁)。
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きゃべつさんの書評 2023/05/09 1いいね!
介護する側もされる側もつらくなくなるいい本 身体を痛めない介護術 岡田慎一郎 中央法規 2021年 ある高齢者の施設を訪問した時、職員さんがインカムで、「〇〇さん、お願いします」と他の職員の応援を頼むのを聞いた。トイレの介助で、体格のいい入居者の場合、二人がかりで動きを支えるのだった。自分がいつかこうして世話されるときがくるなら、あまり太っていてはいけないかなぁ、と思ったことだ。でも、それは体格がいい人は困る、と言っているようなものでそんなことはないのだし、、とも思う。 この本で教えてくれている、介助者が身体を痛めない介護術がいきわたれば、なにも介護してくれる人に気を遣わなくていい。 冒頭で解説される「介護を行うための身体づくりの基本」はいつもピラティスのレッスンのときにやる動作と同じだった。知らなかったけれど、普段やっていることが役立つようだ。 自分が介護される側になる前に、この介護術をマスターして、自分が世話になるときそれをぜひ使ってくれるようお願いしようと思う。 近い将来にはパワースーツが普及しているかもしれないが、知ってて損はない。 介護を受ける側もする側も、どちらもつらくなくなる、よい方法だ。
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2023年5月5日金曜日読了。私は、最寄りのコンビニまで7キロも離れている田舎に住んでいるのですが、たまに東京へもやってきます。ですから、東京の図書館でもカーリルしています。東京に滞在している間に東京の図書館で数冊借りて、気に入ったものを読み切って、田舎に戻る電車に乗る前に、東京の図書館のブックポストに、返すのです。 この本も、東京の図書館で借りた一冊です。夏葉社で検索して出会った本です。尾形亀之助の選詩集です。寂しい、短い詩ばかりなので、尾崎放哉に近い印象を持ちました。でも放哉は最後は小豆島の寺でほんとに独りぽっちだったのですが、尾形亀之助のほうは、奥さんも子どももいるのに心が独りぽっちで、すごいなと思いました。 詩集なのですが、最後の方に彼の子どもへ向けた散文が出てきます。 http://wordcrossroad.sakura.ne.jp/wp/?p=1251 そこに書いてあることは、世界史においてもこの10年足らずで、ようやっと新たな常識となってきたようなことがさらっと書いてあります。この「泉ちゃんと猟坊へ」という題の散文は、1930年に出された本に刷られていることなのですが、とてもビジョナリです。生きるとはなにか、本質を見据えています。 先日、西村賢太の『蝙蝠か燕か』を読んだばかりですが、この本のあとがきに能町みね子が、西村賢太の歿後弟子について書いていて、ハッとました。ハイパーリンクもされていないのに、『蝙蝠か燕か』と『美しい街』の二書がつながる不思議に驚いています。能町みね子は、尾形亀之助の「歿後養子」になりたいなどと書いています。先人の積み重ねた知恵に基づいて、何かを発見することを西洋人は「巨人の肩の上に乗る」なんて言いますが、歿後弟子も歿後養子も、巨人の肩に乗ることの、日本的な、私的な言い回しです。 いまを惑い生きる我々矮人が縋るように私淑する巨人とは、畏怖の前にまず、没入できるエクストリームな同情が重要なんだろうと思います。それが日本的な、巨人の肩に乗る、でしょう。 能町みね子の書いたものについて、カーリルで深く辿りたくなる一冊です。
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2023年5月3日水曜日に読了。村上龍は有名作家なので、この新刊書には、次の予約者がいます。おそらくその次の予約者もいるでしょう。私は、予約待ちしなければならない本は、図書館では借りません。みんなが読みたがって、順番待ちしている本は、私の読みたい本ではないのです。この本は、図書館に入荷したタイミングが、私が検索したタイミングとぴったり一致したので、予約待ちすることなく借りることができました。これもひとつの運命です。 時間は、未来から過去へと流れているのか、過去から未来へと積み上がるのか、川の流れのように考えれば、未来は山頂の分水嶺であり、そこから現在へ時間は流れています。逆に、時間とは過去から未来へと積み上がるものだとすれば、それは河口へと降る堆積物のようなものです。 村上龍のこの短篇集は、時間を堆積物と考えている作品群ではないかと思いました。ストックとしての時間です。You Tubeというメディアは、ストックのメディアでもあり、フローのメディアでもあります。もうすでに死んでしまっているアーティストのアーカイブとしても膨大であり、会社役員を辞めてユーチューバーになることを目指す、フロー型のコンテンツも膨大です。 You Tubeというものは、時間のメタファなのかもしれません。ストックとしての時間も、フローとしての時間も、Googleのサーバに無尽蔵にデジタル貯蔵されていく、なんとも不思議な存在です。71歳の村上龍にとっての時間と、You Tubeの時間が交錯する小説集、と捉えることができるかもしれません。
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2023年5月1日月曜日読了。「歿後弟子」という言葉は、西村賢太に教えてもらいました。この本は、『芝公園六角堂跡』と併せて、いわば「歿後弟子についてのコンセプト・ブック」です。西村賢太は確かに、私小説の書き手であったのですが、私によれば、西村賢太の本懐とは、藤澤淸造の歿後弟子であったろうと思います。私小説家という星々は文壇史にあまたあれど、歿後弟子の小説家・西村賢太は、唯一無比の北極星です。私小説のナンバーワンより、歿後弟子というオンリーワン、これこそが、西村賢太が多くの読み手を惹き付けた、真因だと思うのです。 この本は、極めて切実な掌篇集です。コロナ禍によって思うように物事が進まず、北町貫多はそもそも歿後弟子なる己のレゾンデートルまで疑い始めます。そして、己の死期がすぐそこまで迫っているのではないかという鋭い予感も、しかと記されているのです。 未完の絶筆であった『雨滴は続く』のあとに、この掌篇集が出された背景には、西村賢太の本性に惹かれ、その本質を理解していたであろう、彼の言うところの「サラリーマン編輯者」「小悧巧馬鹿」に、「この本こそを西村賢太最後の本としなければならない」といった強い意思があったのではないか、と想像する次第です。 彼の生は、いつでもいつまでも彼の遺した作品のなかにあります。
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林七郎さんの書評 2023/05/01 1いいね!
2023年5月1日月曜日読了。夏葉社の本はいつも素晴らしいです。都市と地方の格差は、インターネットや宅配網の普及によって、縮んだようにも思えるのですが、最寄りのコンビニまで7キロ離れている田舎に住んでいる私としては、地方はますます朽ち果てつつあるなあと思っています。 格差の広がっていく真因はなんなのかといえば、やはりグローバル資本主義というか、より早く、よりたくさん、より生産性を高くしたもの(イーロン・マスクや、ピーター・ティールのように)が頂点に立つ、新しいカースト制度のようなもののせいだろうと思います。世界に広く普く及んでしまった、新自由主義のカースト制度からすれば、田舎に住んでいる人々や高齢者は、今日的な不可触賤民のような取り扱いとなっています。 この本に出てくる田舎の本屋は、新自由主義の原則をことごとく裏切って、成長しています。この本の著者あとがきに来て、初めて、ああ、そういうことだよなと腹落ちします。引用します。 「そんなことじゃ社会に出られないよ! そんなので社会に出てどうするの?」 短絡的ではありますが、これが学校に行けなくなった子を持つ親の気持ちだと思います。 この子が社会に出て大丈夫なのだろうかという親の心配であるとも思います。 でも、どうでしょうか。今のこの社会が良いものでしょうか? より多く持つ者が賞賛を 浴び、より早く進む者が高い報酬を得、より強い者がさらに強くなる世の中に送り出すのが 正解なのでしょうか? 引用は、以上です。「学校に行けなくなった子」のところを、「高齢者」や「田舎者」に変えてみても、意味は同じです。 新自由主義やグローバル化によって、役に立つもの、価値のあるものだけがただ追い求められ、それにたどり着けない弱い人々は、軽んじられるだけでなく、常に力いっぱい小馬鹿にされる、歪んだ社会、醜い牢獄のような時空になりました。 こうしたいわば、新生カースト社会に抗うためにも、本を読む必要があるでしょう。小さなコミュニティを、再めて編む必要もあるでしょう。この本はそのようなことに目をひらてくれる、素敵な本です。強くおすすめします。
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高崎山自然公園探検隊長さんの書評 2023/05/01 75いいね!
壮大にして難解なことで有名な『百億の昼と千億の夜』など日本のSF黎明期の作家として知られる光瀬龍が本当に書きたかったのは時代小説だったと、たしかな情報源からの情報を得て、それならばとばかりに紐解いたのがこの作品だった。 たしかに、江戸時代を舞台に描かれている。凄腕の剣術家で江戸町奉行与力を務める役人が主人公なのだが、その殺陣の見せ場は相当な迫力だぞと思いつつ読み進めると、江戸時代には全くそぐわない記述が時折顔を出して気になった。 例えば、「およそ50mほど先に」とか、「豪商グループ」といった現代においてこそ使われるべき単位・語句を用いて説明がされたりするのだ。これらは、「~尺ほど先に」とか、「~間ほど」とか、「商人の一団」とか、時代に相応しい書き方で書いて欲しかったと思ったのだよ、最初は。 だがしかしである。これは、主人公の意識からすれば当然のことであったのかと、唖然とする背景が本書を100頁ほど読み進めたあとになって漸く判明することになる。 もっとも、時代小説としての前半の出来がかなり良いため、本作品全体の構成については大いに疑問もある。つまり、ネタバレを承知で述べてしまうが、無理にSF仕立てとはせず、純粋に時代小説として、例えば〝鬼の平蔵〟なにものぞ、〝銭形平次〟なにものぞ、とばかりに向こうを張って、語句も純粋に江戸時代に相応しいものに統一して、時間旅行とは無縁な江戸時代に限った時代物一篇として欲しかったと思うのだ。 その上で、SF時代小説こそが光瀬の真骨頂ならば、本書とは別に同様の題材を元に作品を創作することでその思いを果たし、都合二篇をものにしていたら、それはそれで凄いことになったのではあるまいかと思うのだよ。まあ、その辺は、編集者の思いや力量にも左右されるのかも知れない。 それは別として、本書の物語の流れにしたがって、以下、またもやネタバレを怖れず敢えて述べると、この作品は、純然たる時代小説として当初、展開するのだが、それにとどまらず、現代というより未来との超現実的で意外性満点の接点を持つに至る作品であった。つまりは、SF仕立ての時代劇だったのである。 更に更に、驚異的なことと特筆すべきは、作品が描かれた時代(昭和48年・西暦1973年)には、絶対に製作されていなかった米国のSF映画『ターミネーター』で取り上げられた問題意識や時間跳躍の設定が既に描かれていたことである。問題意識の最たるものは、タイムリープして過去へ遡り、そこで、過去の事実と異なる行い(工作)をすれば、その後の歴史が変わってしまうことへの危機感である。歴史を恣意的に変えることは許されない。ならば、どうすれば良いのか、そのための手立てを制度的に加えるべきではないか、といった問題意識がそこにある。 とはいえ、実際に、かの007ジェイムズ・ボンドSF版ともいうべき時空諜報員が過去へ遡り、何らかの細工をしたとして、それにより未来が変わる、までは良いとして、変わる前の未来はどうなるのか、変わってしまった未来世界と、変わる前の未来世界とに、(工作を加えた時点から)枝分かれして二つの未来世界が存在することになるのか、といった果てしなき〝推論〟はなされてはいないようだ。と思われるのは、本書では、変わる前の未来の推移については全く触れられていないからだ。一つの未来世界という一本の流れしかなく、エレベーターで上下する如く、過去と未来へ行き来できることになっている。 私の頭脳の働きにしたがえば、変わる前の未来は、いわば、閉鎖された書庫のように、もはや、誰も、そこに行くことはできない幽霊船の墓場のような想像をすることになるのだが、それは、本書の書評とは直接関係ないことである。 些か脱線したが、何れにせよ光瀬は、日本におけるSF小説の先駆者であっただけでなく、米国のSF映画界にも、密かに、しかし由々しき甚大なる影響を及ぼしていたのではないか、と改めて思ったのだ。更に言えば、光瀬から受けた斬新な発想を密かに自作の底辺に据えて、同じような発想を元に、同じような硬質でより洗練された文体を用いて優れたSF作品を生み出した我が国の作家がいやしないかと、改めて研究することが不可欠ではないかと思うのである。 また、因みにといってはなんですが、本書では、堅物の印象の強い光瀬龍にしては珍しく、寝屋の秘め事の場面など、濃密に男女の機微が描かれていて、思わず動悸が速まってしまう。だが、妖艶に描かれる由紀なる女性を表紙の人物紹介では、〝情婦〟と書かれている点は不服である。由紀に成り代わって抗議したい。この女性とは婚姻関係にはないものの、同志であると共に、真の愛情で結びついた関係であり、性的欲求の対象でしかない意味合いの強い情婦という位置付けは余りにも描かれた人物像と乖離していて気の毒である。 それは別として、SF作家としての光瀬龍についてまとめると、彼の齎したSF的発想の斬新さ・卓越さを知れば知るほど、日本SF界において彼が与えた影響に焦点を当てた上で、彼に対する評価を改めて検討し直す必要があると痛感する【2023年05月15日改訂版】。
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林七郎さんの書評 2023/04/30 1いいね!
2023年4月29日土曜日読了。2010年の2月から7月まで、フランスの人気作家がシベリアのバイカル湖畔に隠遁した記録です。ただの隠遁ごっこ、猿岩石やドロンズと同じ範疇のコンテンツです。引用します。 隠遁は反逆である。小屋を手に入れること、それは監視画面から消えるということだ。隠遁者は姿を消す。彼はもはやインターネット上に記録を残さないし、通話履歴も銀行の取引データも残さない。 彼は逆ハッキングを実践し、パワーゲームから降りるのだ。 この一文に作者の隠遁への姿勢がよく表れているのですが、反逆としての隠遁は、長くはもちません。隠遁や漂泊とは、「反逆」のごとく「何かをする」ことではなく、己が「何もできない」こと、つまり無能であることの結果だからです。 反逆などと前にのめり、やたら勇んでしまうので、彼は毎晩大酒を喰らいます。この作者はすでにアルコール依存症だろうなと思います。気を失うほど酒を飲んで、「反逆」だなんてちゃんちゃらおかしいのです。アルコールとは、愚民どもの反逆心をなくすために、権力者が充てがう薬物です。漢字の民という字は、権力者によって目を潰された者、という表意文字です。アルコールは大衆目潰しの薬物なのです。 バイカル湖畔にようやっと届いた衛星電話で、彼女にフラれたことを知った作者は、そこから一気に心を持ち崩します。なんとも憐れな「反逆者」です。フランスのエスプリ? 間抜けなアルコール依存症によるただのぐだぐだ日記です。
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ビール腹、っていう言葉があるくらいで、一般には「ビール=太る」というイメージだ。ビールに痩身効果があるという話は聞いたことがないので、どういうことなのかと興味を持って手に取った。 著者は管理栄養士で、本書も栄養学による「太らない飲み方」についての知見を述べたものである。 したがって、ビールを飲んだら痩せる、という話ではなく、大好きなビールを飲んでも太らない食べ方、というのが正しいタイトルである。かなりあざとい。が、こういうタイトルに釣られて読む小生のような読者もいるんだろうから、編集者は優秀ってことなんだろう。 著者自身が書いているように、栄養学の常識は10年もすれば、真逆になることがある。 卵を食べすぎるとコレステロール過剰になるので一日一個まで、っていう話はなんとなく常識かなと思っていたが、いまでは否定されているそうだ。こんな話はいっぱいある。 本書自体が2012年の刊でもう10年前だから、すでに真逆になっていることもあるんだろうな、と思いつつ読んだが、そうなると何を信じていいのか、よくわからない。困ったものだ。 ただひとつ、よかったのはこのくだり。 「適度な飲酒は虚血性心疾患や脳梗塞の予防になることが、ほぼ確実と考えられています。心筋梗塞に関しては、飲めば飲むほどリスクが低下する傾向がみられたという報告もあるほどです。p33」 小生、心臓が強いほうではない。が、飲めば飲むほどリスクが低下、って言われると勇気100倍である。ま、いまはウソになっているのかもしれないが。
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