さんの書評2025/10/27

「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされ

「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。 大江健三郎の真面目な文章 「判決は下った。満額とれた。満額とれたちゅう ことは、ふた親の、いのちの値段をつけてもろう たちゅうことじゃ。 殺された、ふた親の値段が一八〇〇万円、ほら、 認定制度による壁決めてもらいました判決で。ああ、世間じゃ、高 か金もろたよ、もうけたよ、というでしょう。う らやましかよ、と言うに違いなか。ああ、どのよ うにして死にましたいのちか。ただの、働いて、 病気して、生きて、死んだいのちとちがいます。 親が働いて残してくれた金とちがいます。親が 働いて残してくれた金ならば、わたしゃ遠慮なし に、どんどん使います。なんで親の命ば、世間様 に、裁判で、決めてもらわんばならんのか。どう いう姿して死んで行った命か。 なんが嬉しかか。なんが満額か。 だ、いっちょうも手がけなし、銭の面も見ん いらんよ、いらんです。一八〇〇万なんの。ま 京にやってきました。銭の面のなんの見ろうご なか。戻してもよかです。 たった今、ああいまから先こういう銭は、殺さ れた親ば削って、食うてゆくとと同じです。何年 かかっていのちおの切れたか」と言いました(石

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