2023年5月23日に読み終わりました。己の言葉に置き換えると、「文脈は縁(えにし)である」ということが伝わって来ました。人文の縁も異なもの味なものです。人脈というと、いまは金の亡者が使う良くない意味になりますので、人脈ではなく縁です。図書館は、今風に言えばソーシャル・キャピタルなんだなと思いました。図書館とは、500年経過していて、遅くて、繋がりにくい、誤配、遅配も多いアナログSNSです。でもそれくらい「ポンコツ」だからこそ、人や本の縁がリッチになる。他方、巨大で速いインターネットのデジタルSNSは、邪悪な魔物であることが露呈して、疎外される人々ばかり目立ってきました。 私は親が不仲で、家が貧しくて、だから家のなかにいたくもなく、かと言って金もない、友だちもいない、だから、家に家族が誰かいるときは、いつも公立の図書館にいました。家に誰もいないときに家にいる清々しさと、図書館に独りでいる清々しさは、等価交換できたのでした。 新渡戸稲造が、新しい五千円札になったとき、私の父親は新渡戸稲造を知らず、新聞社に「新渡戸稲造って誰ですか?」と電話して尋ねていたことをよく覚えています。 父は、自分が知らないことを、図書館で調べるということを、知らなかったのです。父はいまも、スマホをもっていても、メールもLINEもできません。知ろうとする力が昔も今も弱いのでしょう。父は「スマホでテレビが観たい」ってドコモに相談に行ったら、高いスマホと通信料のプランを3年縛りで売りつけられて、テレビはスマホ端末についているワンセグTVで見ているのですが、スマホにしたから、テレビを見られるようになったといまも騙され続けています。 私がその後、学歴を手にして、結果として貧しさから逃れることができたのは、親や家庭から独り逃れて過ごした、図書館のおかげでした。しかしながら、サラリーマンになっても、全然楽しくなかった。本の世界を生きることが目的であって、青木海青子さんが就活中に耳にした、「中小企業の社長なんかにもペコペコ」されるお立場・ご身分なんて、要らないなと私も思いました。 気がついてみたら、父と私は、たいして違わない、なんの立場・身分も肩書もない、社会的につまらない人間になってしまいましたが、私には本があります。本の世界にひらかれているテキストは、いまもまだほとんどオープンネットワークでは検索できません。そのことが希望です。読みたい本が次から次へと出てきて、いくら時間があっても足りません。青木真兵さんの言葉を引用します。 お金にならない活動を「趣味」という言葉で括って脇にどけていると、いつの間にかこの小説(『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー)で描かれているような社会になってしまうし、そうなっていることにも気づけなくなってしまう。社会には、お金にならない活動を、何のためにしているんだろうというところに耳をすますような繊細さが必要で、そうした細やかさをみんなが失えば、一気にディストピアが訪れてしまうのです。 お金にならない読書、我先にと競争に勝つためではない読書、500年かけてつくられた遅いほうのSNSで文脈をたどっていく…。ハイパーリンクではつながらない、本の文字と、死人と、生き惑う人々との、かすかなつながりを弱々しくたどりながら、私も生き惑いたいと思ったのでした。
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2023年5月21日日曜日に読み終わりました。技能実習生(=反吐が出るような霞が関文学単語)は、北関東のど田舎に暮らしている私にとっては、切実な問題なのです。田舎道では、夕暮れ時に自転車に乗っている彼らを轢き殺しそうになりますし、防犯カメラなどもかなりきっちり設置しています。 この本の中でもぼんやり書かれていますが、技能実習制度によって、日本にやってくる人々の多くは、いわゆる境界知能だろうなと思います。日本人にも、境界知能は1700万人いると言われています。境界知能とは産業革命以後のパラダイムに適合しづらい比較劣位であって、それ以上でも以下でもありません。技能実習制度とは、経済的に困窮する資本主義経済の弱者を、商品として取引する現代の奴隷貿易であって、まさしく官製人身売買そのものです。アーレントのいう「凡庸な悪」は、この日本に現存するのです。アジア各地から正義を騙り境界知能を募る悪徳スキーム、それが技能実習制度です。 それから、ベトナム語で兵士を意味するボドイなる組織は、今流行りのDecentralized Autonomous Organization (DAO)だなと思いました。自律分散型のネットワークです。SNSによってヒエラルキーよりもネットワークが力を持つ、その力学は国民国家をシロアリのように蝕んで行きます。自律分散型ネットワークは、欲望の領域、つまり金儲けや、悪いことや、エロいことで先行します。金儲けで言えば暗号資産ですし、悪事で言えば最近流行りの広域強盗団ですし、エロでいえばFC2のようなものです。中枢がないので、国民国家が取り締まりようがないわけで、北関東のベトナム人も、フェイスブックなどのSNSでベトナム語で直接繋がっています。中枢がないので、豚や桃を盗まれても農家はほとんど泣き寝入りです。 この本は、突撃取材を元にした一次情報ばかりなので、かなり信用できます。警察からの2次情報フォワード機関でしかない、17社警視庁記者クラブに偉そうに巣食う正社員サラリーマン(自称記者)とは違います。技能実習制度については、先日抜本的な見直しが、当局によって示されましたが、私によれば、技能実習制度よりも先に、こんな人にあらざる技能実習制度にコスト依存している、日本の1次〜3次産業がぶっ壊れています。 国内の資本家が、技能実習生のどんな能力に、そのケチ臭い金を支払っているかと言えば、生身の人間の「手の動き」だけなんです。例えばウーバーイーツなども、ピックとドロップの手の工程にしか、労働価値はありません。「手の動き」以外はもう、既にロボットやAIのほうが安くて早くて確実なんです。残るは、複雑な「手の動き」だけです。でもその複雑な「手の動き」も、やがて労働の対価ではなくなります。ホワイトカラーは、すでに死んでいます。17社桜田門記者クラブのサラリーマンのようなホワイトカラーが、これからは技能実習生になるしかない、そんな時代もすぐそこ。 上野でテレカ売ってたイラン人がいなくなったように、気がつけばボドイもいなくなるし、それよか先に、日本の殆どの産業が緊縮、萎縮します。
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2023年5月17日水曜日読了。樋口一葉の生涯を、家計というシングルアングルから見通したら、とてもあたたかい伝記になる不思議、読後感は、素晴らしいのひとことに尽きます。エコノミクスの語源は、ギリシャ語の「家」を意味する「オイコス」から来ていますので、まさしく家計によって、人の運命も国の運命も大きく左右されますし、樋口一葉が五千円札のアイコンになる、というバタフライ・フライ効果もまた、樋口家の家計からの、百年を越える波紋です。 経済というアングルから浮き出てくるのは、共同幻想としての近代国民国家と、江戸時代の封建制度との過渡期的な一葉の価値観であり、それは主に母親とのコントラストではっきりします。 やがて彼女が、社会活動家というビジョンを得ることになるのも、江戸末期に無理して父が手に入れた士族という身分とソーシャル・キャピタルがあったからこそであり、社会活動家という彼女だけのオリジンが生まれてはじめて、樋口一葉は後世に残る国民作家になったのだ、という伊藤氏貴の見立てには、読んでいてしびれました。泣けました。 彼女だけのオリジナルな視座で貧困を捉えたからこそ、一葉は国民作家になり得た、このことは小説という藝術そのものの本質でもあると私は思います。小説というアートは、大衆の困窮をテクストにすることによって、マッシヴなアートになったのです。このことは、川上未映子や村田沙耶香といった現代の世界文学に通じる中核です。この本、強くおすすめします。
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2023年5月13日土曜日読了。夏葉社の『美しい街』の最後の方に能町みね子が文章を書き寄せていて、いいなと思いながらそれを読んでから、能町みね子についての過去作を読み始めました。 これは、私小説と言って差し支えないだろうなと私は思いました。私小説とはなにか? 私によれば、それは生き方を創造したものです。西村賢太はいま私小説家と呼ばれますが、それはおそらく、歿後弟子という新しい生き方をクリエイトした人という称賛です。巨人の肩に乗る、なんて言葉を識らない人にもそのことの意味を与えました。 能町みね子は、新しい「二人歩記」(長渕剛)の生き方をつくり出しています。シェアハウスのオーナーのような、いまでは簡単に偉そうな高みに立てる凡百のシミュラークルではない、タイマンの「歩記」を書こうとしている人、それだからこそ、西村賢太にもひかれて、尾形亀之助の歿後養子になりたい、なんて言っても、きちんと重みがあるのです。 能町みね子と西村賢太に通底していることは、オリジナルな生き方をクリエイトせざるを得ないところ、己の無価値、この世への諦観という出発点、ではないかと思います。 『幸せではないが、もういい』ペーター・ハントケの世界観、とでもいいましょうか。世界への怨念、それを瓦斯として燃やして灯りにする言葉、引火するほどまばゆい内面、そういう本だなと思いました。
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2023年5月12日金曜日読了。図書館の本との運命も、ネットでわざわざ検索して、手繰り寄せる本だけでなく、むしろ、図書館でふと目についた本のほうが、心に残る、あとあと肥やしになった、なんていうことも多いです。この本もそうでした。引用します。 どんな本でも最初は、丁寧に丁寧に読んでいくんです。最初の十ページくらいはとくに丁寧に、登場人物の名前、関係などをしっかり押さえながら読んでいく。 そうすると、自然に速くなるんですね。最初いいかげんに読んでると、いつまでたってもわからないし、速くはならない。でも、本の基本的なことが頭に入ってくると、 もう自然に、えっというぐらいに速く読めるようになるんです。 いまの世の中では、ファスト教養などと呼ばれる、コンテンツの倍速再生術や速読術などがもてはやされますが、速く読むためには、最初は丁寧に読むことが大切、つまり急がば回れだと書いてあります。その通りですね。 ただ、井上ひさしがなぜそれほど速く読みたかったか、を想像すると、ファスト教養とかタイパを卑しく求める現代の白痴どもとは異なり、彼は何かを生み出すためには、その創造物についてのありとあらゆる先人の書物を読まなければならない、と考えていたのではないかと思います。それが当然なんだと思っていたのではないでしょうか。遅筆堂文庫の由来となった遅筆の真因は、何かを生み出すために、一冊も漏らさず、それに関連する過去の知見をとことん読み漁ったからだと思います。 これは、本への愛に溢れる本です。本を愛するすべての人に読まれるべき一冊です。 最後の部分を引用して、終わります。 生活の質を高めるということを考えると、いちばん確実で、手っとり早い方法は、 本を読むことなんですね。本を読み始めると、どうしても音楽とか絵とか、彫刻とか演劇とか、人間がこれまで作り上げてきた文化のひろがり、蓄積に触れざるを得ない。人間は、自然の中で生きながらも、人間だけのものをつくってきた。それが本であり、音楽であり、演劇や美術である。 いい悪いは別にして、人間の歴史総体が真心をこめ てつくってきたもの、その最大のものが本なんです。
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2023年5月5日金曜日読了。私は、最寄りのコンビニまで7キロも離れている田舎に住んでいるのですが、たまに東京へもやってきます。ですから、東京の図書館でもカーリルしています。東京に滞在している間に東京の図書館で数冊借りて、気に入ったものを読み切って、田舎に戻る電車に乗る前に、東京の図書館のブックポストに、返すのです。 この本も、東京の図書館で借りた一冊です。夏葉社で検索して出会った本です。尾形亀之助の選詩集です。寂しい、短い詩ばかりなので、尾崎放哉に近い印象を持ちました。でも放哉は最後は小豆島の寺でほんとに独りぽっちだったのですが、尾形亀之助のほうは、奥さんも子どももいるのに心が独りぽっちで、すごいなと思いました。 詩集なのですが、最後の方に彼の子どもへ向けた散文が出てきます。 http://wordcrossroad.sakura.ne.jp/wp/?p=1251 そこに書いてあることは、世界史においてもこの10年足らずで、ようやっと新たな常識となってきたようなことがさらっと書いてあります。この「泉ちゃんと猟坊へ」という題の散文は、1930年に出された本に刷られていることなのですが、とてもビジョナリです。生きるとはなにか、本質を見据えています。 先日、西村賢太の『蝙蝠か燕か』を読んだばかりですが、この本のあとがきに能町みね子が、西村賢太の歿後弟子について書いていて、ハッとました。ハイパーリンクもされていないのに、『蝙蝠か燕か』と『美しい街』の二書がつながる不思議に驚いています。能町みね子は、尾形亀之助の「歿後養子」になりたいなどと書いています。先人の積み重ねた知恵に基づいて、何かを発見することを西洋人は「巨人の肩の上に乗る」なんて言いますが、歿後弟子も歿後養子も、巨人の肩に乗ることの、日本的な、私的な言い回しです。 いまを惑い生きる我々矮人が縋るように私淑する巨人とは、畏怖の前にまず、没入できるエクストリームな同情が重要なんだろうと思います。それが日本的な、巨人の肩に乗る、でしょう。 能町みね子の書いたものについて、カーリルで深く辿りたくなる一冊です。
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2023年5月3日水曜日に読了。村上龍は有名作家なので、この新刊書には、次の予約者がいます。おそらくその次の予約者もいるでしょう。私は、予約待ちしなければならない本は、図書館では借りません。みんなが読みたがって、順番待ちしている本は、私の読みたい本ではないのです。この本は、図書館に入荷したタイミングが、私が検索したタイミングとぴったり一致したので、予約待ちすることなく借りることができました。これもひとつの運命です。 時間は、未来から過去へと流れているのか、過去から未来へと積み上がるのか、川の流れのように考えれば、未来は山頂の分水嶺であり、そこから現在へ時間は流れています。逆に、時間とは過去から未来へと積み上がるものだとすれば、それは河口へと降る堆積物のようなものです。 村上龍のこの短篇集は、時間を堆積物と考えている作品群ではないかと思いました。ストックとしての時間です。You Tubeというメディアは、ストックのメディアでもあり、フローのメディアでもあります。もうすでに死んでしまっているアーティストのアーカイブとしても膨大であり、会社役員を辞めてユーチューバーになることを目指す、フロー型のコンテンツも膨大です。 You Tubeというものは、時間のメタファなのかもしれません。ストックとしての時間も、フローとしての時間も、Googleのサーバに無尽蔵にデジタル貯蔵されていく、なんとも不思議な存在です。71歳の村上龍にとっての時間と、You Tubeの時間が交錯する小説集、と捉えることができるかもしれません。
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2023年5月1日月曜日読了。「歿後弟子」という言葉は、西村賢太に教えてもらいました。この本は、『芝公園六角堂跡』と併せて、いわば「歿後弟子についてのコンセプト・ブック」です。西村賢太は確かに、私小説の書き手であったのですが、私によれば、西村賢太の本懐とは、藤澤淸造の歿後弟子であったろうと思います。私小説家という星々は文壇史にあまたあれど、歿後弟子の小説家・西村賢太は、唯一無比の北極星です。私小説のナンバーワンより、歿後弟子というオンリーワン、これこそが、西村賢太が多くの読み手を惹き付けた、真因だと思うのです。 この本は、極めて切実な掌篇集です。コロナ禍によって思うように物事が進まず、北町貫多はそもそも歿後弟子なる己のレゾンデートルまで疑い始めます。そして、己の死期がすぐそこまで迫っているのではないかという鋭い予感も、しかと記されているのです。 未完の絶筆であった『雨滴は続く』のあとに、この掌篇集が出された背景には、西村賢太の本性に惹かれ、その本質を理解していたであろう、彼の言うところの「サラリーマン編輯者」「小悧巧馬鹿」に、「この本こそを西村賢太最後の本としなければならない」といった強い意思があったのではないか、と想像する次第です。 彼の生は、いつでもいつまでも彼の遺した作品のなかにあります。
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2023年5月1日月曜日読了。夏葉社の本はいつも素晴らしいです。都市と地方の格差は、インターネットや宅配網の普及によって、縮んだようにも思えるのですが、最寄りのコンビニまで7キロ離れている田舎に住んでいる私としては、地方はますます朽ち果てつつあるなあと思っています。 格差の広がっていく真因はなんなのかといえば、やはりグローバル資本主義というか、より早く、よりたくさん、より生産性を高くしたもの(イーロン・マスクや、ピーター・ティールのように)が頂点に立つ、新しいカースト制度のようなもののせいだろうと思います。世界に広く普く及んでしまった、新自由主義のカースト制度からすれば、田舎に住んでいる人々や高齢者は、今日的な不可触賤民のような取り扱いとなっています。 この本に出てくる田舎の本屋は、新自由主義の原則をことごとく裏切って、成長しています。この本の著者あとがきに来て、初めて、ああ、そういうことだよなと腹落ちします。引用します。 「そんなことじゃ社会に出られないよ! そんなので社会に出てどうするの?」 短絡的ではありますが、これが学校に行けなくなった子を持つ親の気持ちだと思います。 この子が社会に出て大丈夫なのだろうかという親の心配であるとも思います。 でも、どうでしょうか。今のこの社会が良いものでしょうか? より多く持つ者が賞賛を 浴び、より早く進む者が高い報酬を得、より強い者がさらに強くなる世の中に送り出すのが 正解なのでしょうか? 引用は、以上です。「学校に行けなくなった子」のところを、「高齢者」や「田舎者」に変えてみても、意味は同じです。 新自由主義やグローバル化によって、役に立つもの、価値のあるものだけがただ追い求められ、それにたどり着けない弱い人々は、軽んじられるだけでなく、常に力いっぱい小馬鹿にされる、歪んだ社会、醜い牢獄のような時空になりました。 こうしたいわば、新生カースト社会に抗うためにも、本を読む必要があるでしょう。小さなコミュニティを、再めて編む必要もあるでしょう。この本はそのようなことに目をひらてくれる、素敵な本です。強くおすすめします。
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2023年4月29日土曜日読了。2010年の2月から7月まで、フランスの人気作家がシベリアのバイカル湖畔に隠遁した記録です。ただの隠遁ごっこ、猿岩石やドロンズと同じ範疇のコンテンツです。引用します。 隠遁は反逆である。小屋を手に入れること、それは監視画面から消えるということだ。隠遁者は姿を消す。彼はもはやインターネット上に記録を残さないし、通話履歴も銀行の取引データも残さない。 彼は逆ハッキングを実践し、パワーゲームから降りるのだ。 この一文に作者の隠遁への姿勢がよく表れているのですが、反逆としての隠遁は、長くはもちません。隠遁や漂泊とは、「反逆」のごとく「何かをする」ことではなく、己が「何もできない」こと、つまり無能であることの結果だからです。 反逆などと前にのめり、やたら勇んでしまうので、彼は毎晩大酒を喰らいます。この作者はすでにアルコール依存症だろうなと思います。気を失うほど酒を飲んで、「反逆」だなんてちゃんちゃらおかしいのです。アルコールとは、愚民どもの反逆心をなくすために、権力者が充てがう薬物です。漢字の民という字は、権力者によって目を潰された者、という表意文字です。アルコールは大衆目潰しの薬物なのです。 バイカル湖畔にようやっと届いた衛星電話で、彼女にフラれたことを知った作者は、そこから一気に心を持ち崩します。なんとも憐れな「反逆者」です。フランスのエスプリ? 間抜けなアルコール依存症によるただのぐだぐだ日記です。
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2023年5月7日日曜日読了。『美しい街』で能町みね子に触れ、その流れでKindle Unlimitedで耳読書しました。私はよくYou Tubeでヒルカラナンデスを観るのですが、能町みね子もヒルマニアでした。いままでなぜか彼女の作品は読んでなかったのですが、ゴールデンウィークになって、一気読みしています。
間借りカレーならぬ「間借り鮨まさよ」をめぐるコロナ禍後の日本。Netflixあたりでドラマ化されたらおもしろくなるのにな、と思いました。 世知辛い新自由主義に負けない、スローでしなやかな共同体をどうやってつくっていくか。これは良質な世話物であると同時に、ビジネス書でもあると思いました。