目次
『ジェンダー史叢書』刊行にあたって
序論――「権力と身体」をめぐって(三成美保)
第1部 身体とセクシュアリティ
第1章 総論――ジェンダー/セクシュアリティ/身体(荻野美穂)
第2章 「同性愛者」の歴史的機能(星乃治彦)
第3章 社会の護持と改編――二〇世紀初頭アメリカの性衛生学者モローをめぐって(松原宏之)
【コラム】
・古代ギリシアの同性愛(栗原麻子)
・キリスト教とセクシュアリティ(髙田京比子)
・インドの「ヒジュラ」――セクシュアル・マイノリティとしての歴史(國弘暁子)
第2部 権力と生殖
第1章 近世の生殖政策と女性・家族・共同体(太田素子)
第2章 アメリカ合衆国における生殖のコントロールと人種関係――優生学と優生思想をめぐって(上杉佐代子)
第3章 中国におけるバース・コントロールの方法(小浜正子)
第4章 戦後ドイツの生殖法制――─「不妊の医療化」と女性身体の周縁化(三成美保)
【コラム】
・「産婆」の登場――「産婆」とは誰か(沢山美果子)
・産児調節運動と政治権力(石崎昇子)
第3部 買売春と人身売買
第1章 日本における買売春の成立と変容――古代から中世へ(服藤早苗)
第2章 公娼制の成立・展開と廃娼運動――日本近世~近代へ(曽根ひろみ・人見佐知子)
第3章 人身売買─性奴隷制を考える(若尾典子)
第4章 被差別部落と買売春(藤目ゆき)
【コラム】
・フランスにおける買売春の歴史と現代(中嶋公子)
前書きなど
序論――「権力と身体」をめぐって
はじめに
歴史学は、伝統的に「権力(power)」を問うてきたが、「身体(body)」を問うことはなかった。「学問としての歴史においては長い間、身体は自然に属し文化に属するものではないとする考え方が優勢であった」からである。身体と精神を分け、精神を身体に優越させる心身二元論は、西洋社会では古典古代、ユダヤ教、キリスト教の伝統に根ざす。これを明確に理論化したのが、一七世紀のデカルトである。デカルト的二元論にしたがって、近代科学は、精神を人文・社会科学の対象とし、身体を生物学や医学などの自然科学の領域においた。同時に、「精神=文化=理性=公=男性/身体=自然=感情=私=女性」というジェンダー規範が確立し、近代市民社会のジェンダー秩序を規定する。
フランス=アナール学派の泰斗ジャック・ル=ゴフによれば、ジュール・ミシュレ『魔女』(一八六二年)を例外として、社会科学においてはじめて身体が語られたのは、身体を著しく抑圧・管理したファシズムの時代である。これら一九三〇~四〇年代の研究は、伝統的な身体蔑視への異議申し立てに基づいており、その限りで「権力と身体」の問題を内在化させていた。しかし、性愛や生殖がそれ自体として問われたわけではない。女性と男性の身体の差異化についての自覚も乏しい。
一九六〇~七〇年代、身体に対する研究関心は大きく変化する。第一は、『狂気の歴史』(一九六一年)にはじまるフーコーの一連の研究である。これは、西洋合理主義を批判的に検討する流れに位置する。『性の歴史』(一九七六年)は性愛に焦点をあて、近代が異性愛を強制する社会であると論じた。第二に、「新しい歴史学(new history)」(社会史)が家族や私事を論じるようになった。第三が、ジェンダー研究である。しかし、近代的ジェンダー規範を批判するべく登場した「ジェンダー/セックス」二元論もまた、身体(セックス)を「自然的/不変的」とした限りで「精神/身体」二元論を抜け出ていない。一九八〇年代末以降、フーコーのポスト構造主義的な考え方を受け入れたナンシー・フレイザーやジュディス・バトラーらのフェミニストによって「ジェンダー/セックス」二元論が克服され、身体の歴史的構築性が論じられるようになる。以下、本書所収の諸論攷の位置づけをはかりながら、全体の見取り図を示しておきたい。
1 権力と身体
ジェンダー視点から「権力」を問うとき出発点となるのは、第二波フェミニズムの「バイブル」とされたケイト・ミレット『性の政治学』(一九七〇年)と、のちのフェミニストに多大な影響を与えたフーコーの言説理論であろう。
ミレットは、ウェーバーの有名な定義(「ごく一般的な意味の権力支配、つまりある人間の意志を他人の行動に押しつける可能性」『社会学の基礎概念』)を引用しながら、両性の関係は「権力」の問題にほかならないとし、これを「性の政治学(sexual politics)」とよんだ。「性による支配はわれわれの文化のおそらくもっともいきわたったイデオロギーとして通用し、またわれわれの文化のもっとも基本的な権力概念を与えている。これというのも、われわれの社会が、他のあらゆる歴史上の文明と同じく、父権制だからである。軍隊、産業、テクノロジー、大学、科学、行政官庁、経済──要するに、社会の中のあらゆる権力の通路は、警察の強制的暴力まで含めて、すべて男性の手中にあることを想い起こせば、この事実はただちに明らかになる」。
これに対し、フーコーは、抑圧者と被抑圧者という単純な権力モデルをとらない。彼によれば、特定の権力者がいるのではなく、行為者自体が権力ネットワークに従属しており、権力は言説を通じ、あらゆる社会関係を介して浸透するが、抑圧的でもあれば生産的でもある。「言説は権力を伝達し生産する。言説は権力を強化する。しかし同時に権力を掘り崩し、白日のもとに引きだして脆弱にし、権力を阻止することも可能にする」。フーコーによれば、権力には新旧二タイプがある。「死に対する権力」(「死なせるか生きるままにしておくか」)と「生に対する権力」(「生きさせるか死の中へ廃棄するか」=「生‐権力」)である。前者は古い権力であり、専制君主や絶対王政などの伝統的権力をさす。後者の「生‐権力」は、「生命に対して積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、生命に対して厳格な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力」であり、一七世紀以降発展し、資本主義の発達に不可欠の要因となる。こうした権力概念を用いて、フーコーは、「権力と身体」の関係にも深い洞察を示す。「権力関係はただちに身体のうちにその場を占めるのである。そして、身体を占領し、その跡を残し、あるいは身体を訓練したり、拷問を加えたり、労働へ向かうように強いたり、儀式への参加を義務づけたり、さまざまな態度を要求したりするのである」。
フーコー自身は、ジェンダーを理論化できなかった。彼が主に論じたのは、男性社会における「男性性」とその裏返しとしての男性同性愛の問題であり、女性への言及は乏しい。一九八〇年代になると、ジェンダー研究における「権力」概念はいっそう深まる。キャサリン・マッキノン『フェミニズムと表現の自由』(一九八七年)は、セクシュアリティ(たとえばポルノグラフィー)は権力の一作用であると主張した。ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力』(一九八〇年)は、男女双方にとって「異質的他者」たる母なるものを「正しき社会」が常に棄却(アブジェクト)しようとすると指摘した。
ピルチャー=ウィラハンによれば、ジェンダー研究における身体には三つのカテゴリーがある。(1)「自然としての身体」、(2)「社会的構築物としての身体」、(3)「身体化(enbodiment)」である。これら三者は、ピエール・ブルデューの言う「ハビトゥス(habitus)」としての身体技法に深くかかわる。特定の身体規範を含むジェンダー秩序のもとで生きる者は、教育等を通じてその秩序を内面化すると同時に、秩序に即した行動を無意識にとるようになる。これがハビトゥスである。身体技法と身体感覚と知覚図式は互いに結びつきながら、身体の男女差を規定していく。
「権力と身体」を問おうとすれば、多様な身体に作用する権力と権力に適応する身体の双方を見なければならない。こうした視点に立ち、本書は三部構成をとる。第1部「身体とセクシュアリティ」は、セクシュアリティ規範といわゆる「性的マイノリティ」形成の相互作用について論じる。第2部「権力と生殖」は、国家・市場権力による生殖コントロールと家族・個人による生殖自律との協働・対立関係を描く。第3部「買売春と人身売買」は、女性身体の商品化の歴史をたどる。全体としては女性身体をめぐるテーマが多いが、男性身体および非女性身体については第1部で論じる。
(…後略…)