目次
I 思想問題としての戦後
思想問題としての戦後
戦後社会の変化を考える――変化を自覚化するために
「戦後」は終わらせない――「戦後」の再定義をめぐって
なぜ亡霊は何度も出現するか
戦後五〇年目の年
戦後五〇年に問われるもの
戦争は語られたか
II 戦後日本の政治と社会
崩壊した職業倫理
日本は本当にダメか
証拠を隠滅する国家
権力についての三つの話
国家の時代を考える
テレビの威力と限界
現代における反動とは何か
地方は何故衰退するのか――地方・中央関係の史的考察
再び核兵器廃絶の声を
格差社会と政治の可能性
あいまい国家日本の由来
III 戦後思想家断想
時代的共通体験について
現代に丸山真男を読む――理論的思考の復権のために
八〇年代を挑発する戦後民主主義者――久野収著『戦後民主主義』を読んで
久野収
否定形の発想
あとがき
初出一覧
前書きなど
あとがき
第二次大戦が終わって、六五年が経過しようとしている。この間、人類はどれほどの進歩を遂げてきたのであろうか。科学技術の進歩は目覚ましく、生産規模の拡大も著しく、人々の暮らしぶりは一変した。日本に限っていえば、「一身にして二世を閲する」といっていいほどの大きな変化があった。戦後を思わせるものは、意図的に残されたもの以外にはどこにもない。戦争を直接知る世代も大部分は鬼籍に入り、「戦争を知らない子供たち」どころか、その子や孫の世代が社会の中心になろうとしている。
そんな時に「戦後」を問う著作を世に送り出すことに意味があるのかと自問しないわけではない。しかし、戦争が、そして戦争の終わらせ方が、人類と日本に突きつけた問題の答えは見えてきたか、戦後という時間がすでに終わってしまったとすれば、答えの見えない問題はどこにいってしまうのか、そういう疑問が消えないかぎり、「戦後」の意味を問い続けなければいけないという思いを消すことはできない。皮肉なことに、「大東亜戦争肯定論」や「日本は悪くなかつた」というような言説が依然として繰り返されるという現実が、「戦後」はまだ終わっていないことを逆に証明してしまってもいる。
「戦後」は、たしかに押しつけられて始まった。その押しつけられたという意識が、いつまでも「戦後」を主体的にとらえかえすことを妨げている。つまり、突きつけられた問題に正面から取り組むことができない状況が依然として続いているということである。日本は、「敗戦国」であったが故に、戦争と戦争の終わらせ方が突きつけた問題にもっとも深刻に直面することを余儀なくされた。そのことを直視し、その問題に全力をあげて取り組んできたならば、日本は、戦争のない世界を実現するために、あるいは、たとえ戦争が起こってしまったとしてもその悲惨さをできるかぎり小さくする方策を見出すために、もっと大きな貢献をなしえたであろう。
たしかに、それらの問題のひとつである核軍縮の点では、日本は人類と国際社会にたいして、日本でなければできない一定の役割を果たしてきたかもしれない。しかし、問題はそれにとどまらない。自分が加害者であった問題を含めて、徹底した事実と原因の究明と同じ過ちを二度と繰り返さないための方策を提起しなければならなかったはずである。その意味で、「戦後」はいつまでも問い続けられなければならない問題を残しているといわざるをえない。本書をあらためて世に送り出す理由はそこにある。
本書に収録した文章は、その時その時の状況に対して発言すべく、綴ってきたものである。多様な問題を多様な角度から論じているため、内容的に一貫性に欠ける印象を与えるかもしれない。しかし、どの文章も筆者なりに「戦後」という問題を意識しながら書いてきたつもりである。その点を読み取っていただければさいわいである。
(…後略…)