紹介
戦間期の1920年代。オーストリアの文豪・ヨーゼフ・ロートが旅した、言語・文化・宗教のモザイクのような世界、ウクライナ・ロシアの諸都市の人々の暮らしと現実の記録。
キエフ、モスクワ、そしてオデッサへ、さらにレンベルク、バクーあるいはアストラハンへの取材旅行の途上、作家でありジャーナリストでもあるヨーゼフ・ロートは、変幻きわまりない東欧の宇宙空間に潜り込む。1920年代に書かれた彼のルポルタージュは、この時代、この世界で目撃した現実を生き生きと伝える感動的な証言集だ。
ロートの注意深い眼差しは、異なった言語や文化や宗教が隣り合わせにひしめき合うソヴィエト連邦の人々と、彼らの暮らしの現実の姿へ向けられる。この眼差しこそは、レニングラードの路上で繰り広げられるせわしない日常生活でも、ネゴレロイエの国境検問所でも、あるいはヴォルガ川を航行する蒸気船の上でも、どこであれ、ロートが事実を探究し、その独自な文体によって描き出した世界を貫くものだ。その際彼は、国家と教会、独裁政治と言論・表現の自由、貧富の格差など、この社会に存在する抜き差しならない対立関係を描き出す。それと同時に、故郷を失った彼のような者が、旅に身を任せ、ペンを走らせながら、批判的に物事を理解することを通じて、自分自身の故郷を少しずつ回復していく様子が描かれる。それは、彼自身の言葉という故郷だった。
カフカと同じ時代を生きたオーストリアの文豪ヨーゼフ・ロートが、作家・記者の目で観た東欧諸都市の景観と人々の暮らしを独特のスタイルで書き綴った魅力あふれる紀行文で、未発表のまま残されていたウクライナとロシアの旅の報告から、珠玉の17篇を収録。ロートファンならずとも、今、世界史の大転換の一つの中心であるウクライナ・ロシア。戦間期の諸都市の姿がロートの精緻な観察と精妙な筆致によって読者の脳裏に蘇る。読む喜びが帰ってくる寄稿文の楽しさを味わってください。
目次
一 東からの便り
ウクライナブーム ベルリンの最新流行
ウクライナ少数民族
リヴィウ
障害者の葬列
二 ロシアの風景
トコジラミと過ごした夜
レニングラード
三 ソビエトの現実
国境のネゴレロイエ
モスクワの亡霊
ヴォルガ川をアストラハンまで
アストラハンの不思議
カフカスの民族模様
ロシアの大通り
アメリカを目指すロシア
女性と新しい性道徳と売春
教会、無神論、宗教政治
村に広がる町
世論と新聞と検閲
ロシアの神
あとがき
編集者あとがき
謝辞
前書きなど
一 東からの便り
ウクライナブーム ベルリンの最新流行
ベルリン、一二月一三日
ときどき、ある民族がブームになることがある。以前は、ギリシャ人、ポーランド人、ロシア人が
人気だったが、今はウクライナ人だ。
私たち西の人間はウクライナ人についてあまり多くを知らない。知っていることといえば、彼らが
カフカス山脈とカルパティア山脈に挟まれた草原と湿地の国で生きているということ、ウクライナ台
地は標高が高くて比較的住みやすい土地であったことぐらいだろう。それ以外では、オーストリア人
の戦争外交官が素人仕事から結んだブレスト=リトフスク条約、通称「パンの平和」がウクライナ人
と関係していることをなんとなく知っているだけだ。要するに、私たちは「ウクライナ人」という民
族についてほとんど何も知らないのである。彼らは人食い人種かもしれない。読み書きができないの
かもしれない。人種的には「ロシア人の一種」で間違いなく、宗教的には顎髭を生やした司祭が、金
やミルラや香煙を使って儀式を行う原カトリック的な異教を信じている。
このように私たちはウクライナという土地と人についてわずかなイメージしかもっていない。だか
ら惹かれるのである。ポーランド人はもう十分すぎるほど西欧化されている。ギリシャ人についても、
映画女優と同じようにギリシャの王も猿に噛まれることがあるという事実を中央ヨーロッパが知って
以来、知らないことは何もない。ロシアは数多くのドイツ人が移住したり戦争で捕虜になったりした
ので、もはや外国とは思えないため、寄席や喜歌劇の題材にはなりえない。残るは「ウクライナ」だ
けだ。
(かつてのポーランド立憲王国の)ルブリンから移住してきた貧しいユダヤ人がベルリンの東部でた
ばこ屋を始めたのだが、店の看板にキリル文字で「ウクライナ・オリジナル」と謳っている。さまざ
まなコーヒー・ショップでは若い女性が最新のアメリカン・ジャズに合わせて踊るのが流っているが
その踊りは「ウクライナ民族舞踏」と呼ばれている。しかし最新の流行は、何といっても〝ウクライ
ナ風〞パントマイムとバレエだろう。
ベルリンは奇妙なほどウクライナ風オペレッタに夢中になっていて、少しでもスラブっぽく聞こえ
る旋律はすべて「ウクライナ風」と形容される。この流行に火をつけたのはもちろん本物のウクライ
ナ人、正確にはウクライナ合唱団だ。合唱団はベルリンをはじめヨーロッパの各都市で公演を行い、
大成功を収めたのだが、それがきっかけで、国家あるいは政治体制などといったものを利用して金儲
けができることに人々が気づいたのである。しかもこの流行がある現象を引き起こしている。ロシア、
ウクライナ、ポーランドなどの東欧諸国から西欧に移住してきた人々が、ウクライナブームに便乗し
て自分たちを古い「ウクライナ人」と呼ぶようになったのだ。
したがって、いわゆる〝ウクライナ〞バレエは、タタールとロシアとコサックの要素が少しずつ入
り交じったごちゃ混ぜ状態になっている。娯楽産業の目的は民族文化を学術的に研究することではな
く、人々を楽しませることにあるので、これを問題視する必要はないのかもしれない。だが、ある民
族の芸術を元がわからなくなるほど歪めるのはよくない。それがボリシェヴィキとポーランド人に故
郷を奪われた哀れな民族の芸術ならなおさらだ。
訓練が厳しく、本当にすばらしい舞踏芸術を見せることで知られるアイスパラストでは、現在バレ
エ劇の『赤い靴』が披露されている。この作品はウクライナの伝説にもとづいているとされているの
だが、舞台背景に描かれた教会はウクライナ(つまりギリシャ・
カトリック教会)のものではなくロシア正教会のものだ。
作品のヒロインはロシア風の髪飾りを頭に付けている│ウクライナの女性が髪飾りにするのは花だ
けで、袖と裾に青と赤の飾りがついた白いブラウスを着る。金刺繍の入ったシルクの上着を身につけ
ることはない。チェルケス人が生活していたのはウクライナではなくカフカス地方。ウクライナの農
婦が履くのは短いブーツであり、白いバレエ靴ではない。一部の「ホパック」と「コロメイカ
(ウクライ
ナ舞曲)」を除いて、舞台上では基本的にロシア舞踊が用いられている。
ザラザーニ・サーカスでは、ポーランド王の命により裸で馬の背にくくりつけられ、数日間ウクラ
イナの草原を引きずり回されたウクライナ人コサックの英雄にして指導者の〝マゼッパ〞の物語が披
露されているのだが、ここでもまたウクライナの歴史がロシア風にアレンジされている。ウクライナ
の聖職者はギリシャ・カトリック教会に仕え、ロシア正教の司祭のような髭は蓄えない。
ウクライナ舞踏団のグラーゼロフは本当にウクライナ人で構成されているのだが、ウクライナ風を
強めるためにあえてナイフを使った踊りを採り入れている│まるでアメリカ先住民だ。彼らはキエ
フで有名な踊り手なのだが、高い料金を支払った西欧人にはコロメイカは退屈だろうと考え、わざわ
ざ「荒々しい踊り」を見せるのである。実際には、ウクライナ人がナイフを口にくわえて踊ったりす
ることは決してない。
本物のウクライナの民族芸術はとても特徴的で、ロシア人やポーランド人あるいはタタール民族の
それとはまったく違うものだ。しかしここで興味深いのは、ある国家は国家としての独立を失ったと
たんに、喜劇や歌劇あるいは寄席で注目されるようになるという現象のほうである。
西欧諸国における舞台の流行のバロメーターともいえるベルリンは、最近ずっと「ウクライナ的な
もの」を上演しつづけている。
ロート
『ノイエ・ベルリーナー・ツァイトゥング』一二時版、一九二〇年一二月一三日