目次
[増補決定版]まえがき
はじめに 『みどりの仮面』とエコロジー
序章 なぜエコロジーか? ガタリとは誰だったか?
第一章 自然を再考する
第一節 仕組みとしての自然
第二節 アンビエンスとしての主体感
第三節 機械状アニミズムと反自然の融即
第二章 エコソフィーとカオソフィー
第一節 分子革命からエコソフィーへ
第二節 カオスとカオスモーズ
第三節 潜在性と記号
第三章 分裂生成の宇宙
第一節 美的なものと地図作成法
第二節 DSM-V、あるいは発達原理の彼方に
第三節 リトルネロと音楽のエコロジー
終章 ブラジルと日本を横切って……〈全=世界〉リゾームへ
あとがき
前書きなど
はじめに『みどりの仮面』とエコロジー
小学生の時分に読んで、いまだにもっている本が何冊かある。旧ソ連で出版された児童文学『みどりの仮面』(ホルゲル・プック作、岩波書店)も、そんなときどき開いて真面目に読む一冊だ。
舞台となっているソ連邦のエストニア共和国は子ども心には何の具体像も結ばなかった。けれどいくたびか物語を読みなおすうちに、冷戦の一方の極にあった国家の学校教育や日常生活、特にピオネール(共産主義少年団)の成り立ちや歴史、そしてバルト海沿岸の社会の様子がかすかに見えてくるようになった。
なぜ「緑」なのか? この物語には自然を傷つける、たとえば植物を折ったり、動物を虐待したりするような者には大人であれ、子どもであれ容赦なく公的に恥をかかせるような制裁を加える謎の仮面の少年少女による集団「みどりの仮面」が登場する。この集団はピオネールとは別の秘密結社、あるいはピオネール内部の一種の分派として登場する。ピオネールのマフラーの赤と秘密組織の仮面の緑に社会主義とエコロジーの思想的な対比を深読みすることはできるだろうか。ひょっとして、この作品には子ども向けという以上の狙いや動機が潜んでいたのかもしれない。そもそも赤と緑という対置じたいが何かをほのめかしてはいないか。ラトビアやリトアニアと並んでソ連邦崩壊のきっかけになったバルト三国の相次ぐ独立につながる機運は、エストニアにおいてもすでに七〇年代から「長い持続」のなかで育まれていた。むろん、そこには民族主義や市場至上主義も醸成されていたのだろうが……。
もちろん、ここまで小学生には考えがおよばなかったとはいえ、後年この物語を読みなおす時々に別の思案も芽生えてきた。エストニアが「赤い帝国」のイデオロギーと支配から離脱、独立する過程で「緑」(エコロジー)はどんな役割を果たしたのか、果たしていなかったのか、また作者には社会主義内部の「別の社会」という構想があったのかどうか、といった問題である。そう読むと、この児童向けの小説が全く現代の世界においても斬新な切り口を失っていないことに端的に驚かされる。
「敵のマークを右手に押す」という「みどりの仮面」の活動(運動?)はどのようにとらえればいいだろうか? むろん、これは非暴力の活動であり、抗争相手に暴力をふるったり、敵を殺害したりする破滅的な段階にまでエスカレートさせない技や工夫として見ることもできる。マークを押された者は、自分がなぜそのような目にあったかを考えざるをえなくなるからだ。
九六年頃だったろうか、ヘッジファンドの大立者、投資の錬金術師、金融工学の巨匠とされるジョージ・ソロスの「開かれた社会」財団Open Society Foundationによる後援を受けた、ヘルシンキで開催された小さな国際会議「メディアと倫理」で論文を発表したことがあった。この会議でエストニアから来ていた連中に出会ったとき、ホルゲル・プックを知っているか尋ねてみた。相手は、なぜ日本人がエストニアの作家を知っているのか目を白黒させていた。
このとき会ったエストニア人のなかには、のちにリナックスのオープンソース運動に参加した者もいれば、ウィキリークスの活動家や「アノニマス」のハッカーの末端になって活躍している者もいる。旧ソ連に生まれ、二〇代で九一年の社会主義の崩壊や、共産党の圧政からの解放、民族的独立の動きを目のあたりにした連中と、『みどりの仮面』の主人公たちは、そもそも同じような世代であり、どこか重なって見えてくる。思い返せば「エコロジー」(生態学)の発想や自然や環境の保護の社会運動めいたものに筆者がふれたのは、この児童文学との出会いにさかのぼることに気づく。
エストニアという国にとって、チェルノブイリの原発事故は深刻な影響や今日にもつづく不安をもたらした。実際、チェルノブイリ事故は、エストニアもまだその一部であったソ連邦崩壊の引き金であった。財政要因と環境に対する甚大な影響の二つが主要な理由としてあげられる。そして七○年代の左派の失墜を受けた八〇年代には、ヨーロッパ諸国においても少数民族、移民、社会的周縁の少数者(マイノリティ)などが自らのアイデンティティを政治や社会運動の賭け金、もしくは主義主張の立脚点として明確に打ち出しはじめた。『三つのエコロジー』においてもガタリは反原発運動と地域や民族の自律や解放の運動や闘争の不可避的な横断性について、コルシカ島やバスクの例をあげつつ、はっきり注意を喚起している。
『三つのエコロジー』は小さいが怜悧で、ガタリの著作のなかでも重要でカギとなる本である。残念なことに、ぱっと読んだだけで誰もが「すぐにわかる」という手合いの書物ではない。ガタリ特有の概念が矢継ぎ早に使われた悪文のため難解で特異な表現が多く、およそ読みやすくはない。それでもこの本は、まさに「今ここ」に何かを伝えているように思える。
本書ではこのテクスト、および関連するガタリの著作、特に『分裂分析的地図作成法』や『カオスモーズ』の重要と思われる点にあたっていき、解釈や分析を加えていく。これまでガタリ(あるいはドゥルーズ)に縁のなかった読者にとって、特に概念や用語の解説の点で一定程度はナヴィゲーションに役立つようにしてみたい。難しいけれどガタリ特有の不思議な文章や概念の含意とリズムをそこなわないように。同時に『三つのエコロジー』という書物を今日の状況、過酷な原発事故や地震の余波にあえぐ「日本語環境」でどのように読むことができるか、ということも考えたい。
本書の構成についてざっとふれておこう。序章では、フェリックス・ガタリという思想家の大まかな像をあらためてふりかえり、彼がどのようにエコロジーに出会い、向かっていたか、そのときにどのような概念が新たに作られ、実験的な理論化がなされたかを検討する。
第一章では、ガタリのエコロジー、および生態哲学(エコソフィー)にとっての「自然」概念が、「機械状の仕組み」machinic assemblagesの概念によってどのように彫琢され、また脱構築されているかを確認しつつ、彼独自の概念である「主観性の生産」――本書の議論では特に宮林寛の訳語にもとづく「主体感の生産」という日本語で提起される――について分析する。さらにここからガタリがときおり関心を見せるアニミズムの問題をより現代的な文脈と状況で考えるために、マウリツィオ・ラッツァラートの提起する「機械状アニミズム」machinic animismの概念を手がかりにガタリのエコソフィーの可能性を探っている。
第二章では、七〇年代と八〇年代のガタリの議論、概念構成の違いをふまえながら、エコソフィーの構想がすでに早い時期から生まれていた経緯を確認する。あわせてガタリのカオス理論・現象への関心の意義を探りつつ、彼の「カオスモーズ」概念について考えている。また彼の主張する「言語の外に出る」記号論、ダイアグラムや「地図作成」といった概念に開かれたダイナミックな記号論のなかに、のちの潜在的なものthe virtualの概念とも重なる潜勢力the potentialや可能性the possibleの概念が使用されている点について分析する。
第三章は一種の応用編として、美的なものと地図作成、DSM-Vはじめ発達障害や自閉症スペクトラムの診断基準に振り回される日常などをガタリや彼につづく論者たちの理論に参照しながら考えている。また音楽におけるビートやリズムと資本主義的なリトルネロ(反復リズム)の根元的な関わりをとらえ返す。終章ではなぜガタリがブラジルと日本という二つの社会に強く惹かれたか? という点から、ガタリの思想圏を新たな文脈に開くことを試みる。