目次
目次 2
はじめに 6
各時代の亡命の波 9
オーストリア=ハンガリー二重君主国地図 12
旧ハンガリー王国都市解説 16
年表 20
第一章 ハンガリー建国~オスマン帝国支配~ハプスブルク帝国支配(1000年〜1867年) 25
オーストリアに反旗を翻しトランシルヴァニア公名乗るも敗北、オスマン亡命
ラーコーツィ・フェレンツ二世 II.Rákóczi Ferenc 36
コラム オスマン帝国のハンガリー人亡命者コミュニティーがあった街 42
コラム 1848 年革命の敗北―第一の亡命の波 44
1848年革命で敗北後、アメリカで人気に。後に「ドナウ連邦構想」まとめる
コッシュート・ラヨシュ Kossuth Lajos 50
1848 年革命恩赦で帰国、二重君主国外相としてベルリン会議でボスニアまで取得
アンドラーシ・ジュラ Andrássy Gyula 55
1848 革命後、死刑宣告、伊ガリバリディ参加、恩赦で国立博物館館長就任
プルスキー・フェレンツ Cselfalvi és lubóczi Pulszky Ferenc Aurél Emánuel 58
「強いハンガリー」論提唱、アウスグライヒも支持し、宗教・教育大臣就任した作家
エトヴェシュ・ヨージェフ Eötvös József 61
1848 年革命後、ブラームスと演奏旅行、ヴィクトリア女王のお抱えヴァイオリニストにも
レメーニ・エデ Reményi Ede 64
1848 年革命、フランクフルト国民議会ハンガリー代表、帰国後は科学アカデミー議長
サライ・ラースロー Kéméndi Szalay László 66
メンデルスゾーンに師事、ブラームスと意気投合、リストとワーグナーに反対宣言
ヨアヒム・ヨージェフ Joachim József 68
コラム ハンガリー王国のユダヤ人コミュニティー:シュバイア・ケッヒロート 70
第二章 オーストリア=ハンガリー二重君主国時代
(1867年~1918年) 71
パリ・コミューンに参加した第二インターナショナル創始者の一人
フランケル・レオー Frankel Leó 81
ペテルブルグで「皇帝のソリスト」得るもロシア革命で渡米ジュリアード音楽院教鞭
レオポルト・フォン・アウアー Leopold von Auer 84
少数民族自治認める「東のスイス」構想抱いたハンガリー少数民族担当大臣
ヤーシ・オスカール Jászi Oszkár 88
ユダヤ人独立国家建設目指し、「世界シオニスト協会」設立、死ぬまで議長の座に
ヘルツル・テオドール Herzl Theodor 91
コラム アウスグライヒから崩壊まで─オーストリア=ハンガリー二重君主国からの亡命 94
第三章 ハンガリー第一共和国~ハンガリー・ソヴィエト時代
(1918年〜1919年) 99
「アスター革命」でハンガリー共和国初代首相、第二次大戦後凱旋帰国後再度亡命
カーロイ・ミハーイ Nagykárolyi Károlyi Mihály Ádám György Miklós 108
ハンガリー・ルーマニア戦争後、ソヴィエト政権の後始末を任された社民内閣首脳
ペイドル・ジュラ Peidl Gyula 111
ロシアに続く世界第二の赤色革命政権ハンガリー・ソヴィエト共和国の指導者
クン・ベーラ Kun Béla 113
ハンガリー・ソヴィエト共和国で革命評議会議長を務めた社会民主主義者
ガルバイ・シャーンドル Garbai Sándor 116
ハンガリー・ソヴィエト政権で財務大臣就任、後にソ連を代表する経済学者に
ヴァルガ・イェネー Varga Jenő 118
貴族出身でありながら反戦運動・ソヴィエト政権に参加、カール・ポランニーと結婚
ドゥチンスカ・イロナ Duczyńska Ilona 122
赤色テロルの理論家、赤軍指揮官から『歴史と階級意識』で東欧代表する思想家へ
ルカーチ・ジェルジュ Szegedi Lukács György Bernát 124
エイゼンシュタインにも影響を与えた映画理論家・脚本家
バラージュ・ベーラ Balázs Béla 128
コラム 大学名変遷 131
第四章 ハンガリー王国時代(1920年〜1946年) 133
一節 政治家・学者 147
海軍提督からハンガリー王国摂政に就任し、ナチス・ドイツから圧力受けつつ連合国と和平探る
ホルティ・ミクローシュ Vitéz Nagybányai Horthy Miklós 148
コラム トリアノン条約によるハンガリーの損失 154
伊傀儡ピンドス・マケドニア公国元首に祭り上げられた反共・反ナチ・親ユダヤの貴公子
チェスネキ・ジュラ Vitéz cseszneki és milványi gróf Cseszneky Gyula 156
ナチスから「騎士鉄十字章」を授与されるもユダヤ人移送停止、和平交渉模索
ラカトシュ・ゲーザ Vitéz csíkszentsimonyi Lakatos Géza 158
オーストロ・ファシズムから英亡命、『大転換』で社会経済学者として世界的名声
カール・ポランニー Karl Polanyi 160
科学哲学「暗黙知」概念提唱、実兄カール・ポランニーと疎遠に
マイケル・ポランニー Michael Polanyi 164
大衆社会論に影響を与えた『イデオロギーとユートピア』が知識社会学の基盤に
カール・マンハイム Karl Mannheim 167
コラム トリアノン条約とハンガリー系少数民族たち 169
二節 芸術家 173
コダーイと共に『ハンガリー民謡集』出版、「音楽人民委員」でもあった民族音楽学の祖
バルトーク・ベーラ Bartók Béla Viktor János 174
戦時下英BBC からプロパガンダ放送、1956革命後、英再亡命し「亡命作家同盟」主宰
イグノトゥス・パール Ignotus Pál 178
陶器製造でドイツ・ソ連・アメリカで活躍したポランニー兄弟の姪
エヴァ・ザイゼル Eva Striker-Zeisel 180
「第一次反ユダヤ法」でアルゼンチンに逃れたボールペンの発明者
ビーロー・ラースロー Bíró László József 184
「水中のスイマー」で「歪み」を追求、『パリの日』で米で大成功を収めた写真家
ケルテース・アンドル Kertész Andor 186
『パリの夜』で国際的名声を勝ち得、MoMa個展、二度のフランス芸術文化勲章受賞
ブラッシャイ Brassai 190
国際写真家グループ「マグナム・フォト」結成した世界最高のフォト・ジャーナリスト
ロバート・キャパ Robert Capa 192
『ライフ』誌のケネディ大統領選挙キャンペーンで知られるロバート・キャパの弟
コーネル・キャパ Cornell Capa 196
フランス・レジスタンスで活躍したユダヤ系ハンガリー人写真家
マルトン・エルヴィン Marton Ervin 198
コラム ハンガリーにおけるホロコースト 200
三節 物理学者・逃亡者(「戦争犯罪人」) 207
人類史上最高のIQ300 頭脳を持ち、マンハッタン計画にも参加した数・物理学者
ジョン・フォン・ノイマン John von Neumann 208
コラム 原子爆弾開発に関わったユダヤ系ハンガリー人 亡命学者たち 211
大統領への嘆願書提出、マンハッタン計画から外され、戦後は核抑止論者に転じた
レオ・シラード Leo Szilard 213
米政府機関要職にも在籍し、ノーベル物理学賞含む数々の賞を受賞するも晩年哲学に傾倒
ユージン・ポール・ウィグナー Eugene Paul Wigner 220
オッペンハイマーとも対立し、イグノーベル賞を受賞した事もある「水爆の父」
エドワード・テラー Edward Teller 224
ナチスの後押しを受けホルティ摂政を引きずり落とし権力の座に就いた矢十字党の党首
サーラシ・フェレンツ Szálasi Ferenc 228
ユダヤ人虐殺関与、カナダで美術商等営み67 年間逃亡、最高裁一時停止直後死亡
チャターリ・ラースロー Csatári László Lajos 232
大量虐殺に関与するとされるも、証拠不十分で無罪確定した一ヶ月後の97 歳で死亡
ケーピーロー・シャーンドル Képíró Sándor 234
コラム 第二次大戦におけるスウェーデンの立場とラウル・ワレンバーグの活躍 236
第五章 ハンガリー第二共和国時代(1946年~1949年) 243
戦後初の連立内閣で第一党、独立小農業者党の代表として第二共和国初代首相に選出
ナジ・フェレンツ Nagy Ferenc 250
アイヒマンと交渉した事で告発され、暗殺されるも名誉回復されたシオニスト
カストナー・ルドルフ Kasztner Rudolf 253
ビタミンC 発見し、ノーベル生理学医学賞受賞、連合国との和平の密使としても奔走
セント=ジェルジ・アルベルト Nagyrápolti Szent-Györgyi Albert 258
第六章 ハンガリー人民共和国時代(1949年〜1989年) 263
政敵ライクを反ティトー運動で処刑しミニスターリン化するもスターリン批判で失脚
ラーコシ・マーチャーシュ Rákosi Mátyás 275
ラーコシ失脚後、ユーゴとの和解に呼び出され、帰国直後にハンガリー「革命」勃発
ゲレー・エルネー Gerő Ernő 280
ハンガリー「革命」ソ連軍侵攻から15 年間、アメリカ大使館に匿われた枢機卿
ミンツェンティ・ヨージェフ Mindszenty József 283
「なんの強要もありません」─ライク事件連座の文学的自白回想録が歴史資料に
サース・ベーラ Szász Béla 287
コラム 国に残った1956 年「革命」の立役者、偉大な政治哲学者
ビボー・イシュトヴァーン Bibó István 289
ライク事件で駐仏カーロイ・ミハーイ大使と共にハンガリーとの関わり絶った東欧研究の祖
フランソワ・フェイトー François Fejtő 294
スターリニズム批判や『真昼の暗黒』で知られ、各地を放浪、女性遍歴多数で最後は自殺
アーサー・ケストラー Arthur Koestler 297
ノリリスクやクラスノヤルスクなどの僻地に送られた「ハンガリーのソルジェニーツィン」
レンジェル・ヨージェフ Lengyel József 302
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで「反証可能性」科学哲学を深める
ラカトシュ・イムレ Lakatos Imre 306
「1956 革命」のフィルムが米CBS で放送、アメリカン・ニューシネマの旗手となる
コヴァーチ・ラースロー Kovács László 309
「1956 革命」のフィルムをアメリカに持ち出し、カメラマンとして大成
ジグモンド・ヴィルモシュ Zsigmond Vilmos 311
世界各地の名門交響楽団の指揮者に就任するも、43 歳の若さでイスラエルで溺死
ケルテース・イシュトヴァーン Kertész István 313
稀代の投機家、ポパー提唱「開かれた社会」実践するもオルバーンから睨まれる
ジョージ・ソロス György Soros 315
1956「革命」時にスペインからの帰国命令を拒否した歴史に名を残す名サッカー選手
プシュカーシュ・フェレンツ Puskás Ferenc 319
フランスに出国後、日本に定住したユダヤ系数学者兼大道芸人
ピーター・フランクル Péter Frankl 323
第七章 民主化以降 325
2015年夏:ハンガリーに押し寄せる難民たちとハンガリー政府の対応 329
参考文献 339
あとがき 351
前書きなど
はじめに
本書について
本書の目的は、18世紀から現代において各時代時代に様々な理由により自分の生まれた地を去り、他国に亡命したハンガリー人たちの歩んだ人生を通じ、ハンガリー(東欧)の歴史を紹介することである。
「ハンガリー人亡命者」というテーマは、ハンガリーでは学術的にだけでなく一般的にも多くの人の興味を引くテーマである。ハンガリーではこのテーマで多くの研究書が出されているだけではなく、約6200人の亡命文学者を扱う『ハンガリー亡命文学者辞典』まで存在しているほどである。中央ヨーロッパに位置するハンガリーという国は、隣国との関係において複雑な国境線の変化を繰り返してきた国であり、その国境の変化、時代の流れに翻弄された多くのハンガリー人が自らの生まれた土地を離れ、外国に移住することを決意した。その結果、移住した土地でその才能を発揮することとなったハンガリー人たちが生まれたのである。
本書で扱う「ハンガリー人亡命者」であるが、まず、「ハンガリー人」という部分から定義したい。ここで言う「ハンガリー人」は、旧ハンガリー王国を含め、その領土内で生を受けた者、オーストリア=ハンガリー二重君主国領内で生まれ、自らを「ハンガリー人」として見なしていたであろう者を指している。民族的・人種的(四章で触れるが、この「人種」という言葉は1920年に時のハンガリー政府が「ヌメルス・クラウズス」という法律を制定した時に使用した言葉である。もっとも、人間の人種を確定することなど到底不可能なのであるが、あえてここでこの言葉を使うのは、四章でその法律に少し触れているからである)にハンガリー人という意味ではない。本書の「亡命者」の定義としては、「何らかの理由で国外に出ることを余儀なくされた者および自らの選択で外国に移住した者」とした。それは、ハンガリー史において重要な人物をより多く紹介したかったこと、そして、できるだけハンガリー史の細部にも焦点を当てたかったことが理由である。本書で扱っている人物は、政治的な理由で外国に出て、亡命(難民)申請をし、受け入れられた者という意味での「亡命者」では必ずしもない。職を求め外国へ出て大成した者、戦争に負けて逃亡し外国で自らの出生を隠して暮らした者、研究を遂行するために外国の研究機関に召喚された者も本書では多く扱っている。また、できるだけ幅広い分野から、その分野を代表しうる活躍をしたであろう人物を取り上げるよう努力した。しかし、その歴史的重要度と知名度の高さの基準が厳密ではない点は断っておきたい。
本書で扱った人物以外にも著名な亡命ハンガリー人は数多くいる。そのため、本書で取り上げた人物の選定については賛否があって当然であると思っている。本書を執筆するにあたり、ハンガリー史において重要な役割を果たしていると考える人物は「亡命者」という意味を広げてでも取り上げた。筆者は亡命ハンガリー人偉人を羅列することによって「ハンガリー人=頭のいい民族」という陳腐なステレオタイプを作り上げることをよしとしない。そういう意味で、学術的な文脈で語られることが多い「ハンガリー人亡命者」たちを「列伝」という読みやすい形で取り上げながらも、各登場人物を取り巻いていた社会状況に組み込ませ、幅広い層の人に手に取っていただける本を作りたいと思った次第である。
さらにコラムでは、登場人物に関係する読者の興味を引くであろうテーマを取り上げたが、取り組み切れず、執筆を断念したトピックもあった。これらについてはお許しいただきたい。
人名の表記について
ハンガリー人は、姓名の順で氏名を表記する。したがって、本書ではこの規則に則って表記した。しかしその例外として、西欧やアメリカで活躍し、一般的に名姓の順でその名を広く知られている者たちについては、その都度断りをいれ、名姓の順でその名を表記している。ハンガリー人以外の人名については、日本語の書籍や論文、ウィキペディア、新聞が採用している表記を参考に、採用する表記を決定した。
ハンガリー出身者以外の人物については、その国で採用されている順で表記した。
各人物の生い立ちの記述の際、基本的にその人物のファーストネームで記述した。これは、その家族(両親・兄弟)のことに触れる際に混乱を避けることが目的である。また本書全体の統一を図るため、家族の記述がなくてもファーストネームで記述した者もいる。
地名の表記について
トリアノン条約以前のハンガリー王国内の都市名は、本書では特別に記載していない限りハンガリー語からのカタカナ表記による名称を用いた。しかし、トリアノン条約(1920年)以降の記述の際、スロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィアに編入された都市について書いた場合、その国で使われている言語での呼称で表記した。しかし唯一の例外は、現ルーマニア領クルジュ・ナポカをコロジュヴァールで統一したことである。トランシルヴァニアに住むハンガリー人の文化的な中心地の役割を担ったこの街は、1920年以降の記述でもたびたび登場するが、その街が帰属する国家は第二次世界大戦後までに数回変わっており、その都度表記を変えると混乱を招く恐れがあることがその理由である。
固有名詞について(カタカナ表記について)
ハンガリー語の固有名詞は極力ハンガリー語の発音に従って表記したが、一般的に広く用いられている表記があればそれを採用した。そのため必ずしもハンガリー語の発音に忠実とは言えないものもあるが、それは読者が持っている知識と合致する表記が好ましいと考えたからである。
「ブダペスト」の表記であるが、ハンガリー語の発音に従って表記すると「ブダぺシュト」となるが、これも一般的に広く使われている「ブダペスト」を用いた。この街は19世紀に「ブダ」「オーブダ」「ぺシュト」が合併し誕生するのであるが、合併前の街の記載をする際および雑誌・新聞名にその名が使われている場合にのみ例外的に「ぺシュト」と表記することで統一した。
「V」の表記は「ヴ」を用いた。
ロシアの地名表記で、サンクト・ペテルブルグ(Санкт-Петербург)、エカテリンブルグ(Екатеринбург)という二つの都市名について。ロシア語の発音の原則として、単語の最後にあるг(g)の音は無声化する、つまりグ(г)→ク(к)となるというものがある。しかし、ロシア語には格変化があり、主格では無声化しк(k)の音となったг(g)が、格変化した場合にはг(g)の音として再度現れるのである。そのため筆者は、ロシア語名詞の主格の発音だけに引っ張られ、日本語のカタカナ表記をする際にг(g)があった痕跡自体が無くなるのはおかしいと考えた。ロシア人言語学者にこのことを相談したところ、日本語の「グ」の発音はそんなに強い音ではないため、むしろ「ク」よりも「グ」の方が実際の音に近いのではないかとの回答を得た。以上のことを考慮し、また他のドイツの都市と差別化するという意味も含め、本書では上記の2都市名を「~ブルグ」と表記することにした。
それ以外の国の地名については、日本語の書籍やウィキペディア、新聞が採用している表記を参考に、その国で使われている言語での名称をカタカナ表記にしたものを採用した。
ハンガリー1956年革命について
本編六章の冒頭部分でも述べるが、今日では「1956年革命および自由への闘争」と憲法に記してあるこの1956年10月23日から11月までにハンガリーで起きた一連の事件は、「1956年革命」いう呼称を使うことが義務付けられており、外国のメディアも「Revolution」と記すことが多くなってきている。しかし筆者はその一連の事件を考察したうえで、義務付けられているからと言ってその事件を単に「革命」の一言で記すにはまだ抵抗がある(この点については、今後自身の研究で見方が変わる可能性はあるが、現時点ではそうであるということである)。しかし本書では、革命を起こした側の意向をくみ、1956年「革命」と括弧つきで記したいと思う。これは、僭越ながら、ここで筆者が括弧つきの表現にすることで、筆者が何を思いこの表現にしたのかを考え、読者がさらなる調査をするきっかけになればとの想いを込めてでもある。
刊行物、書籍、論文の表記
刊行物、書籍、論文の表記については、基本的に日本語訳があり、それが広く知られているものに関してはそれを採用した。採用する際、日本語の書籍や論文、ウィキペディア、新聞が採用している表記を参考にした。日本語訳がないものについては、ハンガリー語、英語、ロシア語については筆者の訳となる。ハンガリー語からの訳については、ハンガリー語・日本語の通訳の方に助言をもらった。ドイツ語については、筆者の知識が乏しいため、ロシアのオーストリア・ハンガリー研究者と相談して訳を決定した。そのため、ロシア語を介した日本語訳となっている。
アイコンの説明
人物のプロフィールで、亡命した年を「▶」のマークで、その後何らかの理由でハンガリーに帰国した年を「▷」のマークで表した。
本書の構成
本編は全部で七章から成る。四章だけは取り上げる人物が多く、他との調和を図るため、例外的に三項に分けた。
その他
1919年3月から同年8月に存在した「ハンガリー・ソヴィエト共和国」について、誤解を避けるために特筆しておくが、「ソヴィエト」は「議会・理事会・評議会」という意味であり、ソヴィエト(ロシア)との繋がりを表しているわけではない。
各時代の亡命の波
先ほども触れたように、ハンガリーはその時代時代で多くの亡命者、移民、難民を生み出してきた。その歴史の流れ自体は本編で触れるのでここでは詳しくは書かないが、さっと駆け足でその特徴を見ていきたいと思う。
第一の波(1848年の革命の敗北)
第一の大きな亡命の波は1848年から1849年の革命(通称、諸民族の春)の時に訪れた。革命に敗れたハンガリー人を含む人々は、オスマン帝国その後、西欧諸国に、そしてアメリカへと流れていったのである。この時の亡命の波については1章のコラムで詳しく書いているのでそちらを参照してほしい。
第二の波(19世紀末、経済移民の増加)
次の波は19世紀末にやってきた。この時代には大西洋を越え、アメリカ大陸に渡る経済移民の数が増えたのである。それはヨーロッパ全体にみられる傾向であった。19世紀終わりから第一次世界大戦が始まるまで、約五千万人がヨーロッパ全体からアメリカ大陸に渡ったと言われている。特にアメリカ合衆国への経済移民の数は多く、アメリカ合衆国の人口増加の一因がこの19世紀末のヨーロッパからの人口流入だと言われている。この時、オーストリア=ハンガリー二重君主国のハンガリー王国からの経済移民は約二百万人にのぼると言われている。この時にアメリカに移った人々の多くは農村から職を求め移住した者たちであった。この時のアメリカの様子は2章のコラムで詳しく書いている。
第三の波(カーロイ政権とハンガリー・ソヴィエト共和国政権の崩壊後)
1918年、オーストリア=ハンガリー二重君主国は第一次世界大戦に敗れ、解体された。それに伴い2つの革命が起きた。最初はカーロイのアスター革命である。カーロイ政権は王政を廃止し、政治の民主化を図ったのである。しかし、戦後に山積みになった多くの問題処理に手をこまねいていたカーロイ政権に失望した国民の中から共産主義者たちが台頭し、1919年3月ハンガリー・ソヴィエト共和国樹立が宣言されたのである。しかし、この政権は約4か月で崩壊した。このハンガリー・ソヴィエト政権に関わっていた人たちの多くは亡命したが、その主な亡命先の一つはモスクワであった。モスクワではコミンテルンの仕事などに従事するなど、積極的に政治活動に関わり、「共産主義者」として育っていった。この時にモスクワに亡命した人物で、第二次世界大戦後にハンガリーの政治の舞台で活躍する者も多くいた。
ハンガリー・ソヴィエト共和国崩壊後に政権に就いたフリードリッヒ・イシュトヴァーンは、ハンガリー・ソヴィエト共和国時代に刊行された著作物を回収した。そしてその著者の多くがハンガリーから隣国のオーストリアやチェコスロヴァキア、またドイツに亡命していった。この時、亡命した左派の政治家や知識人たち、特にハンガリー・ソヴィエト政権の前のカーロイ政権に関わっていた人たちは主にウィーン・プラハ・ベルリン・パリに集まっていったようである。中でもウィーンにはその多くが集い、亡命政治活動を行った。1920年代には『ウィーン・ハンガリー新聞(Bécsi Magyar Újság)』を始め、約50のハンガリー語の新聞や雑誌がウィーンで出版されたということである。また、1919年11月にはカーロイの滞在先であったボヘミアでカーロイとヤーシを中心に亡命者の政治団体を作る試みがなされた。
第四の波(戦間期、反ユダヤ色が緩やかに、それでも確実に浸透していった時代)
ハンガリー・ソヴィエト共和国政府にはユダヤ人が多くいた。また、19世紀以降ブダペストにおけるユダヤ人の経済・金融界での活躍は、ハンガリー社会においてユダヤ人へのある種の妬みのようなものを生み出す結果となった。また、ハンガリー・ソヴィエト共和国政権はユダヤ人を重用したため、その崩壊後には社会の反ユダヤ的感情が徐々に表れていった。それが最初に表に出たのは、1920年に制定されたヌメルス・クラウズスである(4章参照)。ユダヤ人の大学入学者数を制限する結果となったこの法律の制定の影響で、ユダヤ人の若者の多くが外国に出たのである。
1930年代に入ると、ナチス・ドイツが台頭してくる。ドイツと同盟を結ぶことを選択したハンガリーでは、ユダヤ人に対する締め付けが厳しくなっていった。元々、知的職業(弁護士・医者・教授など)等に就くユダヤ人の割合が高かったが、第一次・第二次反ユダヤ法によりそれらが大幅に制限され、職にあぶれたユダヤ人たちは西欧へと流れていった。その地でも住みにくくなっていくと、多くのユダヤ人がアメリカ・南米に渡っていった。後に原子爆弾を作り出したテラーやウィグナー、シラードもこの時期にアメリカに職得て大西洋を渡ったのである。
それ以外にも、1920年代から1930年代におけるソ連の経済的発展に伴い、ハンガリーからソ連への移住者が増えた。少し移民や亡命者とは違うカテゴリーの話になるが、第一次世界大戦時にオーストリア=ハンガリー二重君主国軍の一員として戦い、ロシアの捕虜になったハンガリー人たちが極東に送られ、その地で家庭を持っただけでなく、集落(村)をつくりそこで自分たちの子供たちのために学校を建て、ハンガリー語も教えていたとの記録も残っている。そのような集落は幾つかつくられたようで、そのうちの一つの集落の記録によれば、そこには約300人以上のハンガリー人が住んでいて、『極東ハンガリー新聞(Távol-Keleti Magyar Újság)』という名の新聞も発行されていたということである。少し話が脇道に逸れたが、ソ連に経済的理由から移住したハンガリー人たちは故郷からほど近いウクライナやベラルーシ方面だけでなく、ウズベキスタンやトルクメニスタン、コーカサス地方や極東方面にも散らばっていったようである。彼らはそれらの地のコルホーズなどで働き、ソ連の経済を足元から支える役割の一翼を担った。
1920年代から1930年代、30万人がハンガリーから他国へ亡命したと言われている。
1930年代後半から第二次世界大戦末まで、著名な研究者たちや音楽家がアメリカに亡命・移住した。しかし、アメリカが特に亡命者・移民を受け入れていたというわけでは必ずしもない。この時代は特にユダヤ人が多く亡命していったが、亡命することが金銭的に可能であったユダヤ人たちは1944年にハンガリーにおいてホロコーストの嵐が吹き荒れる前に出国することができた。しかしそうでない者たちはハンガリーに残るしかなかった。
戦後の1947年~1949年までの間でハンガリー人が多く移住していったのは北米、ヨーロッパだけでなく、オーストラリア、南米である。彼らの多くは仕事を求めて移住していった。またこの時期、政権の交代と共に亡命を決意する政治家、知識人も数多くいた。
第五の波(1956年「革命」)
戦後、亡命の大きな波がやってくるのは、1956年「革命」の時である。この1956年10月23日から11月に起こった一連の事件の結果、約21万人が難民として国外に出たと言われている。この時多くの人が逃れたのは隣国のオーストリア、ユーゴスラヴィアである。その後、亡命者としてアメリカ合衆国、カナダ、南米、オーストラリア、南アフリカなどに流れる者もいた。また、西欧の国としては、フランス、西ドイツ、イギリス、スイス、ベルギー、オランダ、スウェーデンなどに渡っていった。
この1956年「革命」に関わった人物にミンツェンティ枢機卿がいるが、彼はソ連軍が軍事介入してきた11月4日、ブダペストのアメリカ大使館に政治的避難所を求め、それ以降15年間出てこなかった。彼は1971年9月にハンガリーからの出国許可がでて、ウィーンに亡命したのである。また、イムレ・ナジは同じく11月4日にユーゴスラヴィア大使館に匿われた(その後、ソ連とユーゴスラヴィア大使館で話し合いがされ、「安全と自由を保障する」とした約束の元、ユーゴスラヴィア大使館から出るが、出たところでソ連軍に拘束されルーマニアにその身柄を移された後、1958年6月に絞首刑に処された)。また、本書にでてくる人物で、サッカー選手のプシュカーシュがいるが、彼はちょうどサッカーの試合でスペインにいたところ、この「革命」の知らせを受け、チームメンバーと共にその地に残ることを決めたのである。
少し駆け足であったが、以上が時代ごとの大まかな「亡命の波」である。この時代の波に翻弄されハンガリーを去ることを決意し、その亡命した土地で(個々の分野において)活躍した亡命者たちの人生を本編では追っていく。
筆者の意図と補遺
筆者は法政大学法学部政治学科卒業後、モスクワ大学歴史学部の修士課程と博士課程を修了し、現在はロシア科学アカデミー・スラヴ学研究所で研究員(リサーチ・アソシエイト)をしている。その研究テーマは第二次世界大戦以降のソ連・東欧の歴史(主にソ連の外交文書を介してみる)であり(博士論文:«Югославско-венгерские отношения в 1945-1956 гг.»:日本語訳「1945年~1956年におけるユーゴスラヴィア・ハンガリー外交関係」)、近年は主にソ連・東欧におけるユーゴスラヴィア政治亡命者(1948年~1956年)を研究対象としていたため、17世紀からのハンガリー人亡命者を扱った本書の執筆に筆者が適任かと問われれば即答しかねる。しかし、縁あってハンガリーをその研究対象に選び、またその縁でブダペストに住むことになった者として、特別な知識なしでも幅広く一般に、それこそ子供から大人にまでハンガリー(東欧)の歴史を紹介できたらという想いを込めて、この執筆依頼を受諾した。本書を執筆していく過程において、ニュートラルに記述することを意識していたが、筆者のロシアで研究してきたというバックグラウンドから、記述においてロシア的視点が入り込んでいる部分も多く見受けられるであろう。その点はそういう見方もあると一笑していただけたら幸いに思う。