紹介
アルジェリア独立戦争後に本土に引き揚げてきたフランス人達
モロッコ、チュニジアを含めると150万人にも登り、
各界で一流の人材を輩出している
「黒い足」を意味する
「ピエ・ノワール」と呼ばれる
111人の足跡を辿る事で、
知られざるフランス現代史に迫る
■カミュ 『ペスト』や『異邦人』を記し、サルトルとも論争した実存主義文学の巨匠
■デリダ 脱構築のポスト構造主義でフランス現代思想をリードしたユダヤ系カリスマ
■イヴ・サン=ローラン クリスチャン・ディオールに認められた超一流デザイナー
■オランジーナ社 フランスではコカ・コーラを越える人気を誇る国民的ジュース
■アルチュセール、ジャック・アタリ等の思想家
■エンリコ・マシアス、パトリック・ブリュエル等の歌手
■ジャン・レノ、クラウディア・カルディナーレ等の俳優
■ドヴィルパン、メランション等の政治家
他にもダニエル・オートゥイユ、ジャン・ベンギギ、
ジャン=クロード・ブリアリ、アラン・バディウ、カステルバジャック等
ド・ゴールを暗殺しようとしたOAS(秘密軍事組織)と「将軍たちの反乱」
フランス軍に処刑された独立派フランス人
フランス軍に協力したアラブ系「ハルキ」
独立後もアルジェリアに残った「緑の足」
極右「国民戦線」支持層
アルジェリアワイン、ピエ・ノワール料理などの充実したコラムも
目次
はじめに 9
アルジェリア民主人民共和国の概要 19
モロッコ王国の概要 20
チュニジア共和国の概要 21
フランス共和国の概要 22
用語解説 24
アルジェリア生まれ 29
第三共和政の国民議会議員まで務めたアルジェリアへの入植に尽力した名家の息子
ガブリエル・アボ(Gabriel Abbo) 30
フランスの有名実業家でサッカー好きの眼鏡屋さん
アラン・アフルル(Alain Afflelou) 31
コルシカにルーツを持つフランス民主連合副代表で国民議会議員
ピエール・アルベルティーニ(Pierre Albertini) 32
ドイツ軍の収容所で共産主義に目覚めた構造主義マルクス主義の哲学界の大スター
ルイ・アルチュセール(Louis Althusser) 33
『ムッシュ・カステラの恋』で最優秀助演女優賞を獲得した女優
アンヌ・アルヴァロ(Anne Alvaro) 35
アンテーヌ2 の会長エルカバシュと犬猿の中の人気キャスター
ポール・アマール(Paul Amar) 36
都市解説 コンスタンティーヌ(Constantine) 37
アルジェリア内戦の最中、武装イスラム集団によるティビリヌの修道士惨殺から免れた神父
アメデ神父(Père Amédée) 38
ハンガリー人の父を持つピエ・ノワールやアルジェリアを舞台にした映画を撮った監督
アレクサンドル・アルカディ(Alexandre Arcady) 41
『フレンチ・カンカン』でジャン・ギャバンと共演した大スター
フランソワーズ・アルヌール(Françoise Arnoul) 42
フランス支配下のカメルーンで医療の発展に力を入れた医師
ルイ=ポール・オジュラ(Louis-Paul Aujoulat) 44
経済学者、随筆家、小説家、大統領のブレーンなど肩書が多すぎる人
ジャック・アタリ(Jacques Attali) 46
フランス映画史に残るおバカ映画『ザ・カンニング』で大ブレークした大物俳優
ダニエル・オートゥイユ(Daniel Auteuil) 47
都市解説 アルジェ(Alger) 48
ゴンクール賞の審議を戸棚から盗み聞きし、一躍有名になった出版界の異端児
アラン・アヤシュ(Alain Ayache) 50
シルヴィ・ヴァルタンの秘書を経て、伝説的な子供番組『クラブ・ドロテ』をプロデュース
ジャン=リュック・アズレ(Jean-Luc Azoulay) 51
『恋するシャンソン』や『ムッシュ・カステラの恋』の脚本を手がけた俳優兼脚本家
ジャン= ピエール・バクリ(Jean-Pierre Bacri) 52
過酷な家庭環境からアンチレイシズムに目覚めた政治的コメディアン
ギイ・ブドス(Guy Bedos) 53
俳優ジャン=ポールの父親で、対独協力に加担してしまった彫刻家
ポール・ベルモンド(Paul Belmondo) 54
コラム アルジェリア独立戦争は「戦争」だったのか? 56
左派のミッテランを支持したり、右派のサルコジの参事官を務めたりした記者
ジョルジュ=マルク・ベナム(Georges-Marc Benamou) 58
お人好しの見た目で時に軽率な行動を取り、舞台も映画もバラエティ番組もこなす俳優
ジャン・ベンギギ(Jean Benguigui) 59
IBM フランスの社長に就任し、アメリカのIBM 本社副社長にまで上り詰めたエリート
アラン・ベニシュ(Alain Bénichou) 60
都市解説 オラン(Oran) 60
ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール誌の編集長などを経験したメディア人
ピエール・ベニシュ(Pierre Bénichou) 62
アルベール・カミュの記念碑に文字を掘る役目を務める程の親交があった芸術家
ルイ・ベニスティ(Louis Bénisti) 63
「フランスのキース・リチャーズ」と言われたギタリスト
ルイ・ベルティニャック(Louis Bertignac) 64
植民地支配の影響に思いをめぐらせたイスラム社会を専門とした人類学者
ジャック・ベルク(Jacques Berque) 65
フランスの国民的炭酸「オランジーナ」を広めた実業家
ジャン=クロード・ブトン(Jean-Claude Beton) 66
コラム アルジェリアのワイン 67
200 以上の役を主に舞台でこなしたベルギーで活躍する女優
ジャクリーヌ・ビル(Jacqueline Bir) 72
ヴィシー政権を代表する軍人ダルランを暗殺した王党派青年
フェルナン・ボニエ・ド・ラ・シャペル(Fernand Bonnier de La Chapelle) 73
『女は女である』や『イノセンツ』に出演したヌーヴェル・ヴァーグの二枚目俳優
ジャン=クロード・ブリアリ(Jean-Claude Brialy) 78
都市解説 アンナバ(Annaba) 80
出生時の名前が不明なポーカー好きの歌手兼俳優
パトリック・ブリュエル(Patrick Bruel) 82
アルジェリア生まれのフランス人を代表するノーベル賞作家
アルベール・カミュ(Albert Camus) 84
植民地支配の贖罪感から解放された国史教育に力を入れるべきと主張する歴史家
ディミトリ・カザリ(Dimitri Casali) 88
北米流フェミニズムとは一線を画す女性をテーマにした人気作家
マリー・カルディナル(Marie Cardinal) 89
コラム 1961 年10 月17 日の事件 90
ピエ・ノワールのネタで売れたコメディアン兼音楽家
ロベール・カステル(Robert Castel) 95
エディット・ピアフの恋人だったボクシングのチャンピオン
マルセル・セルダン(Marcel Cerdan) 96
ユーモアあふれる実力派芸人・俳優・監督・脚本家
アラン・シャバ(Alain Chabat) 98
カミュなどのアルジェリア生まれのフランス人作家を見出した編集者
エドモン・シャルロ(Edmond Charlot) 100
聖典を翻訳し、宗教間の相互理解に努めた人物
アンドレ・シュラキ(André Chouraqui) 101
デリダと親交があり、フロイトの男性中心主義を批判したフェミニスト作家
エレーヌ・シクスー(Hélène Cixous) 103
モロッコにルーツを持つノーベル賞を受賞したユダヤ人物理学者
クロード・コーエン=タヌージ(Claude Cohen-Tannoudji) 105
アルジェリア生まれのブルターニュやイギリスなど「北」を愛するポップス歌手
エティエンヌ・ダオ(Etienne Daho) 106
「アルジェリア戦争」という言葉を初めて使い、戦後の左派ジャーナリズムを支えた記者
ジャン・ダニエル(Jean Daniel) 108
若き日々からともに活動したミッテランの側近
ジョルジュ・ダイヤン(Georges Dayan) 109
ヴィシー政権下で差別に遭った脱構築で有名な哲学者
ジャック・デリダ(Jacques Derrida) 110
コラム アルジェリア独立戦争中のテロリズム―秘密軍事組織(OAS) 113
ラジオやテレビで活躍するフランスの代表的なジャーナリスト
ジャン=ピエール・エルカバシュ(Jean-Pierre Elkabbach) 117
中絶経験があり、「343 人の宣言」に名を連ねた生涯現役を貫いている女優
フランソワーズ・ファビアン(Françoise Fabian) 118
武器輸出やスイスの銀行口座が話題になった怪しい実業家
ピエール・ファルコンヌ(Pierre Falcone) 119
義和団の乱や第一次世界大戦で戦い、アカデミー・フランセーズの会員となったエリート軍人
ルイ・フランシェ・デスペレ(Louis Franchet d'Espèrey) 120
史上初の女性道化師となり、「新しいサーカス」を作り、サーカス界を変えた女性
アニー・フラテリーニ(Annie Fratellini) 121
アルジェリア独立を受け入れた事で、親戚と仲違いしたフランス映画を背負う女性監督
ニコール・ガルシア(Nicole Garcia) 122
コラム アルジェリア独立戦争時の検閲と拷問の告発 124
カビール人の父、アンダルシアのロマの母のルーツを探り続ける映画監督
トニー・ガトリフ(Tony Gatlif) 127
ビアフラ、ベトナム、アルジェリア戦争に向き合ってきた記者
ジャン=クロード・ギユボー(Jean-Claude Guillebaud) 128
20 年近くテレビ放送された刑事役で人気を得た、ミッテランと親しかった俳優
ロジェ・アナン(Roger Hanin) 129
独立戦争中に死刑になった唯一のヨーロッパ系市民
フェルナン・イヴトン(Fernand Iveton) 131
コラム アルジェリア生まれの独立派フランス人 133
映画史の大物と共演し、売れっ子女優の母親となった女優兼童話作家
マルレーヌ・ジョベール(Marlène Jobert) 137
アルジェリア独立戦争時にドゴールを倒そうとした軍人
エドモン・ジュオー(Edmond Jouhaud) 138
コラム 1945 年5 月8 日の戦勝記念と反植民地主義デモ 141
アルジェリアの独立に反対したドゴールの同期生
アルフォンス・ジュアン(Alphonse Juin) 143
反革命派の貴族やドゴール暗殺未遂の犯人を家族に持つ極右政治家
ティボー・ド・ラ・トクネ(Thibaut de La Tocnaye) 144
コラム ピエ・ノワールの投票行動―アルジェリア独立前と独立後の政党支持 146
シャツの胸元が常に開いている出しゃばり哲学者
ベルナール=アンリ・レヴィ(Bernard-Henri Lévy) 149
サダトやサルコジ、ビンラディン、そして日本人をも虜にするユダヤ系ポップス大スター
エンリコ・マシアス(Enrico Macias) 152
カミュとともに闘った過激派に与しないリベラル派都市計画家
ジャン・ド・メゾンスール(Jean de Maisonseul) 155
エヴィアン協定締結記念日がアルジェリアに対する改悛を意味すると猛反発する保守系政治家
エルヴェ・マリトン(Hervé Mariton) 156
保守反動のメッセージを歌と記事を通じて発信する歌手兼記者
ジャン=パクス・メフレ(Jean-Pax Méfret) 157
コラム 独立派と敵対したハルキ―フランス軍の補充兵となったアルジェリアの先住民 158
国境なき記者団を創設した、極左から極右に転じた元ジャーナリストの政治家
ロベール・メナール(Robert Ménard) 165
コラム 独立運動―民族解放を目指した諸勢力 167
『シオラック家の運命』で「20 世紀のアレクサンドル・デュマ」と言われた歴史小説の大家
ロベール・メルル(Robert Merle) 173
コラム 観光地化されたアルジェリア 174
ギロチンの人道性を証明するため為に博物館まで開館したアルジェリア最後の執行人
フェルナン・メソニエ(Fernand Meyssonnier) 178
継承権を存続させる為に無理やり結婚させられたモナコ大公の母親
シャルロット・ド・モナコ(Charlotte de Monaco) 180
史上3 人目の白人キリスト教徒フランス人と結婚したコートジボワール大統領の敏腕夫人
ドミニク・ウワタラ(Dominique Ouattara) 182
82 人の殺人事件に関与し、4800 年の禁固刑に処されているバスク独立を目指したテロリスト
アンリ・パロ(Henri Parot) 183
美学、映画、政治、マルクス主義と多岐にわたる関心を持つ哲学者
ジャック・ランシエール(Jacques Rancière) 184
アルジェ市長まで上り詰めながらも、本土と齟齬をきたした、反ユダヤ主義アジテーター
マックス・レジス(Max Régis) 185
コラム アルジェリアのユダヤ人 188
カミュ、フェラウンやアフリカ出身作家による本の出版に力を入れた、不正義に抵抗する作家
エマニュエル・ロブレス(Emmanuel Roblès) 194
『ラルース』と並ぶ、自身の名前を関したフランス語辞書を作り上げた辞書学者
ポール・ロベール(Paul Robert) 195
コラム 「フランス領アルジェリア」で使われた言語 196
ヴィシー政権支持者、イギリス空軍パイロット、反植民主義者だった作家
ジュール・ロワ(Jules Roy) 198
ディオールに認められ、香水やプレタポルテでも偉大な業績を残した天才デザイナー
イヴ・サン=ローラン(Yves Saint-Laurent) 199
服役を繰り返し、獄中結婚し、29 歳で早逝した伝説の無頼派女性作家
アルベルティーヌ・サラザン(Albertine Sarrazin) 203
アルジェリアの解放、そして身体の解放を訴え、謎の死を遂げた私生児・同性愛の詩人
ジャン・セナック(Jean Sénac) 204
都市解説 ブリダ(Blida) 205
コラム アルジェリアに残った《緑の足》 206
ミッテランにも影響を与えたといわれる元モデルの占い師
エリザベート・テシエ(Elizabeth Teissier) 209
直接観客に話しかけるワンマンショーを確立し注目を浴びたコメディアン
パトリック・ティムシット(Patrick Timsit) 211
ユダヤ系ピエ・ノワールの母親役をこなす女優
マルト・ヴィラロンガ(Marthe Villalonga) 212
コラム パリのサン=ニコラ=デュ=シャルドネ教会と植民地時代への懐古主義 214
第三共和政下の社会主義を代表する政治家の一人
ルネ・ヴィヴィアニ(René Viviani) 216
アルジェリアが独立しなかったという設定のSF 小説でも有名なロックバンドのボーカル
ローラン・ワグナー(Roland Wagner) 218
コラム サハラ砂漠で行われたフランスの核実験 219
波乱に満ちた人生を送った1960 年代と1970 年代のミューズ
ズズー(Zouzou) 223
コラム ピエ・ノワール料理 225
モロッコ生まれ 227
モロッコを愛する記者兼講師兼小説家兼伝記作家
ピエール・アスリーヌ(Pierre Assouline) 228
アグレガシオン首席取得で、毛沢東主義の政治団体を結成した共産主義を貫く哲学者
アラン・バディウ(Alain Badiou) 229
新しくて伝統的な創造力を持つファッション・デザイナー
ジャン=シャルル・ド・カステルバジャック(Jean-Charles de Castelbajac) 230
サルコジと敵対し、アメリカと対立した元首相
ドミニク・ドヴィルパン(Dominique de Villepin) 231
サッカーW 杯一大会あたり最多得点を記録したレジェンド
ジュスト・フォンテーヌ(Just Fontaine) 233
フレンチ・コメディの担い手となった大物俳優
ミシェル・ガラブリュ(Michel Galabru) 234
都市解説 カサブランカ(Casablanca) 235
フランスを代表するコメディ映画に多数出演した俳優
ローラン・ジロー(Roland Giraud) 236
重要省庁を任されたフランス史上初の女性政治家
エリザベート・ギグー(Elisabeth Guigou) 237
反植民地主義から反イスラムに転じたマグレブ専門の地理学者
イヴ・ラコスト(Yves Lacoste) 238
都市解説 ラバト(Rabat) 239
都市解説 マラケシュ(Marrakech) 239
大統領選挙に2 回出馬した、メディア批判に明け暮れる左翼政治家
ジャン=リュック・メランション(Jean-Luc Mélenchon) 240
都市解説 タンジェ(Tanger) 241
ロシア革命時にコートダジュールに亡命してきたウクライナの貴族を母に持つ女優
マーシャ・メリル(Macha Méril) 242
ジブラルタル出身のイギリス人の父親、アンダルシア出身のユダヤ人の母親を持つ作曲家
モーリス・オハナ(Maurice Ohana) 244
日本でも訳書が出るほどの人気小説や児童文学、漫画の脚本を書いた文筆家
ダニエル・ペナック(Daniel Pennac) 245
ナタリー・ポートマンや広末涼子と共演した、ドラえもんから殺し屋まで演じる国際的大スター
ジャン・レノ(Jean Reno) 246
アメリカやイギリスの音楽に影響を受けたフランス音楽シーンの巨匠
アラン・スーション(Alain Souchon) 248
チュニジア生まれ 249
アルジェリア独立戦争中に起きた未解決の「オーダン事件」の被害者
モーリス・オーダン(Maurice Audin) 250
婦人服ブランドから男性向け香水を大ヒットさせたデザイナー
ロリス・アザロ(Loris Azzaro) 252
優しそうに見えるけれども「ドン・バルトローネ」と呼ばれる政治家
クロード・バルトローヌ(Claude Bartolone) 253
自分の出自を題材にしたり、出自に苦しんだりしたコメディアン
ミシェル・ブジュナー(Michel Boujenah) 254
チュニジアとイタリアとフランスを出自に持つ大女優
クラウディア・カルディナーレ(Claudia Cardinale) 255
ハイジャック未遂で射殺された妻を持つセザール賞創設者
ジョルジュ・クラヴェンヌ(Georges Cravenne) 256
同性愛を公表した数少ない政治家でパリの元市長
ベルトラン・ドラノエ(Bertrand Delanoë) 257
都市解説 チュニス(Tunis) 258
ドーヴィル・アメリカ映画祭、コニャック国際ミステリー映画祭発起人
アンドレ・アリミ(André Halimi) 259
ラッセル法廷、「343 人の宣言」、死刑廃止などで活躍するフェミニスト
ジゼル・アリミ(Gisèle Halimi) 260
都市解説 スース(Sousse) 261
ユダヤとアラブの文化の中で育ち、フランス語で活動する知識人
アルベール・メンミ(Albert Memmi) 262
都市解説 スファックス(Sfax) 263
ミッテランの元側近で、ルペンに密着取材したジャーナリスト
セルジュ・モアティ(Serge Moati) 264
都市解説 カイルアン(Kairouan) 265
第二次世界大戦やニューカレドニアの交渉で活躍した政治家
エドガール・ピサニ(Edgard Pisani) 266
都市解説 ジェルバ島(Djerba) 267
国民議会議長まで上り詰めつつもシラクに冷遇された実力派政治家
フィリップ・セガン(Philippe Séguin) 268
テロで殺された『シャルリー・エブド』の著名風刺画家
ジョルジュ・ヴォランスキー(Georges Wolinski) 270
ピエ・ノワール関連年表 272
ピエ・ノワールやマグレブをもっと知るための映画や文献 274
参考文献 275
あとがき 286
前書きなど
はじめに
本書について
本書はピエ・ノワール (pied-noir) と呼ばれる、主にアルジェリアで生まれたフランス人を紹介することを目的としている。アルジェリアは1830年にフランスに侵略され、1848年に完全に征服された。侵略以降、アルジェリアで生まれたフランス人は多く、1962年にアルジェリアが独立する頃には約100万人のフランス市民がいた。アルジェリアで生まれたフランス人の中には有名な俳優、実業家、デザイナー、歌手、政治家、軍人などが多数いる。ピエ・ノワールはフランス社会・アルジェリア社会のそれぞれに影響を与えたのみならず、アルジェリア独立戦争(1954~1962)を機にフランス本土に移住した後もコミュニティを形成している。
彼女ら・彼らに光を当てることは次の2点において重要だと考えられる。まず、日本では残念ながら、アルジェリア生まれのフランス人が多数いることが広く知られているとは言い難い。紹介していく一人ひとりの人生やコラムを通じ、アルジェリア生まれのフランス人がフランス社会・アルジェリア社会にもたらした影響を知る機会を本書が少しでも提供できたら幸いだ。次に、ピエ・ノワールに注目することで、本書がフランスとアルジェリアの歴史に対する理解を深める一助となれば喜ばしい。
今まで、ピエ・ノワールやフランスとアルジェリアの関係に注目した書籍は多数執筆されてきた。本書もそれらに大いに依拠している。だが、そうした書籍は外国語で出版されている。日本語で出版されているものもあるが、それらはしばしば学術書であり、ピエ・ノワールの存在を読者に届ける、というよりも、特定の研究課題を取り上げたものが多いように思う。社会科学の研究蓄積を踏襲した上で、列伝という読みやすい形式をとり、多くの読者の関心を惹くであろうエピソードを紹介することで、フランス現代史の一つの側面を読者にお見せしたい。
なお、本書ではピエ・ノワールとしてアルジェリア生まれの者以外にも、チュニジアとモロッコで生まれたヨーロッパ人を加えた。この3ヶ国はマグレブ地域を構成しており、チュニジアとモロッコはいずれもフランスの保護領として植民地支配下にあった。チュニジアは1881年から、モロッコは1912年からフランスの支配下に置かれた。したがって、この3ヶ国で生まれたヨーロッパ人は少なくない。また、必ずしもフランス国籍の者だけを取り上げたわけではない。さらに、植民地化の過程でマグレブに移住した者だけではなく、フランスによる統治が始まる前からマグレブにいた先祖を持つユダヤ人も本書は紹介している。加えて、一般的には、独立時にマグレブからフランス本土に移住した者をピエ・ノワールと呼ぶが、本書では、独立を待たずして亡くなった者も含める。ピエ・ノワールが誰を指すのか、という点についてはついては後述するが、ピエ・ノワールを以上のように広義に捉えたのは、より多くの人物を紹介したいと考えたからである。そうすれば、マグレブ出身のヨーロッパ人の多様性を伝えることができるだろう。そのため、ピエ・ノワールである、という自己認識を持たない、あるいは、自分はピエ・ノワールではない、と認識している人物も採録している。個人のアイデンティティを最大限尊重するために、可能な限り、紹介している人物が自身のアイデンティティについてどう考えているのかを記した。
本書で取り上げる人物の選定にはおそらく賛否があるだろう。知名度もしくは歴史的重要性が高ければ採録する、という基準を設けた。そのため、一般的には無名に近くても、歴史上重要な役割を持ったと考えられる人物を本書は複数紹介している。ここでいう歴史的重要性とは必ずしも、歴史を大きく揺るがした、という意味ではない。フランス統治下のアルジェリアの歴史を理解する上で重要なエピソードを有する者、という意味だ。たとえば、本書で紹介しているガブリエル・アボはフランス史において重要な役割を担った人物ではないが、アボ家の紹介はフランスによるアルジェリアの支配を理解する上で有益と考える。ただし、知名度や歴史的重要性の高さの測定が厳密ではない点は断っておく必要があるだろう。また、資料の制約により、取り上げられなかった人物も少なからずいる。さらに、本書ではアルジェリアを軸として人物やコラムのテーマを決めているが、アルジェリア自体が本書の主たるテーマではないため、あくまでピエ・ノワールを理解するためのトピックをコラムで取り上げた。これらの点についてはお許しをいただきたい。
最後に、本書が極めて論争的な題材を選んでいる点について触れておく。旧宗主国と旧植民地の歴史は、魅力的な文化的融合や興味深い人の移動の歴史であるとともに、苛烈な差別と凄まじい暴力の歴史だ。文化の変容や人の移動が差別や暴力そのものだった例も多数ある。アルジェリアに限定していえば、21世紀に入っても、フランスによる植民地支配の清算は充分に行われておらず、植民地支配をどう記憶するのか、という問題が二国間関係を悪化させたこともある。また、フランス社会の中でも、マグレブ出身の移民とピエ・ノワールが異なる経験を持ち、異なる記憶を有しつつ、隣人として暮らしているが、両者の間に対立がないとは言い難い。植民地支配が終わっても、その経験が作った人々の間の深い亀裂が鮮明に残っていることは多々ある。そのため、本書は植民地支配の当事者やその子孫らが和解できることを願うものである。すなわち、植民地支配がもたらした文化的影響などに目を向けつつ、当時行われたあらゆる差別や暴力から目を背けず、フランスによるアルジェリアの植民地支配とその帰結として生じた独立戦争がいかなるものだったのかを、ピエ・ノワールの紹介を通じて読者にお届けしたい。
本書の表記について
フランス語の固有名詞では、一般的と思われるカタカナ表記を採用した。そのため、フランス語の発音に最も忠実とは必ずしもいえないものもある。読者が持っている知識と合致する表記の方が望ましく、また、読者がさらなる調査を行えるようにすることが好ましいと考えたからだ。さらに、原語でハイフンが入っている場合は「=」を使用し、ハイフンがない場合は「・」を使用する原則に従っている。ただし、この原則に基づけば「ド・ゴール」や「ル・ペン」などといった一般的ではない表記を採用することになるため、一部の固有名詞ではこの原則に則らず、より多くの読者に馴染みあると思われる表記を取り入れている。
アラビア語の固有名詞に関しては、筆者の知識がないため、日本語の論文や書籍、外務省、ウィキペディアが採用しているカタカナ表記を参考にした。地名に関してはGoogleマップで示されている表記も参照した。また、複数の表記が存在する場合は、多くの読者に共有されていると思しき、新聞などで頻出する表記を採用した。
その他に、組織名など定訳が存在する語句に関しては、固有名詞と同様に、一般的と思われるものを採用した。また、場合によっては原語を併記した。
ピエ・ノワールとは誰か?
―呼称と範囲の問題―
アルジェリアの独立戦争を機にアルジェリアからフランス本土に移住した人は100万以上に上る。その内60万以上は、独立戦争の最後の年である1962年に移動している。アルジェリア解放から40年経った2002年にはアルジェリアからフランスに、のちに詳述するように「帰還」した、と認められた者が96万9466人いた。ちなみに、この年は、モロッコからは26万3642人、チュニジアからは18万223人、サハラ以南のアフリカとマダガスカルからは1万5747人、インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)からは4万4164人、エジプトからは7307人、ジブチ、コモロおよびバヌアツからは2771人の帰還者 (rapatrié) がいた。帰還者の合計は148万3321人、約42万5000世帯に及ぶ。そのうち95%が北アフリカからの者で、全体の3分の2がアルジェリアからの者だ。そのため、半分以上の帰還者が1962年から1963年の間に本土に移住した。いかに帰還者の中でも、北アフリカ、とりわけアルジェリアから移住した者が多いかが分かる。
ところで、帰還 (rapatriement) や帰還者に言及してきたが、本書で取り上げる人々は法的に「帰還者」と呼ばれ、一般的には「ピエ・ノワール」と呼称されるが、フランス本土に移動する前の植民地支配下では「アルジェリア在住フランス人 (Français d'Algérie)」などと呼ばれていた。すなわち、同じ人を指し示すために複数の呼称が存在する。さらに、ピエ・ノワールをめぐる問題を複雑にしているのはそれぞれの呼称の意味範囲だ。たとえば、ピエ・ノワールという呼称は多義的で、指し示す人の範囲はあいまいだ。以下では、それぞれの呼称とその範囲に関する学術研究における知見や当事者の主張などを紹介する。
ピエ・ノワールとは直訳すれば「黒い足」であり、日常会話の中で「彼女は/彼はピエ・ノワールだ」などといった形で、人の出自に言及する際に用いる言葉である。言葉の起源には諸説あり、1830年にアルジェリアに上陸したフランス軍の靴が黒かったことが起源だと一般的には理解されているが、異論を唱える者もいる。自身がピエ・ノワールで、ピエ・ノワール研究を行ってきたジャン=ジャック・ジョルディ (Jean-Jacques Jordi) は、アルジェリアの先住民はフランス軍や入植者を指す独自の単語を持っており、先住民がフランス語の言葉を彼らにあてる必要性はなかったはずだとして、フランス軍の黒い靴に起源を持つという説を否定している。おそらく、1930年代から1950年代にかけてモロッコに住むヨーロッパ系住民を「ピエ・ノワール」は指す言葉だったと思われる。ただし、ピエ・ノワールはアルジェリアの内陸地方に住むアラブ人をかつては指す際にも使用された言葉である。ゆえに、この言葉は当初は多様な意味で使用されていたが、アルジェリア独立戦争後は広くヨーロッパ系の住民でフランス本土に移住した者を指すようになったといえる。
この言葉で指し示される人々は明確ではない。エマニュエル・コンタ (Emmanuelle Comtat) は、アルジェリアに在住していたヨーロッパ人、すなわちフランス人、スペイン人、イタリア人などと、スペインから来たセファルディムのユダヤ人や、ベルベル人のユダヤ人で、アルジェリア解放時にフランス本土に移住した者をピエ・ノワールと呼んでいる。マグレブ地域におけるユダヤ人の歴史は長く、バンジャマン・ストラ(Benjamin Stora)によれば、ヘブライ人がすでに紀元前11世紀には移住していた。ジャン=ジャック・ジョルディもセファラディムを「ユダヤ系ピエ・ノワール」として認めている。ただし、セファルディムのアルジェリアにおける歴史はフランスによる侵略よりもはるかに古いうえ、少なくとも1870年までセファルディムは法律上フランス国籍でありながら、フランス市民権を持たない「原住民」(indigène) とされたため、アルジェリアに住むヨーロッパ系住民とは多くの点で異なる経験をしたことに留意するべきだ、とジョルディは指摘している。
また、チュニジアとモロッコに在住していたヨーロッパ系住民をピエ・ノワールに含めるかという問いにも議論の余地はある。ジョルディは、チュニジア、アルジェリア、モロッコの3ヶ国において、ヨーロッパ系住民の割合や移動の歴史が異なる、と論じている。そのため、こうした異なる地域に住んでいた住民を一括りにする一般的な言説や、チュニジアやモロッコで生活していたヨーロッパ系の人々がピエ・ノワールを自称することにジョルディは異論を唱えている。一方で、3ヶ国のヨーロッパ系住民に共通する点は、故郷からの移動、移動の際の状況、移動先の社会、すなわちフランス本土の社会との関係、そして、本土の人々が移動してきた人に対して持っている認識だとジョルディは論じている。
このように、ピエ・ノワールというカテゴリーに誰を含めるのか、という問題は極めて論争的であり、多くの場合あいまいな意味範囲でこの呼称は使用されている。
一方で、ピエ・ノワールたちを含める他の呼称も存在する。法的には「帰還者」と呼ばれる者がおり、1961年の法律では次のように定義されている。すなわち、帰還者とは「フランスの支配下、保護下、信託統治下にかつてあった領土に在住しており、政治的出来事により、その地を離れざるを得なくなった、もしくは、そのように判断したフランス人」である (loi no.61-1439 du 26 décembre 1961, art. 1er.)。この定義に基づけば、アルジェリア独立戦争でフランス軍の補充兵として戦った先住民でハルキ (harki) と呼ばれ、フランス本土に移住した者も帰還者となる(コラム「ハルキ」参照)。
ところが、植民地支配下ではムスリムの先住民は「フランス人ムスリム (Français musulman)」や「ムスリム原住民 (indigène musulman)」とされ、ヨーロッパ系住民の「アルジェリア在住フランス人」や「アルジェリア在住ヨーロッパ人 (Européen d'Algérie)」とは区別されていた。1865年の元老院令は、「ムスリム原住民はフランス人である。ただし、引き続きイスラム法の支配下にあることとする。(中略)ムスリム原住民は、申請によりフランス市民の権利を享受することが認められ得る。その場合は、フランスの市民的および政治的法律の支配下に置かれる」と定めており、フランス市民権を「帰化 (naturalisation)」により取得することは可能だった (Sénatus-Consulte du 5 juillet 1865, art. 1er.)。しかし、帰化前はイスラム法の支配下にあっても帰化後はフランス法に従うことが条文では規定され、「コーランの規定する個人の生活に関わる諸習慣の放棄」が求められた。ムスリムとしての身分を保持したいと考える多くの者が帰化を申請しなかったため、1865年から1962年までの間に帰化を行ったムスリムは約7000名にとどまった。より詳しく説明すれば、ここでいうムスリムとは必ずしも個人の信条とは関係がなく、数少ないキリスト教に改宗した者も自動的にフランスの市民権を取得できたわけではなかったため、1865年の元老院令第1条に基づく申請を行わなければならなった。行政は、ムスリムの出自を持つ者は「原住民」としてイスラム法の支配下にあり、改宗は法的身分を直ちに変更するものではないとみなしていた。一方で、同元老院令第3条は「3年間にわたるアルジェリアにおける滞在を証明することにより、外国人はフランス市民の権利を享受することが認められ得る」とのみ定めており、アルジェリアのムスリムの先住民よりも、のちに入植したイタリア人、スペイン人やマルタ人の方が容易にフランス市民権を取得し、「アルジェリア在住フランス人」の身分を得られた。さらに、1889年にはフランス生まれの親の子供にフランス国籍を与えるという出生地主義に則った法律が制定され、アルジェリア生まれのヨーロッパ系住民の子供はフランス国籍を自動的に取得できるようになった。ただし、これは国籍取得の条件緩和による権利の拡大というよりも、人口減とそれに伴う兵力の低下を恐れた政府がより多くの兵士を動員できるようにした結果である。
ユダヤ人に関しては、同元老院令第2条でムスリムに関するものとほぼ同じ内容の規定がある。なお、1870年のクレミュー政令によりユダヤ人はフランス市民権を得られた。そのため、アルジェリアのユダヤ人とムスリムの間には法律上の大きな違いがあったといえる。ただし、1940年にヴィシー政権が生まれると、クレミュー政令は廃止された。
したがって、ムスリムは過酷な差別に遭っていたといえる。ユダヤ人コミュニティも出自に基づき権利を付与されたり、剥奪されたりし、それぞれの時代の法制度により生活を大きく左右された。
しかも、「原住民」に対する差別は市民権の有無にとどまらなかった。なぜならば、「原住民」とされた人々はいわゆる「原住民法 (code de l'indigénat)」、つまりフランス市民に適用されない取り締まりや罰則を規定する「特殊」な司法の支配下に置かれたからである。なお、「法典 (code)」と一般的に呼ばれているが、原住民法は一つの法典ではなく、「原住民」にのみ適用される法律の総称である。
こうした差別は「原住民」と「アルジェリア在住フランス人」という同じ国籍を持った国民のカテゴリーを固定化し、国民の間の分断を維持した。さらに、「原住民」のムスリムをイスラム法の支配下に置くと定めながらも、「原住民」を対象とした独自の抑圧的な法制度を整備したフランス政府の行動は欺瞞に満ちていたといえよう。付け加えれば、1865年の元老院令第1条第2項に基づき、政府はフランス人である「原住民」を兵士として動員することができた。つまり、「原住民」はアルジェリアで市民権を取得することが困難でありながら、特殊な司法制度による取り締まりおよび抑圧にさらされ、国の兵力として動員された場合には応じなければならない、という法制度上の差別を受けた。
以上に鑑みれば、「帰還者」という呼称は現代の法律上のくくりであり、植民地支配下における法律上のくくりとは大きく異なる。ところで、ハルキになった「フランス人ムスリム」や、のちにピエ・ノワールと呼ばれるようになった「アルジェリア在住フランス人」は、多くの場合、代々アルジェリアに住んでおり、異なる法的身分でありながら、アルジェリアで生まれ育った点に共通点がある。そのため、「帰還」という語を不正確あるいは不適切と考える当事者は少なくない。たとえば、ピエ・ノワールの市民団体「アルジェリアニストの会 (Cercle Algérianiste)」の代表だったモーリス・カルマン (Maurice Calmein) は「押し付けられた『帰還者』というレッテルを我々はほぼ全員一致で拒絶する」と述べている。
「帰還者」という呼称を拒絶するとなれば、アルジェリアのヨーロッパ系住民は自らをどのように認識していたのだろうか。カルマンは「アルジェリア在住フランス人」という呼称は適切であるものの、「アルジェリアに根差していること」を充分に反映しておらず、単なる「『植民地』に住んでいたフランス人とみなす」点に問題があるとしている。アルジェリアに住んでいたヨーロッパ系の人々は、当時は「アルジェリア人」(algérien) という呼称で自己を認識していたが、この表現はアルジェリア解放後にアルジェリア国籍者を指すようになった。そのため、現在はフランス本土に移住したヨーロッパ系住民を「アルジェリア人」と呼ぶことはない。ピエ・ノワールという呼称が1962年頃から広く使用されるようになると、当初は蔑んだ呼び方だったにもかかわらず、本土に移住した者たちは自らをピエ・ノワールと呼ぶようになる。「アルジェリア人」や「アルジェリア在住フランス人」という呼び方に代わって、適切な呼び方を必要とした当事者たちはピエ・ノワールという呼称を受け入れたのである。カルマンも「ピエ・ノワールであることを我々は誇りに思っている」と認めている。ただしカルマンは、ムスリムや本土生まれでピエ・ノワールの考えを共有する者を含めるために「フランス語話者アルジェリア人 (Algérien d'expression française) 」という呼称を最も適切な表現として提案している。だが、この呼称は全く普及しておらず、現在の「アルジェリアニストの会」のホームページでも全く使用されていない。
結局、「アルジェリアニストの会」の当事者たちは「ピエ・ノワール」を自称している。さらに、フランス領だったアルジェリアに対し懐古的な立場の「アルジェリアニストの会」とは対称的に、植民地支配の反省やアルジェリアとの対話を重視する市民団体の「進歩的ピエ・ノワールとその友の全国団体 (Association Nationale des Pieds Noirs Progressistes et leurs amis)」も「ピエ・ノワール」という呼称を受け入れている。