目次
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2015
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「迫害」とは何だったのか──「ベルリンの壁」から「エヴロスの壁」へ
「レント資本主義」とは何か──ネット企業とその「小作人」
国民投票とクーデタ──トロイカとギリシャ、安倍政権と沖縄
民主主義は脱出とともに実践される──15M運動/シンダグマ運動
民衆運動の共和主義的転回について──安保反対運動(1)
ポスト産業社会の労働運動へ──安保反対運動(2)
「お前たちの戦争、我々の死者たち」──パリ11・13/マドリード3・11/NY9・11
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2016
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怒りはいかに政治的変革に転じられ得るか──スペイン総選挙、ポデーモス、市民連立
アンダークラスと「階級構成」──六八年、オペライズモ、ポストマルクス主義
ユートピアと土地、領土化とその実験──イスラーム国、ストローブ゠ユイエ、レピュブリック広場
権力と憲法(1)──ミシェル・フーコーの権力論
権力と憲法(2)──ブルジョワ革命は無産者によって遂行された
権力と憲法(3)──運動における言葉と身体
進歩派政権時代の終焉──アルゼンチン、ブラジル、ボリビア、ベネズエラ
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2017
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琉球復国──日本における「国内植民地主義」
欧州統合とその危機──排外主義的「党」への道
「南」としての女性──シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』
精神分析とその「大義」──抑圧の終焉
戦争と資本──ローザ・ルクセンブルクと帝国主義
社会的生産と金融資本──ハート゠ネグリ『アセンブリ』
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2018
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ウォール・ストリートとラナ・プラザ──金融化、南北関係、ホブスン『帝国主義論』
C・L・R・ジェイムズとは誰か──絶対的先進性は相対的後進性に胚胎する
六八年五月は今日もなお存続している──ドゥルーズ゠ガタリ「六八年五月は起きなかった」
鉄道員、学生、ZADの闘いは「六八年五月」の再来か──フランスで何が起こっているのか
「ポルトガルの奇跡」?──緊縮を逆行させるポルトガル社会党政権
左派政権下ポルトガルでの住宅要求運動──ジョアーナ・ブラーガへのインタヴュー
「ブラジル」と「日本人」──ブラジル日本移民110周年
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2019
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ブラジルに誕生したのはいかなる政権か──立憲クーデタと軍事ファシズム
黄色いベスト運動とは何か──フランスにおける社会運動の歴史的転換
ロボットは労働を雇用から切断する──GAFAM、蓄積なき利潤、労働の不可視化
「プロトコル」と天皇──中心化/脱中心化/分散の並存
マネジメント戦争機械小史──「科学的管理法」から「マネジメント装置」へ
現場での対決なしに社会変革はない──「経済成長」という「幻想」と訣別するために
貿易戦争と所得不平等──二〇〇一年以降の中国とドイツとの類似性
熱い一〇月──「システム」に対する世界同時多発民衆闘争
新たな労働運動としてのフェミニズム──国際女性ストライキ
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2020
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「社会」はいかに誕生したか──個人の「過失」から社会的「リスク」へ
民衆蜂起とポピュリズム──「反システム」の二つの体制
ウィルスとしてのフェミニズム──ベローニカ・ガーゴへのインタヴュー
「イメージ」を解体する「事実」──新自由主義時代のナショナリズム
「経営者マインド」のパンデミック──PCR検査としての東京都知事選挙
創造的破壊としてのCovid-19 危機──緊縮からグリーン・ニューディールへ
「脱家父長制なしに脱植民地はない」──ボリビア先住民女性たちの反採掘主義闘争
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2021
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同性愛者解放運動と革命──ギー・オッカンゲム『ホモセクシュアルな欲望』
ナチズムとマネジメント──運動する生命体、「民族」から「企業」へ
Covid-19を概括する──世界経済再編成と新たな国際主義
「パレスチナはフェミニズムの課題だ」──女性解放なしに祖国解放はない
資本主義社会は「競争社会」ではない──アマゾン社における反トラスト法の逆説
新自由主義はチリで始まり、チリで終わる──民衆蜂起から新憲法制定へ
「本当の労働組合」とは何か──木下武男『労働組合とは何か』
「第三次産業革命」は起こらなかった──経済のディジタル化は「略奪」革命である
長崎浩とは誰か──党から解放された革命としての「叛乱」
「中央銀行ディジタル通貨」とは何か──「通貨発行益」を巡る新旧金融領主間の攻防
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2022
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「労働力商品」から「生身の存在」へ──労働者の権利は労働運動が創出する
ベル・フックスとは誰か──革命闘争としてのフェミニズム
「日本型反差別」はなぜ無力なのか──「被害者の声」を社会的力にするために
「祖国防衛」とは何か──「帝国主義戦争」としてのウクライナ戦争
インターネットは物質からできている──ディジタル技術と環境汚染
対ロシア経済制裁の逆説──米国一極集中から多極分散へ
資本主義を動揺させる「大辞職」──ロックダウン下での知覚の転換
三つの「民主主義」──ディエゴ・ストゥルバルクへのインタヴュー
「市民社会」の叛乱とその敗北──オスカル・アリエル・カベーサスへのインタヴュー
「ジン、ジャン、アザディー」──再開されるイラン革命
「老人ファシズム」の時代──フランコ・ビフォ・ベラルディへのインタヴュー
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2023
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バルセローナのミュニシパリズム──フェラーン・デ・バルガスへのインタヴュー
戦争か、革命か──新たな帝国主義戦争時代の到来
「中国の世紀」とはいかなる時代か──ジョヴァンニ・アリーギの「市場経済」論
ペルーで今、何が起きているのか──全国規模の反「採掘主義」民衆闘争
労働者階級の復活──フランスの年金改革反対運動
チュニジアにおける黒人差別──「革命」に還元された民衆蜂起
あとがき 「おそらく世紀はドゥルーズのそれとなるだろう」
前書きなど
《今日の日本でよく読まれている哲学書や思想書の大半は「倫理」の書であると言っていい。日本に暮らす多くの人が日々の社会生活のなかで倫理を求めているからだろう。これに対して、本書は、いかにして資本主義に絶対的限界を突き付けるかを「状況(conjoncture)の下で思考すること」(L・アルチュセール)へと読者を誘う「政治哲学」の書である。〔……〕資本主義がおのれに内因する障壁を乗り越えようとするたびに、さまざまな存在に対して国家の容赦ない暴力が発動される。日本でも、20世紀には、国外の同時代的な状況も広く視野に入れて書かれた政治哲学書や政治思想書が多数発表され広範な読者を得ていた時代があった。世界各地での革命過程の再開とともに、倫理的転回を経験して久しい日本の哲学・思想環境が再び大きく政治化することを期待する》――「あとがき」より