紹介
「文章と構成の素晴らしさ。文学を知ることは、黒島伝治を知ることだ」
—荒川洋治氏(毎日新聞)
「私は、黒島伝治の小説を読み始めると、その呼吸、リズムにからだをあずけるのが気持ちよく、気がつけば、からだがその物語の中にどっぷり浸かっているのだった。……会話の中にも抒情を感じるし、会話がつながっていくところで生まれる衝突や不安なども、その小説を深くしているように思う。」
—山本善行・解説より
香川県・小豆島に生まれ、シベリア出兵から帰還後、小林多喜二にならぶプロレタリア文学の旗手として活躍し、病のため若くして逝った小説家、黒島伝治(1898–1943)。京都の「古本ソムリエ」、山本善行が選んだ珠玉の短編作品アンソロジー。
▶表紙カバーは 【リバーシブルタイプ】。カバーの裏面にも、画家・絵本作家として活躍する nakaban作のオリジナル作品がカラー印刷されています。
目次
初期文集より
瀬戸内海のスケッチ
砂糖泥棒
まかないの棒
「紋」
老夫婦
田園挽歌
本をたずねて
僕の文学的経歴
雪のシベリア
解説=山本善行
前書きなど
瀬戸内海のスケッチ
無花果がうれた。青い果実が一日のうちに急に大きくなってははじけ、紅色のぎざぎざが中からのぞいている。人のすきを見て鳥が、それをついばみにやってくる。ようやく秋らしい北風が部落の屋根をわたって、大きな無花果の葉をかさかさと鳴らしている。ここ二三年来夏の暑気に弱くなった私は毎年、夏祭りの頃になると寝こんで起きあがれなくなる。そして、この秋風に吹かれだして、はじめてほっと息をつく。初秋の頃になると、農民や漁民はもとより、工場へ行く者も朝起きると、まず空を仰いで、朝雲の流れや、朝焼けの模様に注意する。都会に住むと天候を気にしないで過す日が多いが、この瀬戸内海の島にいると第一番の関心事となるのは天候である。部落の行きかわりの挨拶は、「今日は」のかわりに、天候に関する言葉で換わされることが多い。二十日ほど雨を見なかった後に一と降りやってくると、誰れでも心から嬉しそうに「えい潤いじゃのう」と云いかわす。私も小豆島に住みつづけるうちにいつか天候に気をとられて暮すことが多くなった。ラジオの天気予報は近頃だいぶよくあたるし、新聞の天気図を見るのも、たのしみの一つであるが、それでも自分で見た落日の模様や雲の動きや風の具合による判断の方がよくあたる。天候は、天気予報以上に不思議に私白身のからだの調子に影響する。……