目次
問答一 白川密生
『太陽を曳く馬』をめぐって
宗教への真摯な姿勢と残虐犯罪の分岐とは
仏教とオウム、分岐のポイントは「空性」?
体験だけに陥らず、修法で確認していく
仏教の善悪とは
仏教に社会貢献は可能か?
仏教界の芸人を目指して
儀式の宗教性とその意味
「死」という、人生の一大テーマ
「死」に直面する場を温める仕事
問答二 釈徹宗
浄土真宗は仏教か?
真宗僧侶は何者か
本物の念仏、偽者の念仏
「死んだら往生」は、仏道を歩んで開ける世界
仏性は生得的か
世間を生きる人を主役に据えた法然
宗教と悪
社会と宗教の位置関係
阿弥陀仏はモノセイズムではなく気づきの光
仏教の宙づり手法は、人を育てる力
いつまでも終わらない「オウム真理教事件」
社会を超えた「私」を掬うものは?
仏教の定義と仏教である浄土真宗
論破の本質は「成り立たない」の指摘
問答三 勝本華蓮
問いかけの本源へ 上座仏教・大乗仏教・日本仏教、尼僧の視点から
異色の出目——広告デザイナーから仏教者へ
「ぴゅーっと血が・・・・・・」
第六感で感じた出会い
導かれて比叡山へ
サンスクリット語学から仏弟子の研究へ
仏弟子研究で浮かび上がる部派と大乗の対照
大乗が上座部に密輸入された
スリランカ仏教史解体
大乗もブッダの口伝の可能性はある
説かれたことはぜんぶ方便
ブッダはなぜ自己完結しなかったのか
悟りと解脱の違い
女性仏教者として
組織はいらない
問答四 南直哉
不死の門をいかに開くか
生者よりリアルな死者
生は死で始まり、死の消去を試みる
生と死の対消滅がニルヴァーナ
死者が起動するリアル
無常とは、死のリアリティ
死者は語れる。死は語れない
死を生の側に回収し続けた果て
共同体の崩壊と葬送儀礼の崩れ
ダース・ベイダーは私だ
存在を問う手法
問いはどこまでも続く
仏教の救済と脅威
死は、一人称しかない
課された自己の受容が最大のテーマ
死刑の是非
死は語るに値する
死を考える人が笑う一点に懸ける
問答五 林田康順
仏教にとって救済とは何か「誰が」「いかに」救われるのか。そして「何が」救うのか。
極楽浄土へ行く条件
住生即成仏か、成仏の確約か
親鸞の浄土観
住生と成仏
成仏の可能性は誰に開かれているか
法然における救済の模索
法然の体験を継続しなかった親鸞
親鸞の光明の体験
宗祖の体験を継続しない宗派
浄土宗における阿弥陀仏の実体性
阿弥陀仏は空ではないのか
死刑制度の宗教的是非
高みに立つ宗教的言説
法然における「悪人正機」
大災害の救済に有効な論理とは
業報を超えた浄土門
あとがき