目次
序章 物語を歩く─神ノ島と青龍窟を結ぶ豊玉姫
第一章 戦国「城」の物語堅固第一─豊前松山城攻防戦
松山城祉に登る/伝説の中の松山城/大内氏と杉氏/大寧寺の変と杉重矩/大友義鎮と毛利元就/門司合戦と蓑島海戦/小早川隆景の松山城入城/高橋鑑種の反乱/毛利氏の九州撤退/杉重良の反乱/黒田官兵衛の布陣/松山城の改修と廃城
第二章 幕末「峠」の物語倉兵剽悍─小倉戦争狸山の陣
松山の遠見番所/島村志津摩の改革/長州藩との確執/小倉戦争勃発/苅田百姓一揆/狸山峠攻防戦/二崎の志津摩桜
第三章 近代「港」の物語海岸移動─九州屈指の国際貿易港建設
遠い白浪/塩田の開発/塩尻法の謎/石灰石をめぐる企業進出/苅田港の建設/国際貿易港と臨海工業用地離 陸─新しい物語の始まり
参考文献/あとがき
前書きなど
■序章より抜粋
「苅田」はなぜカンダと読むのでしょうか。
『日本書紀』によれば、安閑天皇の代に、豊前国に五か所の屯倉が設置されましたが、その一つである肝等屯倉が苅田町にあったと推定されています。
平安時代になると、『和名抄』には京都郡の四つの郷の一つとして、「刈田郷」が記されています。一方、『本朝世紀』には「賀田郷」が見えます。鎌倉時代になると、宇佐宮弥勒寺の荘園として「苅田荘」が出てきます。「刈」に草かんむりが付いています。
「カンダ」については、刈田から苅田に変化したという説と、「かと」、「かた」のようにもともと「カンダ」という読みがあったという説がありますが、定かではありません。
ちなみに「京都」郡についても触れておきます。『日本書紀』によれば、景行天皇が筑紫に到り、豊前国長峡県に行宮を営んで住んだため、この地を「京」と名付けたといわれています。また、『和名抄』では、「京都」に「美夜古」というルビをふっています。