前書きなど
希代の風流人、尚順男爵
尚 弘子
尚順は一八七三(明治六)年四月六日(新暦五月二日)、琉球最後の国王尚泰を父に、松川按司真鶴金を母に首里城で誕生した。童名を真三良金、唐名が朝明とのことである。
実は尚泰王の第四子として誕生したが、第三王子尚興が夭逝したので世間では「御三男様」と呼ばれたという。
順は六歳の時、首里城明け渡しという王府にとって極めて大きな悲劇に直面している。十四歳で、東京九段坂上富士見町の尚侯爵邸で元服した。前年の八月三十日には松山の名島を領して松山王子と称し、これが現在の松山御殿である。
二十四歳で男爵を授けられ、三十二歳の一九〇四年七月十日に貴族院議員に当選、一五年六月に辞職するまでの活躍も高く評価されている。また若いころから、古美術を愛し、書画骨董への造詣が極めて深かった。一方では、沖縄における産業・観光・文化の振興、特に園芸や食文化等に身魂を打ち込んだ。
晩年の順は、建築家の伊東忠太博士、画家の藤田嗣治、民芸研究家の柳宗悦、陶芸家の河井寛次郎など、大和の珍客のおもてなしを楽しんだという。残念ながら、貴重な所蔵品は去る大戦ですべて焼失し、本人も四五年沖縄戦のさなか、七十三歳でその華麗な一生を終えた。
尚順の没後刊行された、『松山王子尚順遺稿』によれば、首里城明け渡しの思い出を、「子供心にも、城中騒然としており、あちこちに聞こえる嗚咽を夢のように聞いていた。実は城の明け渡しが三月の九日だから、直前の旧三月の節句には例年なら識名の御殿で御重開きをやっていたのが、その年に限って城内御二階御殿の御書物蔵で行ったものだから、少し変だと思っていた」。
さらに「多分琉球処分官松田道之が廃藩置県の宣告をする時の姿を見た記憶がある。南殿に、その頃には珍しい洋服の男が床を背にして音吐朗々と何かを読み上げていたが、恐らくそれが廃藩置県の宣告であったのだろう。私にも何か言ったが、大和口だから無論私にはわからなかった」と記している。当時の琉球では日常的に旧暦を用い、方言だった事がよく分かる。
昭和の初期から鷺泉という雅号で漢詩、琉歌、随筆の数々を残した。
中でも「琉球料理の堕落」と題する随筆には、海に囲まれた沖縄で塩を巧みに使いこなしていないことを嘆いており、特に「豚肉料理で塩が利かんと味は半分も出ないものだ」と記してある。さらに亜熱帯という本県の地理的環境を生かし、果実類や観賞用の植物などの栽培にいそしむべきだとも述べている。
また、「今後の振興計画の一条件としても、本県の特殊位置を利用して、大いに観光客の誘致に務める事である。それには官民各方面に亘り、所謂衆智を集めて独立せる一局を設けて講究する事である。したがって外客を迎えて第一線に立つ味覚の研究、此れ又大切なる事と思うのであります」という記述は、現在観光産業の振興を推進している本県にとっては貴重な提言であろう。
私は戦後、一九五八年に縁あって尚家の一員となった。義父としての尚順との接点はないが、年に数回ある松山御殿の行事に今帰仁御殿の延子様をはじめ尚家の人々が我が家に集うと、昔話のほとんどが尚順男爵についてであり、その都度いかに偉大な存在であったかが身に染みたのを思い出す。
最近、沖縄の長寿危うし、と沖縄の貴重な食文化がなおざりにされたことを嘆かわしく思うが、長年琉球大学で長寿食素材の生化学的実験を続けてきた私にとって、義父尚順や義姉たちの話の影響は大きく、今でも深く心に刻み付けられている。
(琉球大学名誉教授)