目次
Ⅰ 中村医師との出会い
Ⅱ 戦乱の中の医療 中村医師とともに
Ⅲ 大旱魃と9・11
Ⅳ 現地の疾患
Ⅴ ペシャワールを去る
Ⅵ 心の中にまかれた種
前書きなど
まえがき(一部抜粋)
「中村先生が銃撃された。今のところ生命に問題はないらしい」
仕事中に妻から連絡が入った。
「よかった」
私の脳裏に、一九九一年アフガン内戦時のことがよぎった。先生は、アフガン山岳地帯に診療所を開設するための調査に行き、途中で先生の乗ったジープの直前に砲弾が落下したのだ。当時のJAMS(Japan-Afghan Medical Service)のシャワリ院長が「ドクターサーブ中村は驚かず腕組みして、“Good weapon(いい武器だ)”と言って平然としていた」と話していたのを思い出し「先生は死なない」と楽観視していたのである。
その後、妻から「中村先生が亡くなった……」とすすり泣く声で連絡が入った。
「まさか」
病院の待合室でテレビを見ていた患者さんからも「先生が亡くなったというニュース速報が流れている」と連絡を受けた。
さまざまなことが、私の脳裏をよぎった。先生はペシャワール在任中、私の子供たちと一緒にお絵描きをして遊んでくださった。忙しいにもかかわらず、私にウルドゥー語の指導をしてくださった。優しい先生の顔を思い出し、涙があふれた。先生は、ハンセン病を柱とする医療活動だけでなく、旱魃(かんばつ)に襲われたアフガニスタンで井戸を掘り、命を賭して農業用水路を建設することで「アフガニスタン東部の砂漠化した荒野を緑の沃野に変える」という奇跡を行った。
二〇一九年十二月四日に先生が死去されて四年になろうとしている。どんな偉人も時が経てば忘れ去られるが、先生の存在感はますます大きくなっている。
私は、一九九七年ペシャワール会からパキスタン・ペシャワールに医師として派遣され、四年間現地で活動した。妻と子供二人も一緒だった。現地では、与えられた医療活動をこなすことや言語の習得などで忙しく、あっという間の四年間だった。そして二〇〇一年の9・11事件の余波もあり、現地活動を志半ばで終えざるを得なくなった。悔しい思いや現地の人、応援していただいた人への申し訳ない気持ちを込めて「ペシャワール中退」と称している。
先生亡き後、先生の著書のすべてを繰り返し読んだ。生前は真剣に読んでいなかったのだとあらためて思う。著書には多くの「珠玉の言葉」が散りばめられていた。先生はあまりにも身近であったため、その器の大きさや洞察力、そしてその人生哲学などを全く理解していなかったのだ。
先生の業績および残された言葉は、私の人生の「道しるべ」や「励み」になり、自分自身を見つめなおす機会となった。さらに、大げさではなく「我々人類が進むべき道」を照らしてくださることを確信した。
この本の著者である私は、誇れる実績や経歴のない「ペシャワール中退」の田舎医者である。中村先生のことを書く資格があるのか、文章を書く意義があるのかを迷った。
先生は、「様々な人や出来事との出会い、そしてそれに自分がどう応えるかで、行く末が定められてゆきます。私たち個人のどんな小さな出来事も、時と場所を超えて縦横無尽、有機的に結ばれています。そして、そこに人の意思を超えた神聖なものを感ぜざるを得ません」と述べている。(『天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い』NHK出版、二〇一三年)。
私も中村先生をはじめ、多くの人との出会いがあり、普通の医師とは少し異なる人生を歩んできた。 偉大な先生から学んだことや現地での医師としての臨床経験などの貴重な財産を、かかわった者の役目として伝えていかねばならないと思った。
中村先生をはじめ偉人と呼ばれる人に関する書籍を読み、子供の頃に「こんな人になりたい」と夢見る人は多いと思う。先生のような「海外での活動」に限らず、日本の僻地医療に従事したいとか、大学に進まず、有機農業をやってみたいとか、在野の研究者になりたいなど、きめられたレールに乗らないような生き方を真剣に考えている人も多くいると思う。
しかし、実際に進路を決める際には、「とても自分には真似できない、優れた才能・才覚が備わっていない、育ってきた家庭環境が違う」などと考え、さらに、両親・知人など周囲から反対されると、一歩を踏み出すことを躊躇する人がほとんどかもしれない。
私は、商売人の家庭で教育熱心な両親に育てられたごく平凡な人間で、とても妻と子供を連れて辺境の地へ行くようなタイプの人間ではなかった。誇れるような実績を残せたわけではないが、少なくとも第一歩を踏み出し、ペシャワールに行った。振り返ると、私は「ペシャワール中退」になりはしたが、中村先生のもとで働くことができ、現地の四年間で多くのものを得ることができた。中退後も、迷いながらもいくらか自由に生きることができ、それなりに「人生のやり直し」ができて幸せだったと思う。
どうして妻と子供を連れてペシャワールへの第一歩を踏み出したのか。第一歩を踏み出したのちの苦労や「ペシャワール中退」後の私の人生などもお伝えし、夢を抱いている方の参考になればと思う。