紹介
第三巻「村の崩壊」1925〜1937年頃
▼工業化がもたらしたものは、賃労働の一般化、つまり村の貨幣経済化だった。かつての藩境の村も、オイチニ! という日本資本主義の行進の後尾についたのだ。
▼まず、人々の生活が向上する。その分、冠婚葬祭が派手になる。民衆の足は、共同体に立っているので、親戚内の義理が増大する。周知のように、血縁は、共同体の最深部の紐帯である。狭い村の中で血縁は折り重なり、血は凝縮する。
▼村の中では、田畑がないために分家することができなかった貧農の息子も、銭を稼いで独立できるようになる。一方、上農の間を放蕩熟が支配する。何しろ金があれば、何でもできるのだ。先祖代々しがみついてきた田畑も、実は売ることができるのだった。村の階層は激変し、土地は離合集散する。地主も、遊興、政泊、事業の失敗などで、総潰れに近い状態になる。生き残った地主がお山の大将になり、工場との間に権力争いが起き、やがて妥協が成立した。
▼物事には表裏がある。民衆にとつて貨幣経済とは何であったかと問題を立てれば、当然逆の命題が生まれる。光の当たり方により、違った図柄になる子供の玩具絵と同じように。村を工業化した工場の技術は、大正末期には時代遅れになり、昭和に入ると工場は縮少し、新規雇用は止まる。村は、一転不景気のどん底に落ち、青年の働き場所はな〈なる。青年たちの流亡先は、男は炭坑、女は遊郭だった。工業化の過程で、工場が村の神になつたように、不景気の中で、かつては蔑視の対象であった工員が、村人の神に昇格する。工員になれれば、嫁御は選り取り見どりであった。折りしも、日本資本主義は、昭和恐慌に突入する。閉塞した村社会の出口は植民地であり、村を吹き抜ける木枯しの果ては、大陸への侵略戦争であった。
▼時間が収縮し、激動していく昭和の村。われわれのもう一つの基底。水俣の民衆は、本巻で昭和の物語りを語り始めた。
目次
一 地鳴りが聞こえる——共同体と貨幣経済
共同体の紐帯
開いて結んで——血縁の変化●義理の増大/血縁 の凝縮
夜這いと結婚の分離●嘘八百並べて/女に子供が できると
私たちの結婚●「嫁御見」に来らった/金の糞
結んで開いて——地縁の変化●五人組の末裔/家 建て・萱葺き/死者は部落に属す
村で生きていける戸数
水俣で一番豊かな村●深川村の見取図/明治・大 正の戸数増加/昭和はじめ頃の賃稼ぎ/昭和20年 までの戸数増加/まとめ/深川小学校百周年記念 誌
山仕事●出しごろと牛車曳き/山の河童
二 女買い——持てる者の貨幣経済
放蕩狂時代
村を走る狂気●荒使いが始まつた/嫁御もらうよ り買うた方がいい
二代にわたる女遊び——元士族の場合●じいさん ——田畑を抵当に入れて/親父——財産を売り飛 ばして
長兄のドンチャン騒ぎ——元庄屋の場合●自動車 と芸者/一駅員の分際で!
私の放蕩——ある上百姓の場合●女郎屋の面白さ /担保設定通知/放蕩者の心理
没落の唄
小地主——長野さんの没産●総潰れ/探川村の地 主の流れ
大地主——平野屋の没産●平野屋対日本窒素/広 大な屋敷/競売
没落後の旦那さん●豆席売り/娘さんの発狂と自 殺/鶏小屋/旦那さんの最期
一元化された地主制●伊蔵の天下/町長争奪戦— —日本窒素対伊蔵/権力の配分
三 不景気がやって釆た——閉塞する村
働く所がない
鏡工場は閉鎖、水俣工場は縮小●鏡工場職工日記 /みんな首だった/水俣石灰窒素、セメント工場 の廃止/不景気の到来
二つの狭き門●米一俵が5円に/軍隊の門/工場の 門
職工の弁当箱●日雇があこがれの的/田圃の代わ りに
八方ふさがり●銭は持たんや?/青年訓練と徴兵 検査
長島から水俣へ●男の金星/バナナと台湾兵/島 を出る
銭借り●高利貸/夜逃げと日掛通帳/講金
事件師
死に急いだ者たち●御大典と幽霊列車/色町の刃 傷沙汰
異境の住人たち
勧進がゾロゾロ●馬車立場と勧進/ウラの村の勧 進/三五郎どん/勧進小屋を焼く/勧進の笑い話
神経どん列伝
アチャ物語●アチャとアチャの子/どん底と想像 力
村を向いて拝め
泊めてくれる家●うちさン来んな/かわいそうと 思う心
四 木枯らしの果て——流亡と戦争
国内への流亡
地主支配の村●薄原村/焼畑/流亡
因果●葛渡村馬淵/椿の花とアイスクリーム/ヤ ツボと私
炭坑●多かった水俣者/彼女/死
ある女衒の回想●浮かぷ瀬はない/料理屋見晴/ 女衒になる
「ミンナゲンキ」●子供の売り買い/お願いしま す
植民地への流亡
おふくろの一周忌●人間の油/河川工事/水俣で は食や得ずに
朝鮮から水俣へ●朝鮮人土方/深川村の朝鮮人
水俣から朝鮮へ●一大センセ−ション/流亡のハ イウェイ
ここはお国を
張学良との戦争●熱河「討伐」/北平のすぐ傍ま で
泥沼●大陸の奥探く/点の戦争の特徽/日本に帰 る道
青年の居ない村●最後の夜這い者/男ひでり
前書きなど
西日本新聞 1990.10.17
日本の近代とは何であったか 岡本 達明
20年かけて歴史の根を掘り続けた
全5巻の刊行を終えて
(前略)
6つのテーマで
1971年、私は松崎次夫(水俣工場の労働者だった)と2人で、意を決して長い一連の聞書に着手した。水俣中をくまなくまわり、村の古老たちや、かつての職工たちを訪れた。天草に渡り、必要とあれば東京にでも、どこにでも行った。私たちのたてたテーマは6つあった。1つのテーマを解くためには、100人前後の民衆の話を聞く必要があった。膨大な量のテープを文字に直し、粗編集するのに、2年半かかった。6つで、のべ約600人、のべ15年以上。おお、なんたる馬鹿。他に何もできぬ。だが民衆の話は、否応なしに、私たちをのめり込ませていく力を持っていた。どのテーマをとってみても、発見性に満ちていた。そして、語り手は高齢であり、どのテーマも解くべき最後のチャンスだった。私たちは、墓場の前で網を持ってかけまわっている、物語の採集人に似ていた。仕事が進んでいくにつれ、自分たちのしていることは、民衆にとって日本の近代とは何であったかを、深く掘り下げて「く作業に他ならネいことに気がついた。
相棒が不慮の死
1986年、16年めに不幸が訪れた。長年の仕事の相棒松崎次夫が、不慮の交通事故で死んでしまったのだ。2人とも、本にしようと思ってやってきた仕事ではなかった(「天草の漁民」だけは、1978年に別の編著書で既刊した)。しかし、遺児たちを見ていると、この子らに目で見える形で父親の仕事を残すのは、私の責任かもしれないと思えてきた。それを見て、長年私たちを激励してきた友人たちが、本にする段取りを進めてくれた。水俣の労働者が中心になって、刊行委員会もできた。私は気を取り直して、粗編集稿を大幅にけずり落とす、最終編集にとりかかった。同時に民衆の中に残っている古い写真を集めた。口絵として載せるためだ。—松崎次夫の死から4年、いま、草風館刊『聞書水俣民衆史』全5巻が、私の机の上にある。仕事に着手してから刊行を終えるまで、ちょうど20年の歳月がかかったことになる。なんと大勢の民衆の力で、なんと無数の誠意と協力で、産み出された5冊の本であることか。根を知りたいという私の望みは、達せられた。