紹介
昭和4年晩春初夏のころ、インド洋をわたってフランスに留学した岡潔はパリで中谷宇吉郎、治宇二郎兄弟に出会い、人生の基調をなす深い友情を結んだ。ガストン・ジュリアに示唆を受けた多変数函数論研究に生涯の課題を定め、トノンの貸別荘で病身の治宇二郎と語り合い、学問の道標を発見して帰国したが、昭和13年6月、広島文理科大学の休職を余儀なくされ、帰郷した。郷里の和歌山県紀見村で孤高の数学研究に身を投じた岡潔を物心両面にわたって支え続けたのは、中谷兄弟のパリの友情と、大正末の青春期に秋月康夫との間に生れた三高の友情であった。
紀見村の岡潔は父との別れに遭遇し、芭蕉や道元や佐藤春夫に親しみ、江口きちの歌集『武尊の麓』に心情を揺さぶられる日々を送り、カルタンやベンケからのときたまの便りに励まされながら独自の数学的思索を深めていった。昭和16年秋、北大理学部に赴任。12月8日、札幌でハワイ海戦のニュースに接して深刻な衝撃を受けた。翌17年9月、帰郷。昭和23年7月、戦中戦後の不定域イデアルの研究が結実して第七論文が成り、昭和25年、フランスの学術誌に掲載されたころから数学者「岡 潔」の真価は広く欧米の数学界に認識され始め、奈良に転居した岡潔のもとにヴェイユ、カルタン、ジーゲルなど、世界の数学者たちが相次いで来訪した。晩年は小林秀雄、坂本繁二郎、保田與重郎、胡蘭成らと交友し、市民大学や葦牙会の提唱など、多彩な社会的発言を繰り広げた。「リーマンの定理」という表題をもつ一連の数学ノートを遺すとともに、宗教的色彩を帯びた回想録「春雨の曲」を書き継ぎながら、昭和53年3月1日未明、数えて78歳で逝去した。
目次
中谷兄弟との邂逅
フランス留学/「雪の博士」/中谷治宇二郎の来仏(一)/中谷治宇二郎の
来仏(二)/パリの日々/トノンからのたより/考古学/「白い家」
帰郷
紀見村の岡先生/東京出奔/伊豆伊東憧憬/中谷先生の友情/静岡逗留
/診断書/休職同意書/白い鳥と黒い鳥/「岡の原理」の回想
お念仏のはじまり
みちさんの心情/依願免本官/お念仏のはじまり/光明会/「願い」の数学
/第三の発見/ノーベル賞/光明会遍歴(一)/光明会遍歴(二)
武尊の麓
二人の無名女流歌人/「武尊の麓」(一)/「正法眼蔵」/唯一滴の露
/「武尊の麓」(二)/江口家の滅亡
大戦下の札幌
北大への招待/第六論文/無名女流歌人の歌/札幌の夏の日々/帰郷
/上京と再度の帰郷/大戦下の紀見村の日々
不定域イデアルの理論と多変数代数関数論への道—-数学ノート(二)
第七論文の初出テキストと原テキスト/岡潔の言葉(一)不定域イデアル
/岡潔の言葉(二)/数学の客観的形式と主観的内容/第七論文の二つ
のテキストの序文/第八論文の序文より/一九四四年のカルタンの論文
「n個の複素変数の解析函数のイデアル/一九四九年のカルタンの論文
「複素変数の解析函数のイデアルとモジュール」/内分岐領域の理論/
多変数代数函数論への道
紫の火花の伝
『春宵十話』/水たまりの光/紀見村の日々/伝説と明日の数学
文化勲章
文化勲章/中谷宇吉郎との別れ/親授式/吉川英治との交友/同窓会
世界の数学者たちの来訪
東京日光「整数論」シンポジウム/ニコラ・ブルバキ/アンドレ・ヴェイユ
(一回目の訪問)/ジーゲルの来訪/アンドレ・ヴェイユ(二回目の訪問)
/アンリ・カルタンの来日
岡潔略年譜
あとがき
前書きなど
数学者「岡 潔」の評伝の執筆を決意し、フィールドワークの構想をたて、まず初めに岡潔の父祖の地の和歌山県紀見峠に足を運んだのは平成八年二月六日のことであった。午後遅いころ大阪の難波から南海高野線で紀州方面に向かい、大阪側の峠の麓の天見駅で下車して坂道を登っていくと、まもなく大阪と和歌山の境を示す標識の立つ頂上に到着した。薄寒い冬の日の夕暮れ時のことで、人通りのない街道一帯に牡丹雪が降りかかり、幻想にみちた風情があった。岡潔の生誕地を示す主旨で建てられた「岡潔生誕の地」(岡潔は大阪で生れたから、紀見峠は厳密には生地とは言えないが、故郷であるのはまちがいない)の石碑の側に、一本の梅の木と小さな句碑を前景に配した倉が目にとまったが、この倉はかつてこの地に存在した岡家の痕跡を今日に伝える「名残りの倉」で、紀見峠に住む岡隆彦さんの所有物である。岡隆彦さんは岡潔の兄にあたる岡憲三の次男である。この日、ぼくは隆彦さんに会い、紀見村の往時のあれこれをうかがったり、案内を得て岡家の墓地にお参りしたりしてひとときをすごした。
……
評伝執筆のために不可欠のフィールドワークはこうして順調に歩み始めたが、それから数年に及ぶ経緯は思いのほか錯綜をきわめ、会って話を聞いた人の数といい、訪ね歩いた土地の分布の広がり具合といい、新たに遭遇した事実群の多様さといい、当初の想定をはるかにこえて非常の規模の大きい複雑なフィールドワークになった。想定された書名もいくたびか変遷したが、最後の段階で二冊の姉妹本にする考えに傾いていき、土井晩翆の詩「星と花」にヒントを得てそれぞれ「星の章」「花の章」とすることにした。