目次
第一章 広島
第二章 東京、一九七一年
第三章 ベルリン
第四章 フライブルク
第五章 東京、一九八五年──種子(シーズ)
第六章 歌
第七章 秋吉台−武生
第八章 旅(ヴォヤージュ)──ドイツ−日本
第九章 庭−花
第一〇章 風−波−海(オーシャン)−雲
第一一章 レクイエム
第一二章 雲と光
第一三章 ムジークテアーター
第一四章 東京−ベルリン
第一五章 誕生
細川俊夫「大地の深みより──音楽と自然──」
A・ラッヘンマンによるインタヴュー「不安は大きいのです……──地震、津波、そして原子力発電所事故──」
前書きなど
日本語版への序文──細川俊夫
この本の基礎となった音楽学者ヴァルター゠ヴォルフガング・シュパーラーとの対話は、二〇〇八年の秋から約三年にわたって、ベルリン高等研究所で行なわれた。ベルリン高等研究所(Wissenschaftskolleg zu Berlin)は、世界各国の知識人、学者、芸術家を一年間に約四〇人招待し、共に生活させ、それぞれの経験を出会わせることを目的とした場所である。毎年一人か二人の作曲家も招待されているが、幸運にも二〇〇六/〇七年に私も招待され、それ以降頻繁にここを訪れることになった。ベルリン西部のグルーネヴァルトに横たわる美しい湖と森に囲まれたこの研究所で、私は数多くの素晴らしい人たちに出会い、自分の経験を豊かにすることができた。その研究所の深い静けさに満ちた図書室で、この対話は十数回にわたって行なわれた。
シュパーラーは、私のベルリン留学時代の最も初期から、私の作曲活動を見つめていてくれた人だ。私は一九七六年の秋から、ベルリン芸術大学で尹伊桑(ユン・イサン)教授に作曲を学び始めた。その当時シュパーラーは尹の音楽を研究しており、後には彼のアシスタントとして、尹の仕事の様々な手伝いをしていた。そして尹の死後は彼の仕事を整理し、彼の音楽に共感する人を集めて協会を立ち上げ、その企画でコンサートや本をも懇切丁寧に創りあげてきた人である。この尹の作品研究者は、尹のもとに二〇歳でやって来て、作曲家として誕生し成長する私の姿をずっと見守ってくれていた。同じ東洋の作曲家といっても、韓国出身の尹と日本人の私とは、共通点もあれば異質な点もある。それを知り尽くしているシュパーラーは、私の音楽について、私からその考えを聞き出す対話者の役割を担うのに、最もふさわしかったと言えよう。
私のドイツ語能力は、私の考えていることを正確かつ綿密に伝えるのには限界があり、ここに語られているのは、私の稚拙なドイツ語をシュパーラーが適切なドイツ語に訂正し、書き直してくれたものである。そのために彼には、膨大な時間を費やさせてしまった。しかし、それでもやはり私のドイツ語では、自分の考えていることを十全に話しきっているとはいえず、やはりいくつか舌足らずの印象を与える部分もあるだろう。しかしそれと同時に、ドイツ語で話すことで、余計な言い回しを省いて、より直截に自身の音楽について語っているところもある。
この本の序文を書いてくれたヘルムート・ラッヘンマンもまた、私の成長を長い間見守ってくれた師匠の一人である。ベルリン高等研究所のフェローに推薦してくれたのも彼であったし、彼は私と同時期にこの研究所に数个月滞在したこともあった。ラッヘンマンは私が最も尊敬し、しかも近くでその創作活動を知ることができた現代ドイツの偉大な作曲家である。彼から直接に作曲のレッスンをしてもらったのは、八〇年代はじめのダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会でのみであったが、それからの三〇年以上にわたる長い期間、何度も会う機会があり、その度に彼は鋭い、そして優しさとユーモアに満ちた助言をしてくれた。彼の近くにいられたのは、彼の妻である優れたピアニストの菅原幸子さんが親しくしてくださったおかげであり、私がヨーロッパで作曲家として生きぬいてゆくことができたのは、このお二人が心の支えになってくれたからである。ラッヘンマンは緒言で、私は「幸福な作曲家だ」という。確かに私には彼が背負っているようなヨーロッパ音楽の深くて強い伝統はない。彼の背中からは、ベートーヴェンやシェーンベルク、ノーノがすぐ顔をのぞかせる。それらの巨大な音楽伝統を継承し、変革し、さらに新しい音楽領域を開拓していかねばならないのが、ラッヘンマンの仕事である。それがどんなに重圧であるか、私にはわかるような気がする。
その点、私は全く異なった伝統、背景を背負ってここに立っている。一九世紀の後半に西洋音楽に出会い、その響きの斬新さ、重厚さに感動し、圧倒され続けて、日本人は今日まで歩いて来た。その日本の西洋音楽世界では、日本人の音楽伝統は、遠い過去の遺物として深く顧みられることはなかった。ようやく一九六〇年代になって、武満徹たちによって、日本の伝統音楽が日本の西洋音楽の文脈に重要なものとして入り込むようになった。そしてその時代からいくつかの重要な作品が、日本からも生まれ、それがヨーロッパでも評価されるようになった。それらの作品は、異国趣味としての東洋的な音楽の味付けを、西洋音楽の根底を持った音楽に、単に装飾的に取り付けるのではなく、根底に西洋音楽とは異なった根源を持った音楽を創造しており、その独自性は西洋音楽の世界に、新しい音楽の価値を認めさせるものであった。
そうした音楽の先駆けが、私にとっては武満徹や尹伊桑の音楽であり、彼らと同世代の幾人かの優れた東洋の作曲家たちが切り開いた地平の後を、私は歩いている。この二人が私にとって大切なのは、彼らが西洋と東洋の狭間に生きて、その二つの根底の狭間でその相違を認識しながら、さらに深い根底をさがして、それを原理にして作曲活動を行なったことである。武満徹の「一つの音に世界を聴く」、「音、沈黙と測りあえるほどに」、「さわり」というような言葉の内にある、日本の音の再発見は、私の原点となった。そして直接の師である尹伊桑の「音のカリグラフィー」、「主要音」、「陰陽の音宇宙」の考え方も私の作曲原理の中心課題となった。おそらくこの二人が晩年になって、これらの音楽思想を徹底できなかった世界を、私はさらに深く追求したいと願っている。
世界の音楽シーンが、グローバリゼーションによってますます均一で平板なものになりつつあり、世界中の人が繊細な耳を失い、機械化された信号のような音に条件反射するような耳しか持てなくなりつつある現状にあって、私たちの現代の音楽はますます孤立し、袋小路のなかに入り込もうとしている。日本の西洋音楽のクラシック音楽界は、西洋からの輸入に関心のある音楽界であり、大手の呼び屋が、大物オーケストラやアーティストをいかに早く上手に招聘するか、ということの戦いになりつつある。確かに優れた西洋音楽の古典を、私たち日本人が深く聴き、愛するようになることは素晴らしいことだ。そして日本の演奏家やオーケストラが、国際的にも通用する高い水準の演奏をするようになっているのも、素晴らしいことだと思う。しかしそうやって消化した西洋音楽を、さらに自分たちの独自な創造的な音楽につなげていかなければ、単に西洋音楽の受容に終ってしまうのではないだろうか。そして日本は西洋音楽の優れたマーケットであることに終ってしまうのではないだろうか。残念ながら、現在のクラシック音楽界には、そうした受容を超えた創造的な音楽の展開は、非常に乏しい。現代のアクチュアルな音楽はお客さんが呼べずに、経済的にも成り立たない。そしてクラシック音楽ファンは、無調の音楽はすべて「現代音楽」という枠組みでくくって遠ざけてしまう。若い多くの作曲家たちは、難民のように存在し、しっかりとした仕事をもらうこともなく、自分の書いた音楽を演奏してもらうことも難しい。私はかつて秋吉台国際セミナーを開催し、現在は武生国際音楽祭、そして「広島の新しい耳(Hiroshima Happy New Ear)」シリーズ等の企画をして、若い作曲家たちと長年親密に関わってきた。しかし残念ながら近年は、若い作曲家たち自身が、現代の音楽への関心を失いつつあるという印象を拭いきれない。
こういった時代に何ができるのか、私にはわからない。私が想像しているような芸術音楽は、もうこの国では必要ないのかもしれない。そして私が想像しているような、非ヨーロッパ圏からのヨーロッパ音楽の考え方とは異なった世界を根底に持つ新しい芸術音楽などは、もう存在できないのかもしれない。
このような問いかけを持ちながら、私はすでに作曲家として三〇年以上も創作活動を続けて来た。最近の作曲の仕事はほとんどヨーロッパからのもので、日本で演奏される作品は、ヨーロッパからの逆輸入のような形で上演されることが多い。この原稿を書いているのは、私が留学のためにはじめてドイツへ向かった一九七六年六月からちょうど四〇年の歳月が経過した時である。
私の音楽家としての遅い歩みを語ったこの本は、ドイツで出版され、今回アルテスパブリッシングのご厚意で日本語版が出版されることになった。翻訳をしてくださったのは、私の年下の友人で広島に在住する哲学者柿木伸之さんである。柿木さんは、ヴァルター・ベンヤミンの研究者であるが、音楽、美術、映画といった芸術分野に極めて造詣が深く、しかも鋭敏で豊かな感受性を持たれた方である。私の故郷広島に住み、そこでヒロシマの知識人として何ができるかを、真剣に考えておられる柿木さんの文筆活動は、私にも常に強い刺激を与えてくれる。ここ数年のヨーロッパでの私のオペラや大きな作品の初演には、必ず日本から駆けつけて聴いてくださっている。この本の翻訳には、最も適した人であるだろう。彼の著作『ベンヤミンの言語哲学』(平凡社)のなかに「魂の奥底で世界に応える言葉へ」という章があるが、まさに私はこのような「魂の奥底で世界に応える音楽の言葉」を生み出していきたいのである。
この本の対話が終ったのは二〇一一年の中頃で、それ以降今日まで、私は自分にとって重要だと思われるいくつかの作品を発表してきた。モノドラマ《大鴉》(エドガー・アラン・ポー詩)、オーケストラのための《冥想》、ソプラノとオーケストラのための《嘆き》(ゲオルク・トラークル詩)、ピアノのための《エチュード》全六曲、トランペットとオーケストラのための《霧のなかで》、ソプラノとハープのための《三つの天使の歌》、弦楽四重奏とオーケストラのための《フルス》、オペラ《海、静かな海》(平田オリザ原作、演出)、二人のソプラノとオーケストラのための《嵐のあとに》(ヘルマン・ヘッセ詩)、ヴァイオリン独奏のための《エクスタシス》、ピアノ四重奏曲《レテの水》等である。これらの作品は、これから晩年期を迎える私にとって重要な作品群であり、これらの作品にこの本で触れることができなかったことは、とても残念である。またいつかこれらの作品についても語ってみたい。
この本の丁寧な編集をしてくださった水木康文さん、この本の出版を企画してくださったアルテスパブリッシングの木村元さん、翻訳をしてくださった柿木伸之さん、そして作品表を作ってくれた私の出版社ショット・ミュージックの横田敬さんに心からの感謝を捧げます。この本が、私の音楽を聴いてくださる人にとって、何らかのヒントになることを、そしてこれから作曲家を目指す若い作曲家に何らかの示唆を与えることができることを願います。