紹介
聴き手の聴覚的なグルーピング作業に支えられる、どこまでも持続する一本の音の列なり。
その持続的な列なりの譬喩として、この音楽を『線の音楽』と呼ぶことにした──(本文より)
1979年、「エピステーメー叢書」(朝日出版社)の1冊として刊行され、当時の現代音楽界に多大なインパクトをあたえた本書は、その後世界的作曲家へと飛躍することになる著者の音楽思想の原点であり、最新音楽論『聴く人(homo audiens)』にまでつながる思考の根幹を明らかにしている。
ジョン・ケージ、モートン・フェルドマンにつらなる現代音楽の潮流を理解するうえでも、「とりわけ重要な本」(批評家・佐々木敦氏)と評価される記念碑的名著。
目次
アーティキュレーション
I
II
III
VI
散奏
ジョセフ・ラヴ──芸術の前提についての三日間
I 美術館で
II 体験の窓へ
III 復活
くりかえし──(社会について)
音楽的時間──今日の音楽を中心としたその諸相
I──音楽的時間
II──音楽的時間の諸相
前書きなど
あとがき
ここに収められた四篇のエッセイは、一九七七年三月以来、約二年間に亘って断続的に雑誌『エピステーメー』に掲載されたものである。今回、これらを集め、一冊の書物として上梓するに当たって、各に若干の加筆訂正を行なった。
四篇の内、殊に「アーティキュレイション」と「散奏」の二は、私自身の作曲方法論といった色合をもっているが、「アーティキュレイション」の冒頭にもことわったように、私は、『線の音楽』シリーズを作曲し始めるとき、予めそうした方法論を明確に意識していたわけではない。私にとって、これらの文章は、現在の私の思想から解釈した私自身の過去の仕事の追認である。したがって、そこに述べられている方法論は、直接的にはむしろ現在の私の作品にこそ強く結び付いている、と云えるかもしれない。手探りで進めてきた仕事を振り返り、それを解釈してそこにひとつの方向性を見出すことができれば、それが現在の(そして多分将来に於いても)自分の仕事の基盤となるだろう、と考えたことが、こうした文章を書いた動機であった。
他の三篇とは大分様子の違う「ジョセフ・ラヴ──芸術の前提についての三日間」は、一九七七年の夏に、画家で上智大学教授である畏友、ジョセフ・P・ラヴ氏との間で交わした長い対話に基づいて書き起こしたものである。私達ふたりにとって、この対話は、それぞれが自分の仕事について考える上で極めて稔り豊かなものであったので、私は意図的にふたりの思想の境界が不分明であるような形にそれを文章化することにした。ひとりひとりの思想の個人的な表明ではなく、ひとつの〈対話〉全体が或る意味をもつものとして表わされるべきだろう、と感じたからである。
最後に、中野幹隆氏をはじめとする編集部の方々に心からの謝意を表したい。『エピステーメー』掲載中以来、私の仕事を支えて下さったのは多くの方々の忍耐強い助力であった。
一九七九年三月
近藤譲
復刊にあたって
評論的な性格の文章は、歳をとりやすい。数十年も経てば、そこで論じられている問題の多くがアクチュアリティーを失って、過去の関心事とそれをめぐる思索の歴史的記録として、つまり、一種の文化的史料として読まれることになる。一九七〇年代末の私の音楽思考の記録である『線の音楽』も、その例外ではないだろう。とはいえ、この書物に示された思考の姿勢と方向性は、その後の私の仕事の──作曲についても、文筆についても──基礎となったという意味で、三五年の時を経た現在の私に繋がっている。少なくとも私自身にとって(そして、読者にとってもそうであることを願うのだが)、ここでの思索の少なからぬ部分が、今日に於ける音楽思考にも深く係わり得るものだと思われる。
筆者がようやく三〇歳を数えるころに執筆した本書は、多くの点で未熟であり、不正確な点も少なくない。復刊にあたって、それらを修正したい気持ちに駆られなかったわけではない。しかし、そのような「若さ」は、生硬な文体からくるいくらか挑戦的な調子と共に、論考の一部を成しており、それらを修正しようとすれば書物全体の「思想」を変更してしまうことになる。そう感じたので、明らかな誤植を正すことに止め、それ以上の修正は施さなかった。また、脚注に示されている参考・引用文献や音源(音源についてはすべてLPレコード)のデータについても、敢えて改訂せずにおくことにした。そうすることで、当時入手できた文献や音源の範囲を示す歴史的な情報にもなると考えたからである。
本書の復刊は、アルテスパブリッシングの木村元氏の熱意と惜しみない労力によって実現したものである。ここに記して、心からの謝意を表したい。
二〇一四年五月
近藤譲