目次
はじめに
第1章 楯築遺跡と特殊器台
一 楯築遺跡の発掘
二 吉備特殊器台とは
三 弧帯文石・弧帯文の意味
四 楯築遺跡の意味
第2章 従来の邪馬台国吉備説
一 邪馬台国大和説と九州説
二 邪馬台国吉備説、狗奴国大和説の衝撃
三 『古事記』の吉備津彦と温羅伝説
四 播磨・丹波・丹後・讃岐・阿波の遺跡の検討
五 大和岩雄の邪馬台国東遷説
六 考古学と吉備邪馬台国説
七 卑弥呼吉備出身説
第3章 吉備邪馬台国東遷説の提案
一 邪馬台国と東倭の謎
二 三国志としての邪馬台国
三 倭国統合の立役者・張政
四 「以て死す」命じられた卑弥呼の死
五 後継男王はだれか
六 第二次講和の条件、臺與の擁立と纏向遷都
七 卑弥呼のお墓はどこに
八 卑弥呼の邪馬台国には箸墓は築造できない理由
九 箸墓は臺與政権と狗奴国合体のモニュメント
十 卑弥呼の王宮はどこに
第4章 神武東征をどう考えるか
一 華僑の作った国倭国、そして徐福伝説
二 神武東征と高島宮、百間川遺跡
三 神武は湖沼鉄・水銀朱を扱う武装鉱山商人団
四 阿波の水銀朱
五 狗奴国=大和朝廷の成立
第5章 出雲=投馬国と山陰の遺跡
一 妻木晩田遺跡など
二 投馬国・出雲の西谷三号墓
三 投馬国から吉備への行程
第6章 その後の吉備をどう考えるか
一 車塚古墳と一丁
前書きなど
はじめに
邪馬台国は吉備にあった。そして邪馬台国女王・卑弥呼は倭国王として吉備にいたが、大和= 狗奴国に攻められ、魏の張政によって退位を迫られ自死をした。卑弥呼の後継者の臺與(とよ)は大和に移り、吉備の特殊器台とともに箸墓に葬られた。
邪馬台国と言えば、江戸時代から九州にあった、いや大和あったと300年も論争をつづけてきたのだが、近年、埴輪の元になった吉備の特殊器台の研究が進むにつれ、大和の最初の巨大古墳・箸墓など古墳時代の前方後円墳の成立には、吉備の影響が最も大きいことが明らかになった。そして考古学会の重鎮が「卑弥呼は吉備出身だった」とまで言うようになった。
この本では吉備= 邪馬台国、大和= 狗奴国であることを、最新の考古学資料と、中国史書、若干の神社の諸伝をもとに推論していきたい。さらに『魏志倭人伝』だけでなく『晋書』や朝鮮の『三国史記』なども参考にしながら、魏・呉・蜀の三国志時代に存在した邪馬台国が、東アジアの中でどう行動し、大和= 狗奴国との抗争に至ったかも推論していきたい。
『魏志倭人伝』は、後漢王朝が崩壊し、中国が魏蜀呉の三国に分かれて戦いあう『三国志』の時代の、魏の曹操の立てた王朝の歴史書『魏書』の一部である。日本人なら誰でも知っている蜀の劉備の宰相・諸葛孔明と同時代に邪馬台国は存在し、日本は直接に中国の政治的影響を広範囲に受けていたのだ。つまり邪馬台国史は『三国志』の一部だと考えてもいい。その観点に立てば、謀略渦巻く中国戦乱の時代の影響を受けて、倭国大乱、邪馬台国成立、狗奴国との紛争、古墳時代の成立があったと考えられる。
岡山と言えばまず全国の人が「桃太郎」を思い浮かべるだろう。岡山駅前広場には桃太郎像があるし、駅前の大通りは「桃太郎大通り」、夏には「桃太郎祭り」に「うらじゃ祭り」、お土産には吉備団子。なぜ国民的童話の舞台が岡山・吉備であるのか、多くの岡山の人々は知らない。そしてそれが吉備古代史の謎に直結し、さらには邪馬台国論争にまでつながるとは、ほとんど誰も思っていないだろう。
この本で私は、「吉備邪馬台国東遷説」を提案したい。桃太郎伝説、温羅伝説、『古事記』孝霊天皇段なども重要な伝説として積極的に評価していく。また倉敷市・楯築遺跡からはじまる吉備特殊器台の成立が、倭国と邪馬台国成立の証しであり、その後楯築遺跡(弥生墳丘墓)の首長葬送儀礼が直接に古墳時代につながっていくことの意味を明らかにしていく。
さらに邪馬台国時代と同時期に書かれた『魏志倭人伝』の記述の中から、吉備にいた卑弥呼が狗奴国との紛争の中で亡くなり、魏から派遣された張政が、邪馬台国と狗奴国との紛争を調整した結果、卑弥呼後継者として臺與が女王として立ち、さらに大和の纏向に遷都した可能性を説く。
私が吉備の古代史に興味を持ち出してから既に40年。岡山市の造山古墳は、完成した時は日本一の前方後円墳なのに、なぜ天皇陵ではないのか、おかしいではないかという素朴な疑問が原点にあった。だが今回吉備邪馬台国東遷説を語る中で、応神天皇は吉備の造山古墳に葬られているのではないか。そして吉備に大王である応神天皇がいたのは、吉備が邪馬台国であった流れのなかにあることも推論していきたい。
今回の執筆は、直接には邪馬台国吉備説、山陰説、近江説の方々お呼びし、九州説・大和説以外の説だけで開催する「新邪馬台国サミット」のコーディネーターを務めるために、集中して再勉強した成果である。その過程で丹波・播磨・讃岐・阿波の諸国がこの時代に非常に重要な役割を果たしたことも分かってきた。さらにこれらの諸国と魏、高句麗、呉の関係もあった
のではないかと考えるようになった。
もとより、古代を語るこういう本では、データ不足で自説を証明などできっこない、所詮は「説」なのである。この壁を乗り越えるべく、考古学者たちは日夜地道に遺跡の発掘を行って、新しい成果を発表しつつある。しかし考古学だけでは歴史の大きな流れを説明しきれない。その壁を大胆な推論で突破しようとするのが在野の学者たちである。証明できないものは語らないのが考古学の世界。しかし学会には越えられない壁もあるであろう。経営者として30年、さらに市民運動家として29年、選挙では選ばれてないが「ロビイスト」を名乗って政治にもかかわる不肖私が、この壁を越えてみようというある種無謀な試みでもあるが、古代史研究の世界に一石を投じてみたい。