目次
巻頭言
山田方谷を日本、世界で活かす 山田方谷六代孫 野島 透
随想
山田方谷の福祉思想に学ぶ 坂本忠次
—岡山の自由民権、福祉、教育事業への影響—
田中完『山田方谷の教育活動と其精神の研究』について 田中 準
方谷に関わった女性たち 佐藤ハル子
英語副読本 下村幸喜
"THE ECONOMIC THEORY of HOKOKU" を出版して
研究会講演論文
幕末維新期の政局と山田方谷の立場 朝森 要
小阪部に移寓してからの山田方谷 岡田克三
お二人の講演を聞いて 柴田 一
論文
山田方谷の師—丸川松隠について 高橋義雄
研究会記事
第4回 山田方谷研究会開催のご案内
あとがき 坂本忠次
前書きなど
山田方谷を日本、 世界で活かす
山田方谷六代孫 野 島 透
私は今まで財務省、内閣府などで働いてきたが、東京でも最近政治家の方から日本が直面している財政改革との関係で「山田方谷」のことが話題になったりする。また、全日空の大橋洋治会長(現経団連副会長)が経営改革を行う際の理念として方谷の思想を取り入れて改革し成功したことなど、会社の経営改革の考え方として方谷の講演依頼も増加してきた。さらに樋口公啓東京海上日動火災相談役(元経団連副会長)が忙しい中、方谷を研究してくださっている。地元岡山などでは山田方谷研究会、山田方谷に学ぶ会、岡山方谷学ゼミ、高梁方谷会、大佐方谷会、備前方谷会、柵原方谷会、関西方谷会(順不同)等をはじめ多くの方々が熱心に研究、普及に尽力していただいている。まず、このことに感謝を申し上げたい。
ここで方谷の子孫でありながらなぜ野島姓なのかと聞かれることがあるので少しだけ解説させていただきたい。
私の姓が山田でないのは祖父が野島家に養子になったためである。
方谷の孫である山田準(二松学舎大学初代学長、私の曽祖父)が山田家を相続した時は方谷があまりにも清廉潔白であったため、それほど家計が豊かではなかった。準には六名もの男の子がおり、三男を当時多くの山林を所有していた野島家に養子に出した。野島家は山林を背景として、殖産興業を推進していた明治政府の要請もあり「帝国製鉄」(「華麗なる一族」に出てくる会社とは全く別物)などを設立し鉄鋼業に乗り出した。当時としては最新式の技術で業績を伸ばし最盛期の第二次世界大戦ごろには大阪証券取引所にも上場し従業員も千四百人を超えるぐらいまでになった。しかし、戦後の不況や大資本の製鉄会社に比べて設備投資の資金不足等の理由で昭和41年に廃業を余儀なくされた。
ところでもう10年以上も前のことだが、財務省の代表団の一員として国際証券監督者機構の会合に出たことがあった。この機構は欧米をはじめとして世界各国の証券行政、証券市場の世界的な統一基準を作っていくことを目的として設立された。当時の日本はバブルの絶頂期であり、日本が世界の経済をリードする時代であった。そういう時代であってもなかなか日本の意見は理解されにくかった。 その時、日本の意見を理解してもらい、世界の人々の尊敬、共感を集めるには欧米の真似だけではなく積極的に日本の持つ文化・思想・考え方を発信していくことの必要性を実感した。
その後10年以上、日本の文化、考え方など世界に発信できるものはないか探していた。数年前、私の尊敬する国会議員から「ほとんど知られていないが方谷という素晴らしい人物がいる。勉強してみろ。」と言われた。国会議員は方谷と私の関係は全く知らなかった。
その言葉を受けて方谷を勉強するうちに身びいきではなく、方谷の理念・思想こそが、日本・世界が混沌となっている現在一番必要とされているものと思い始めた。
方谷は家塾の塾規として「立志」、「励行」、「遊芸」をもって実行することを奨励していた。特に「立志」は志を立てることであるが、一言でいえば「夢」を持つということである。
「方谷を日本、世界に活かそう。」という「立志」が夢でなく現実になるには私一人の力では非力である。多くの人々が出来ることから始め力を結集すれば必ず方谷を日本、世界に活かせる日が来ると確信している。