目次
【機構長コラム】 毛沢東支配のパラドックス 小口彦太(早稲田大学アジア研究機構長)
【フィールドから──Photo Essay】 ミャンマーを歩く 石川和雅(上智大学大学院生)
【巻頭論文】 メコン地域協力と中国、日本、アメリカ 白石昌也(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)
【特集】ミャンマーを考える
ミャンマー政治になにが起きているのか 中西嘉宏(日本貿易振興機構・アジア経済研究所在ワシントンDC海外派遣員)
ビルマ(ミャンマー)民主化の難問──ラカイン州非常事態宣言とロヒンギャ民族 田辺寿夫(フリー・ジャーナリスト)
ミャンマーと民族問題 伊東利勝(愛知大学文学部教授)
アセアンから見たミャンマーの民主化の兆し 坪井善明(早稲田大学政治経済学術院教授)
ビルマへのODA──バルーチャウン水力発電所の光と陰 秋元由紀(ビルマ情報ネットワークディレクター)
ミャンマーと日本企業 小林英夫(早稲田大学国際学術院アジア太平洋研究科教授)
【シリーズ歴史の証人】
立教大学名誉教授 野村浩一氏に聞く 野村浩一(立教大学名誉教授)
学問は社会的役割を果たせるか──3・11を越えて 播磨あかね(多摩総合医療センター医師)
【第63回アジアセミナー報告】
危機にある正義の女神──裁判所組織法の改正から見る中国の司法独立 賀 衛方(北京大学法学部教授)
【第62回アジアセミナー報告】
沖縄芸能ワークショップ──復帰40年「沖縄国際シンポジウム」関連企画 新城 亘(沖縄三線音楽研究・演奏家)
【IAS研究プロジェクト報告】
東南アジアの紛争予防と平和構築──紛争から開発段階へ移行する東ティモール 山田 満(早稲田大学社会科学総合学術院教授)
【IAS研究プロジェクト報告】
Global AsiaからSustainable Asia へ──プロジェクト研究「東アジア持続性研究:環境分野」の紹介 松岡俊二(早稲田大学国際学術院アジア太平洋研究科教授)
【研究ノート】
1980年代の琉球華僑にとっての沖縄社会における観光産業の拡大について 八尾祥平(早稲田大学アジア研究所研究助手)
【My Field :ワセダからアジアへ】
カンボジアでの活動から見えてきたもの 大路紘子(公益法人国際開発救援財団)
【書籍紹介】 小林英夫
【アジアを食べる@早稲田界隈】 手のひらサイズの幸せごはん 砂井紫里(早稲田大学イスラーム地域研究機構研究助手)
What’s going on? 早稲田大学アジア研究機構からのお知らせ
【アジアのNGO 活動現場から】地域住民が主体となる森林保全を目指して 東 智美(特定非営利活動法人メコン・ウォッチ ラオス担当)
【巻頭口絵写真】NLD事務所の開設 撮影:石川和雅
前書きなど
「毛沢東支配のパラドックス」 小口彦太
中国のことを勉強していて、どうしても分からないことがある。それは、大躍進政策、人民公社化により幾多の人民が塗炭の苦しみを味わおうと、誰一人、それを発動した毛沢東を批判し得なかったという事実である。蘆山会議における彭徳懐の建言ですら、批判といえるものではなかった。また、中国全土をアナーキーの坩堝にたたき込んだ〝文化大革命〟ですら、誰も正面切って批判する者はいなかった。むしろ、我々の脳裏に焼き付いているのは、天安門上の毛沢東に対して泣きながら毛沢東万歳を叫んでいる若者たちの姿であり、おどおどとした劉少奇の姿であった。今でこそ、そうした毛沢東の権力発動のありようについて批判する書や意見が見られるが、それは後知恵というものである。
そうした疑問をかねて抱いていたところ、かねて切望していた野村浩一先生に「中国を語る」で語ってもらう機会を得た(本誌48頁)。その時の聞き取りのメモによれば、毛沢東思想の源泉は、中国史上の農民の「翻身」を体現することにあったと先生は指摘された。「翻身」とは、農民がそれまでの束縛を破って、既成の秩序を打倒し始めたとき、そこに示される凄まじさを意味し、それがどれほど恐ろしいものであったか、それは「要するに、一切の既成秩序を叩き潰す造反」であったと先生は指摘された。中国革命の本質が農民の凄まじい「翻身」にあったとすれば、毛沢東の思想、思想というより運動がそれを体現する限り、誰一人正面きって異を唱えることはできなかった。
こうした農民、また人民一般の既成秩序打倒の凄まじさは古代の賢哲の認識するところであった。荀子の「伝に曰く、君なる者は船なり。庶人なる者は水なり。水はすなわち船を覆す、此れの謂いなり」(巻五王制篇)はあまりにも有名な句である。中国古代の政治哲学は総じて君主と人民の関係を「水」と「船」の関係、すなわちいつ転覆する(させられる)か分からない敵対的関係においてとらえ、いかにすればこの「水」=人民を統御できるのかについてさまざまな議論を展開したわけであるが、その視点はあくまでも君主の側からのそれであった。
おそらく、毛沢東もこうした人民の反権力の凄まじさを冷徹に認識していたであろう。因みに胡錦濤以下の現在の指導者が何故かくも頑なまでに強権的支配を行なっているのかも、いつ「船」が覆されるか分からないという、「水」=人民に対する怯えととらえるならば分かりやすい。毛沢東の支配がその他の指導者と決定的に異なっていたのは、常に下から既成権力を打倒する側に立って権力を発動した(〝翻身〟させた)という点にあった。
毛沢東が秦王政や漢の劉邦、明の朱元璋らと決定的に異なるのは、権力を握った後も、〝造反〟を唱道し続けたという点にある。彼の権力と権威の源泉は〝造反〟をたえず発動することによるものであった。〝造反有理〟はまさに彼の政治哲学そのものであった。「水」による転覆をたえず唱道することによってのみ「船」主たり得た政治指導者などほかにいるのか、最近、『政治の覚醒』を書かれた笹倉秀夫さんに聞いてみたいと思っている。