前書きなど
本シリーズにあたってのあとがき
一八九六年(明治二十九年)の「大海嘯」(大津波)の被害は、三陸沿岸で二万二千人と伝えられている。今回よりも多かった。そのときの東民の叔父・柴琢治の活躍は、歴史に残されてある。
大震災後の五月、わたしは釜石から大槌町までの海岸線をまわってあるいた。その後、福島、宮城の被災地を訪問した。東民、柴琢など、わたしの主人公の時代と今回の津波の被災は、陸続きだったのだ。ときどき、自著にサインをもとめられたりすると、わたしは、
「勿軽直折剣」(直き折剣を軽んずなかれ)
と書いたりする。これは東民の支持者が額縁の裏側に秘蔵していた色紙に書きつけられていた文言である。東民は市長選に敗れたとき、その隠れ支持者に認めて与えた、唐代の詩人・白居易の五言絶句である。
「猶勝曲全鉤」(なお曲がりたる全鉤に勝る)と対句をなしているのだが、折れた剣に喩えた、挫折者の心意気である。
三陸海岸の中心的な町である釜石市は、歴史的な大海嘯、農民一揆、戦時下の艦砲射撃、製鉄所の撤退など、たびたびの激浪にもまれてきた。鈴木東民の反骨の一生は、その歴史と風土を抜きにしては考えられない。
東民の市長としての独創的な施策のひとつが、貧しい商人たちを収容した「橋上市場」だった。土地をもたない商人たちのために、鉄橋に並べて木製の橋を架け、その両側に商店を配置させた。それは若いときにいったイタリアのフィレンツェの記憶がヒントだった。
そのこともあって、たまたまフィレンツェにいったとき、かのヴェキオ橋の佇まいを遠望し、釜石の橋上市場とそっくりなのを確認できた。そのあと、宝石商などが並んでいると聞いていた橋の中を通り抜けることにし、まずは腹ごしらえ、とばかりはいったテラス式のレストランで、鞄を丸ごと置き引きされた。それで急遽ローマにでて、領事館でパスポートを更新する羽目になった。だから、橋を眼の前にしながら、ついに渡ることができなかったのだ。
わたしの東民伝は、彼のジャーナリスト時代に重量がかけられている。が、地方分権、地方自治が問い直されてきたいま、先駆的に地方自治体の自主性を強調していた東民に、いまこそ蘇ってほしい、との想いが強い。
二○一二年三月 東日本大震災3・11を前にして