前書きなど
はじめに──上品さを捨て下品を撃つ
1999年4月9日付の『朝日新聞』は一面トップで「東京高検則定検事長に女性問題」と報じた。記事には「『噂の真相』によると」とある。結局、これで則定衛は辞任に追い込まれたが、当時、『朝日』の社内では、決して上品とは言えない『噂の真相』などという雑誌をどうして権威づけるのかと議論があったらしい。それが『朝日』の主流だったという。
これを私は「上品の壁」と名づける。下品を嫌い上品ぶって追及が甘くなる。それで下品と後ろ指を差されることを恐れない者たちに負けてしまうのである。
たとえば作家の大岡昇平や城山三郎、あるいは日本興業銀行(現みずほ銀行)最後の頭取の西村正雄などは権力者のスキャンダルを撃つ『噂の真相』を熟読していた。
西村には耐えられない記事もあったと思うが、そうしたものを恐れず読むことによって西村の奥行きの深さが生まれたのではないかと私は思う。
極端に言えば、「真実は下品の中にこそ宿る」のである。「上品の壁」を乗り越えなければ人間の器は大きくならない。
2017年11月27日付の『日刊ゲンダイ』の「週末オススメ本ミシュラン」で私は高橋純子著『仕方ない帝国』(河出書房新社)を取り上げ、こう書いた。それで「はじめに」を結びたい。
〈何年前のことになるのか、新聞労連に呼ばれて記者たちに話をしたことがある。
いささか挑発的に、「新聞記者は上品な仕事ではない。その起こりから言っても、ユスリ、タカリ、強盗の類いなのだ」と扇動した。
そして、「たとえ取材相手からごちそうになっても書くべきことは書け、そうでなければ、たとえば5万円分接待されて書かなかったら〝5万円の人間〟になってしまうではないか」と続けた。「食っても書け」ということである。さすがに会場は静かになってしまったが、帰り際、若い女性の記者が寄って来て「サタカさん、私、立派な強盗になります」と言った。
ああ、話が通じたと思ってうれしかったが、この本の著者は、あの時の女性記者ではなかったか。
そう考えてしまったほどに、センスと踏み込みがある。安保法制を野党が「戦争法案」と批判したことに対して安倍晋三は「無責任なレッテル貼り」と反論したが、著者はこう打ち返す。
「政治はある意味、言葉の奪い合い。とりわけ、安倍政権下では。『レッテル貼りだ』なんてレッテル貼りにひるむ必要はない。さあ、奪いに行きましょう。堂々と貼りにいきましょう」
著者はマツコ・デラックスにインタビューして、こんな発言を引き出す。
「いつからか新聞って、公平中立でないといけないものだとみなされるようになって、朝日新聞がその代表になってるじゃない。誰もが不快な思いをすることなく読める新聞をつくろうなんて、初めから闘う意志がないわよ。新聞なんて公平じゃなくていいのよ。朝日なんか貧乏人の味方だけやってればいいのよ」
著者はその朝日の政治部次長だった。次の開き直りもいい。
「エビデンス? ねーよそんなもん」
よく、ウラを取って書けと言われるが、私はそれを「訴えられないように用心して当たり障りなく書け」ということだと思ってきた。要するに逃げ腰のおためごかしである。『わが筆禍史』(河出書房新社)に詳述したが、訴えられたり脅されたりしてきた私には、それは闘わない者の言い訳としか思えなかった。鮮やかな小太刀の冴えを見せてくれた著者には、今度は大太刀もふるって訴えられることを望みたい。
2018年1月 佐高 信