目次
はじめに
序 章 新自由主義の終焉 金子勝・山口二郎
▼山口二郎の眼
ニューディール合意の誕生と崩壊
影の銀行システムと新自由主義
見えてこない新世界秩序の展望
市場原理主義の先の国家管理
歴史的な大転換を迎えた二○○八年
「ルーズベルトの百日」と六○年代の記憶
シュンペーター・ヴィジョンとケインズ理論
持続可能なグリーン・ニューディール
オバマのカギは二○一○年中間選挙
Too Big to Save 大きすぎて救えない
米GEとグーグルの環境エネルギー革命
排除された日本の民主主義
無責任なリーダーに都合よき市場原理主義
「貿易立国」という幻想
断ち切られた人と人との連帯
労働「区別」は人権侵害である
人が食べていける社会の仕組み
言葉のすり替えを見抜く力
第1章 世界経済はどこへ向かうのか 金子勝
▼山口二郎の眼
非科学的な政策論などはありえない
グローバリゼーションは限界に達した
デファクト・スタンダードで生き残る
教育に最大のインフラ投資を
誘導された円安によるGDPのまやかし
問題は損失を確定できないということ
出口の見えないサブプライム・ローン
三つ巴の金融崩壊
裏切られたインフレ・ターゲット論
弱者への分配はなぜバラマキと言われるか
経済格差は人権問題である
壊れた地域社会は元には戻せない
メディア・トリックを見抜く
民主主義とはリスクにもっとも強い手法である
第一次産業ベースの業で地域興しを
第2章 民主主義の不在がもたらした夕張の破綻 片山善博
▼山口二郎の眼
誰があなたの住む町のことを決めていますか?
夕張市はなぜ破綻したか?
チェック機能を果たさない議会
日本の議会は八百長である
無責任な金融機関だけがなぜ優遇される?
国家がしかけた自治体の財政破綻
民主主義のメカニズムを地方自治に
ガソリン税は大衆課税である
優先枠の特定財源は弱者のためにこそあるべき
「民のかまど」を考えることが政治の原点
天下り役人に無駄金を使うぐらいなら減税せよ
利益集団化した霞が関
自治体の首長は国の応援団
霞が関は自分たちのシナリオが崩れると大パニック
住民自治のポイントは住民投票
オープンにすれば役所は変わる
良心に従えば役人の仕事は面白い
第3章 人は文明のみで生きるにあらず 高橋伸彰
▼山口二郎の眼
ポスト石炭に賭けた中田さんとの出会い
北炭の社内地図を焼き付けたような夕張の町並み
市会議員もPTAの役員もみんな企業人事の延長
鉱山を去る人の金で開発された新鉱とその?末
「たかはしくんはびんぼうを知っていますか」
小泉・竹中路線が壊した人と人の関係をつなぐ社会の絆
国や道の責任放棄で破綻に追い込まれた夕張
文化というのは本来不合理なものである
人は文明だけで生きていけるだろうか
福祉国家を支えてきた三つの要因とその崩壊
資本主義と福祉国家のオルタナティブを創り出す
リスクを社会化する
税に見合った社会保障を確保する
お金の配分方式が生み出す地方の格差
文化で暴力的な資本主義に歯止めをかける
人間の価値は収益にあるのではない
誰もが公平性を感じられる社会に
第4章 わたしのことはわたしが決める 上野千鶴子
▼山口二郎の眼
「当事者主権」って?
当事者とは誰か?
誰が私を弱者にするのか
「自立」のパラダイム転換
「介護」と「介助」のあいだ
ハッピーな介護はハッピーな介護者から
不適切なケアを強制されない権利
官・民・協・私の福祉多元社会
住民参加型の地域福祉
特権をなくせば女性議員は増える
私があなたに選挙で権力を与えたのです
自治体のピンチは市民のチャンス
マジョリティの価値観が生み出すマイノリティ
共感することから理解は始まる
下り坂の人生に価値を与える
「自己責任」はネオリベの原理である
徹底的に弱者の立場で考える
夫には自分の妻を看取る覚悟があるか
第5章 地方自治から世界共和国へ 柄谷行人
▼山口二郎の眼
法の全体社会と掟の個別社会
デモも起きない不気味な専制国家
民衆の不在が生んだ過激派
公共的なものに無関心な日本人
原子化した個人は狂信的になりやすい
抵抗勢力としての封建制
中間勢力の消滅と専制国家
国民は幽霊のような存在である
個別社会が個人を強くする
世界は異なるアソシエーションの共和国
アメリカ・インディアンにみる世界の原理
民主主義のカギは多元性
戦後日本に中間勢力はあったか
エゴを社会化してアソシエーションに
終章 なぜ今民主主義か 山口二郎
このシリーズのねらい
さまよえる日本の民主主義
新自由主義の終焉と政治の回復
日本の選択
おわりに
前書きなど
新自由主義の終焉
(山口) 政策的な課題の難しさというのはよく分かりました。日本の場合は、アメリカの縮小コピーみたいな稚拙な装備しかないから、もっと大変ですよね。政策的な新しいパラダイムを作ると言っても、そんなに智恵がある人はいないし、政治的なダイナミズムも貧相で、オバマに匹敵するリーダーとなる人は、残念ながら現れてきていません。
(金子) 学界やジャーナリズムを見ると分かりますが、日本は討論する民主主義や複数の意見を存続させながら戦わせるという作法自体が崩れています。
(山口) 民主主義で議論して、複数のアイディアが競い合うおかげで一つの社会なり国家なりが生きのびていくものです。けれども、日本の場合は単一種がはびこって、ほかをすべて排除するという議論の空間ですよね、政治的空間も。
(金子) メディアや学者が高いビジョンを持って、もっと活発に議論をすべきだと思います。新聞に載っているのは、官僚の側に立った文言ばかりでしょう。一般の国民は単なるコストとしての扱いをされているだけで、意志決定にも参加できない構図になっています。国民のほんの一部しか意志決定にアクセスすることはできず、大多数が社会の制度決定にコミットできないまま排除されていけば、民主主義社会の基本は崩れてしまいます。これでは健全な社会として生き残れません。こういうことを言うとまた、サヨクって言われるのですけどね(笑)。
(山口) いいじゃない、左翼で。何が悪いんだー! って言える時代ですよ(笑)。
(金子) マスコミは広告収入に頼って給料を維持しようという発想を断ち切ったほうがいいと思います。テレビはCMを取れなくなると困るから、電通などの広告代理店から脅かされるとすぐに番組の中身を変更したりしてしまいます。でも、そうすると、視聴者はウソ臭いと感じとりますし、テレビがつまらなくなって、ますますテレビ離れは進みます。悪循環ですね。
私は、いつでもテレビ出演を打ち切られてもいいと思って言いたいことを言っていますが、そうすると不思議なことに出演依頼が増えるんです。つまり、ヒールがいないと困るから。画面の緊張を保つために、ガス抜きが一人必要なんでしょう。今はバカらしくて、「朝まで生テレビ」などの深まらない討論番組はお断りしてますけど。「ニュースステーション」や「サンデープロジェクト」などは皆、1980年代に生まれた番組です。日本で新自由主義がもてはやされ始めたころで、「官僚たたき」=「改革」というような構図があった。これらの番組が生み出したのは細川護煕政権や小泉純一郎政権だったわけです。彼らは、新自由主義(ネオリベラリズム)と自由主義(リベラリズム)の区別もついていなかったんだと思います。
(山口) 言葉というのは、こっちが政権を持っていないと、いいように使われるだけです。
(金子) ほんと、そう。「三位一体改革」を最初に提案したのは私たちなんですよ。それが、財務省の財政再建計画にかすめ取られて中身がいいように変えられて、小泉構造改革のスローガンのごとく使われてしまった。年金一元化もそう。今私たち二人のこの空間は、政治学におけるシーラカンスと、経済学におけるシーラカンスの対談状態(笑)、90年代からそういう状態でしょう。
(山口) シーラカンスが今、少しメジャーになってきたかな、という感じもしますが(笑)。
(金子) でもうっかりしていると、シーラカンスになれずに死んでしまうような(笑)。