目次
デジタル記号論 目次
序章 デジタル時代の技術化されたイマジネーション
第Ⅰ部 記号とメディアの現代的な関係性を考える
第1章 バックミラーのなかのメディア文化
―テクノロジーの隠喩的理解をとらえなおす
第一節 バックミラー越しにみえる「今」
第二節 メディアテクノロジーの隠喩的理解・―フータモの「トポス」概念
第三節 メディアテクノロジーの隠喩的理解・―タークルの「インターフェイス・バリュー」
第四節 メディアテクノロジーの隠喩的理解・―ユールの「カジュアル革命」
●結びにかえて
第2章 メディアテクノロジーが陶冶する想像力の現在
―「予めの論理」と「象徴の貧困」
第一節 感覚器官とメディアテクノロジーのリコネクト
第二節 記号論批判―そのプログラムの超時代性の問題
第三節 記号の作用/メディアの作用
第四節 記号的な想像力を陶治するメディアテクノロジー
第五節 「予期」のためのテクノロジー
●結びにかえて
第3章 メディアの媒介性と、その透明性を考える
―「テクノ画像」概念を再考する
第一節 写真の透明性がもたらしたもの
第二節 “無媒介性の錯視・を生成するデジタルテクノロジー
第三節 錯覚に紐づけられた触覚
●結びにかえて
第4章 私たちはどのように写真をまなざすのか
―言語との差異を中心に
第一節 写真は「新たな言語」か?
第二節 写真による覇権的なコードの交代
第三節 言語と映像
第四節 写真の走査プロセスをめぐって―“言語的視覚・vs“映像的視覚・
第五節 身体と装置との接合
第六節 写真と遠近法
第七節 〈人間の眼〉と〈機械の眼〉の葛藤
●結びにかえて
第Ⅱ部 視覚と触覚の現代的な関係性を考える
第5章 タッチパネル考―画面との接触が求められる現代
第一節 「眼の快楽」と「手の使用」をつなぐもの
第二節 映像世界を手許に引き寄せることの意味
第三節 「簡易化」がもたらす触覚の変容
第四節 タッチパネルをつうじた映像世界のコントロール
第五節 ポスト写真時代における触覚的リアリティのゆくえ
●結びにかえて―デジタル時代のリアリティ
第6章 「接続される私」と「表象される私」
―記号論/メディア論の間隙で考えるゲーム
第一節 二つの「延長」概念、および二つの二重分節論的モデル
第二節 コントローラによって「接続される私」
第三節 視聴覚記号によって「表象される私」
第四節 二つの「私」の等価性、およびインタラクティヴィティ
●結びにかえて
第7章 スポーツゲームの組成
―それは現実の何を模倣して成立するのか
第一節 二つの「私」の等価性と、その非対称性
第二節 インターフェイスの記号性
第三節 スポーツゲームを形成する三つのシミュレーション
第四節 ルール/動作のシミュレーションを補助する視覚的レトリック
第五節 ゲームの勝者/受益者とは誰か
第六節 スポーツゲームにおける主体の分裂的構造
第七節 「一人称の死」のシミュレーション
第八節 現実とゲームの相互形成性
第九節 記号的想像力と媒介テクノロジーの間隙で
●結びにかえて
第Ⅲ部 空間と身体の現代的な関係性を考える
第8章 ポケモンGOでゲーム化する世界
―画面の内外をめぐる軋轢を起点として
第一節 ポータブルデバイスが牽引する「予期」と「移動」
第二節 ゲームにおける「意味論的次元」と「統語論的次元」
第三節 ポケモンGOにおける統語論的関係の優位性
第四節 ポケモンGOでゲーム化する世界
●結びにかえて―ポケストップに嵌め込まれた写真の意味
第9章 拡大される細部
―マイケル・ウルフとダグ・リカードの写真集を比較する
第一節 Googleストリートビューにおける都市空間のイメージ喚起性
第二節 Googleストリートビューにおける時空間の編成
第三節 プンクトゥム―写真のなかの言語化不可能な細部
第四節 Googleストリートビューにおける「細部」の事後的発見
●結びにかえて
第10章 テクノロジーによる「行為」のシミュレーション
―トリップアドバイザーを題材に
第一節 トリップアドバイザーにおける写真データのフロー
第二節 記録と予期の間隙で
第三節 行為や体験をシミュレートするテクノロジー
●結びにかえて―「シミュレーション」概念から再考するバックミラー
終章
引用・参考文献
事項索引
人名索引 装幀―荒川伸生
前書きなど
デジタル記号論 終章
筆者は巻末のプロフィールにもあるように、いちおうの専門として「記号論、メディア論、映像論」を名乗っているが、研究上の出発点となったのはロラン・バルトの写真論である。この主題における著作としては、『ロラン・バルトにとって写真とは何か』(図11―1)と題する書籍を二〇一四年にナカニシヤ出版より上梓しているが、その元となったのは、二〇〇二年に京都大学大学院人間・環境学研究科に提出した同名の修士論文である。
『ロラン・バルトにとって写真とは何か』では、バルト晩年の写真論である『明るい部屋―写真についての覚書』の理論的な意義を、彼の思想全体に伏在する多元的な視座からあくまでも内在的に分析しようと試みた。そもそも『明るい部屋』という写真論は、視覚的イメージの一形式たる「写真」を論じることのみに専心した書物ではない。その謎めいた書物は、写真のレクチュールを題材としながらも、言語活動の終極を語り、身体の情動的次元を語り、愛する人と自らの死をも語る複雑で重層的なテクストである。筆者は上記の拙書でその複合性を勘案したうえで、バルトの思想から幾つかの視覚モデルを抽出したり(図11―2)、また、彼の自伝的テクストにおける自己表象を分析したり(図11―3)、さらには、議論の焦点となった写真における“過去の現実”の理論的な意義を考察したりした。ともあれ拙著では、バルト写真論の理論的視座に依拠してそのメディウムとしての固有性や特質を明確化するというよりは、むしろ、彼が晩年に写真というメディウムに仮託して、どのような記号学的境地を描出しようとしたのかを解明しようと試みたのである。
『ロラン・バルトにとって写真とは何か』であるが、二〇〇二年にそれを修士論文として執筆し終えた段階で、二点ほど気がついたことがある。まず一点目は、まさに本書の主題でもある「記号とメディアの間隙」に関してである。
そもそもバルトにとって言語記号とはつねに「権力」の源泉として語られ、偏愛の対象であると同時に嫌悪の対象でもあった。そして嫌悪の対象ということでいえば、彼は言語を“牢獄”のごときものとして認識していた。そして彼はそのような文脈において〈ソシオレクト〉や〈権力内的言語活動/権力外的言語活動〉などの諸概念を提起しながら、社会における“分裂”や“戦争”と称される言語論的状況を素描していった。バルトは言語をあらゆる権力作用の源泉として措定し、そこに文化的な硬直性の源泉を見出していったのである。
そうしてバルトは最終的に『明るい部屋』で、“言語の外部”への旅を実践することになる。そもそも彼は基本的な前提として、人間から自由を剝奪する言語の抑圧的な作用に対して悲観的なヴィジョンをもちあわせていた(「言語活動の外にしか自由はありえない。不幸なことに、人間の言語活動に外部はないのである」〔Barthes 1995:804〕)。だが彼は“出口なし”という人間の言語的状況を重々承知しつつも、晩年のその写真論において、言語外現実をダイレクトに表象する「写真」というメディアの技術的特性に依拠して、みずからを主人公として言語圏からの離脱を演出してみせたのである。しかもバルトはその“探求”を、記号学からの離脱を宣言しながら、また(本人が意図していたかどうかは措くとして)写真に関するメディア論的な洞察を織り交ぜながら完遂していったのである。
ここであえて“メディア論的”と表したが、バルトは『明るい部屋』のなかで写真のレクチュールについて語るだけではなく、そのメディウム論的な特性について語り、また、その時間意識や空間意識についても語っている。そして、そのようなまなざしは、まさにメディア論者のそれと近似するものとして再評価することもできよう。
そう考えてみると、バルトはその思想的遍歴の道程において「記号の次元」と「メディアの次元」の隔壁を越境していった、と捉えることもできる。もしかしたら私たちは、そこに彼の言説のアクチュアリティを見出すことができるかもしれない。そもそも記号学で重視される「言語」にしても、あるいはメディア論で重視される「技術的メディア」にしても、それらはともにコミュニケーションのためのツールであり、人と人との、あるいは人と世界との媒介を遂行する働きをもった広義の“メディア”だといえる。ただし違いがあるとすれば、言語が人間の意識に深く埋め込まれたものであるのに対して、カメラなどのメディア装置は人間の身体に対して外在的なもの、マクルーハン的にいえば人間を拡張するものとして把握することができる。
むろんカメラは視覚装置として、あるいは写真は記録媒体として人間の能力を補完するものであるが、それ自体は非人間的なものであるといえる。しかしバルトは、身体に外在するという意味で非人間的なそのメディアに仮託して、一時は“出口なし”と明言した言語圏からの離脱を演じていったのである。そして、私たちはそのバルトの“冒険”の果てに、はからずも記号学とメディア論との間隙を乗り越えてしまった彼の思想的な転位の終着地点を確認することができるのである。「記号とメディアの間隙」ということでいえば、ここにバルト思想を再考する意味を見出すことができるかもしれない―当時そんなことを感じたりもした。
もうひとつ、二〇〇二年の段階で気づいたこととして、「バルト写真論の限界」がある。当時、デジタルカメラが人びとの日常のなかに普及しはじめており、外見上は従来のフィルムカメラと類似するそれが「写真」というメディウムをまったくの別の何かへと変容させつつあることに思い至った。本書では「バックミラー」の問題として論及したことではあるが、それらは旧来的なイマジネーション(それは「電気紙芝居」や「電子書籍」といった表現に見出される)を借用しながら、デジタル的な技術的セッティングのなかで、「写真」やそれを撮影する「カメラ」の機能を再配置/シミュレートするもののようにみえた。そのような状況をまのあたりにして以来、『明るい部屋』という、一九八〇年に執筆され、アナログ写真に照準したバルトの言説が急速に古びていくように感じられたのである。前川修が「「メメント(・モリ)」から「モメント」への変容」として語ったように、「かつての写真がその必須の契機として「死」を連想させていたとすれば、現在の写真像は死を欠落させた現在時制によって駆動させられているのである」(前川 2016b:245)。
ともあれ筆者はそれ以降、バルトの写真論をめぐる研究から離脱し、ゲームやデジタル地図などさまざまな題材に取り組みながら、(現実を客観的に反映する写真ではなく、むしろ)現実感を技術的に合成するデジタル映像テクノロジーを考察の俎上に載せてきた。本書は、筆者が過去に執筆した以下の論考を、大幅な加筆のうえ集成して刊行するものであるが、その基盤にあるのは、デジタル時代における映像と身体の関係性についての関心である。
本書では、過去に刊行された論文を改稿したうえで使用している箇所がある。それらの既発表論文は以下の通りであ。
(第1章) 「バックミラーのなかのメディア文化―テクノロジーの隠喩的理解をとらえなおす」(遠藤英樹+松本健太郎+江藤茂博編『メディア文化論[第二版]』ナカニシヤ出版、二〇一七年)
(第2章) 「メディア・テクノロジーが陶冶する想像力の現在―「予めの論理」と「象徴の貧困」」(二松學舍大学人文学会『人文論叢』九二輯、二〇一四年)
(第3章) 「メディアの媒介性と、その透明性を考える―ヴィレム・フルッサーの「テクノ画像」概念を起点として」(松本健太郎編『理論で読むメディア文化―「今」を理解するためのリテラシー』新曜社、二〇一六年)
(第4章) 「テクノ画像の表象作用に関する多角的研究―言語と写真の差異を中心に」(二松學舍大学『二松學舍大学論集』五五号、二〇一二年)
(第5章) 「タッチパネル考―視覚と連携する触覚が意味するもの」(二松學舍大学人文学会『人文論叢』九五輯、二〇一五年)
(第6章) 「「接続される私」と「表象される私」―コンピュータ・ゲームをめぐる記号論的・メディア論的考察の可能性」(日本記号学会編『新記号論叢書セミオトポス・ いのちとからだのコミュニケーション』慶應義塾大学出版会、二〇一一年)
(第7章) 「スポーツゲームの組成―それは現実の何を模倣して成立するのか」(日本記号学会編 『セミオトポス・ ゲーム化する世界―コンピュータゲームの記号論』新曜社、二〇一三年)
(第8章) 「ポケモンGOでゲーム化する世界―「ゲーミフィケーション」概念を再考する」(神田孝治+遠藤英樹+松本健太郎編『ポケモンGOからの問い―拡張される世界のリアリティ』新曜社、二〇一八年)
(第9章) 「拡大される細部―マイケル・ウルフとダグ・リカードの写真集を比較する」(二松學舍大学人文学会『人文論叢』九七輯、二〇一六年)
(第10章)「「複数の状態」にひらかれたデジタル写真をどう認識するか―トリップアドバイザーの「トラベルタイムライン」を題材に」(谷島貫太+松本健太郎編『記録と記憶のメディア論』ナカニシヤ出版、二〇一七年)
本書で詳述したように、私たちは「画面=コントローラ」と化したタッチパネルによって、自らの意のままに記号世界/情報世界を操作しようとする。タップ、フリック、スワイプ、ピンチイン、ピンチアウト―軽くふれたり、たたいたり、はじいたり、ひっぱったり、それこそさまざまなタッチジェスチャを駆使しながら、私たちはタッチパネルにうつしだされる映像を視認しつつ、それに指先で触れつづけるのだ……。本書では「視覚に従属する触覚」という図式のもとで議論を展開してきたが、これら二つの感覚器官の今日的な組合わせは、私たちが他者とコミュニケートしたり、世界を理解したり、さらには、そこから何らかのリアリティを感知したりする際の前提として介在しているように思われる。
デジタルメディアの発達は、私たちをとりまく記号世界をどのように再構成するのだろうか。また、それにともなって私たちのリアリティ感覚はどのように変質するのであろうか。『デジタル記号論―「視覚に従属する触覚」がひきよせるリアリティ』とのタイトルのもとで展開された本書での議論をつうじて、私たちが一貫して問いつづけてきたのは、端的にいえばこれらの二点である。そしてその過程において、たとえばデジタル写真、タッチパネル、コンピュータゲーム、Googleストリートビュー、トリップアドバイザーなど、それこそ多種多様な素材を分析の俎上に載せてきたが、それらはデジタル時代の技術化されたイマジネーションの組成を把捉するうえで、あるいは、現代における「記号」と「メディア」の間隙を射程に収めるうえで恰好の題材だといえる。
記号論/記号学が学術的な話題の中心から放逐されて久しい、と感じているのはむろん筆者だけではないはずである。しかし他方で「デジタル化」されたとはいえ、私たちが依然として「記号世界」に生きていることも確かなはずである。そのような現況を鑑みたとき、デジタル時代のリアリティ感覚や技術化されたイマジネーションの様態をよりよく理解するためにも、私たちは記号をめぐる既存の理論的枠組みの問題点を認識しながら、それを現代の文化的/技術的状況に即してアップデートしていく必要があるのではないだろうか。筆者は「デジタル記号論」を掲げて本書を上梓するが、これがその構想の端緒をひらくものになれば幸甚である。
本書を終えるにあたって、この刊行に御尽力いただいたすべての方々、とりわけ、厳しいスケジュールのなかでの編集作業に御協力いただいた新曜社編集部の渦岡謙一氏に心よりお礼を申し上げたい。
松本健太郎