前書きなど
質的心理学辞典 はしがき
心理学を軸としながら社会学、教育学、看護学、医療・医学、言語学、経営学など多様な分野の研究者が集まり、2004年に日本質的心理学会を立ち上げてから15年が過ぎようとしています。その間、質的研究への関心はかつてない広がりをみせ、人文・社会科学のさまざまな領域で質的方法を用いた研究者や、質的研究を学ぼうとする学生・院生が増えています。学会自体も会員数が1000人を超える規模になりました。質的研究に特化して書かれた教科書や研究書も増え、書店に行けば、さまざまな学問分野を背景にした多様な質的研究の教科書が並んでいるのがわかるでしょう。質的研究の考え方や方法を学ぶための資料は、一見したところずいぶん増加してきたようにみえます。
その一方で、質的研究の広がりはさまざまな用語の使用とテーマの拡散を招き、研究者相互のコミュニケーションを困難にしているという面もあります。質的研究の目的の一つとして、生のあり方の多様性を発見していくことがあるとしたら、現状は喜ばしいものとして評価できるのかもしれません。だからと言って、質的研究が何でもありの相対主義の混沌を目指しているわけではないのも確かです。質的研究の裾野が広がれば広がるほど、その土台を確認していく作業が必要になってくるのではないでしょうか。
この『質的心理学辞典』は、そうした状況のもとで、日本質的心理学会の創立15周年記念事業として企画されました。学会はこれまでも、『質的心理学講座』全3巻(東京大学出版会、2008)、『ワードマップ 質的心理学─創造的に活用するコツ』(新曜社、2004)、『質的心理学ハンドブック』(新曜社、2013)などの企画・出版を行ってきました。これらの書籍は質的研究の啓発と普及に大きな役割を果たしてきましたが、用語の意味を調べたり概念の使い方を確認したりするような使い方には不向きだったのではないかと思います。
欧米では、学習者の便宜を図り研究者間の共通理解の土台を作り上げる機能を果たすものとして、用語集や事典が刊行されてきました。日本でも、シュワ ントの『質的研究用語事典』(北大路書房、2009)やブルアとウッドの『質的研究法キーワード』(金子書房、2009)などが翻訳されています。しかしながら、用語の選択が執筆者の学問分野にやや特化していること、日本の質的研究の現状の全体をカバーできているとは言いがたいこと、中項目~大項目の事典・用語集のため手軽には参照しにくいこと、などの限界を指摘することができるでしょう。
本辞典は、質的研究の背景となる理論や方法、そして近年研究テーマとして取り上げられることが多い概念や用語、そして人名をとりあげて、その意味や関連情報を簡潔かつ明快に整理し記述したものです。理論や方法にかかわる項目には、さまざまなレベルで質的研究を方向づける多様な概念が含まれています。対象をどのようにみるか、どのように扱うかによって研究対象である現実の姿も違ってきます。質的研究のミッションの一つが、これまで見落とされていた視点から現実を見直すことであるとするならば、本書で提示されている諸概念はそのための有用なツールになるはずです。また、研究テーマにかかわる項目には、多様なフィールドとかかわりつつ発展してきた質的心理学ならではの多彩な項目が含まれています。それらは、日本の質的研究がこれまで何を問題にしてきたのかを示す具体例であると同時に、新たに研究を立ち上げていく際の水先案内の役割を果たすものになるでしょう。もちろん、そうしたテーマは質的研究の理論や方法と全く分かれているわけではありません。ていねいに読んでいただければ、テーマと問いが理論や方法を呼び寄せ、理論や方法がテーマや問いをより精緻なものにしていくというダイナミックな関係が、項目の間から感じられてくるのではないかと思います。
本辞典ができあがるまでの編集の過程について、少しだけ述べておきましょう。見出し項目は、はじめに編集委員の一人が暫定的に選んだ約300項目を基礎に、ほかの編集委員が項目を加えていきました。方法論関連の項目については、内外の質的研究関連の教科書や辞典を参考に、また、研究テーマ関連の項目については、『質的心理学研究』を中心にここ20年ほどの間に日本の学術雑誌に発表された質的研究論文のキーワードを参考にして、選択を進めました。人名項目についてもほぼ同様なのですが、ただ、存命の日本の研究者については、その多くが学会員であり客観的な紹介・解説が難しいということもあって、今回は見出し項目には含めておりません。その後何回か編集会議を重ね、日本の質的研究の全体に目配りをしながら取捨選択や統合を行った結果として、最終的には一般項目984、人名項目114、計1098項目にまとまりました。
執筆者には、日本質的心理学会の会員を中心に、ベテラン、中堅、若手を問わず、その項目に関して幅広い知識と経験をもっていると考えられる方に依頼させていただきました。また、会員でカバーできない項目については非会員の先生方にもお引き受けいただき、おかげで記述の内容にさらなる広がりと厚みが出たように感じます。それぞれの執筆者から送られてきた原稿は、複数の編集委員が読み、必要に応じて執筆者と何度かやりとりを行って、全体のバランスを考えたり形式を揃えたりしながら、現在の形になりました。お忙しいなか執筆の労をとってくださり、場合によっては何度もやりとりをして記述をより精緻なものにしてくださった執筆者の皆様に対しては、感謝の念に堪えません。
編集の過程ではいくつか、予想しなかった困難にぶつかりました。その一つが訳語の問題でした。辞典の統一性からいえば、一つの原語に対して一つの訳語が対応しているのが理想なのですが、多彩な背景をもつ質的研究だからこそなのか、なかなか思うようにはいかない事態に出会い、その都度委員の間で議論して解決の方向を探りました。たとえば、constructivismと対比的に用いられることが多いconstructionismの語に対しては複数の訳語があって、現状では、個々の執筆者の学問背景や立場によりどの訳語を用いるかが異なっています。編集委員会で意見交換したり、より専門の近い先生にご意見を求めたりして統一を試みたのですが、どこかに不整合が残り、結局はそれぞれの訳語にカッコに入れて原語を付記するという形の決着となりました。辞典としてはスマートさに欠けるともいえますが、これも複数の学問分野から発展してきた質的研究の特徴としてご容赦いただければと思います。
また、辞典という本書の性格上、原則的には、それぞれの項目はその概念の簡明な定義から入るよう執筆者の先生方にお願いしました。なかなか定義が難しい概念もあり、ご苦労をかけたりもしましたが、なんとかこのような形でまとめることができ、編集委員一同安堵しているところです。ただ、読者の皆さんに心に留めておいていただきたいのは、どの定義もあくまで今の時点で共有されていたり、研究の土台とすべきと考えられていたりする暫定的なものにすぎないということです。質的研究は常に言葉と格闘しており、その過程で定義自体もまた修正されていきます。ですから、広辞苑の改訂が現在も続いているように、本書もまた一定期間の後に改訂されていくべきものと考えます。
本辞典が完成するまでには、執筆者の先生方も含め、非常に多くの方のお世話になりました。特に京都大学名誉教授のやまだようこ先生には、編集作業におきましても見出し項目の選定と整理および辞典の形式の決定にご尽力いただきました。また、最後になりましたが、本書が学会15周年記念出版として実現したのは、終始きめ細かな進行管理と執筆者のサポートをしてくださった、新曜社の大谷裕子さんのおかげです。大谷さんは、企画段階からかかわり、編集作業の実務のみならず、要所要所で貴重な提案をして本書を完成に導いてくださいました。編集委員一同、心より感謝申し上げます。
2018年10月 日本質的心理学会『質的心理学辞典』編集委員会
能智正博・香川秀太・川島大輔・サトウタツヤ・ 柴山真琴・鈴木聡志・藤江康彦