紹介
脳と心のかかわりを科学する
わずか1.5リットルほどの脳は、その誕生から死まで生命活動を維持し、自然や社会の環境にフレキシブルに適応する意識を持続させています。脳の高次機能には社会の中でさまざまな問題の解決に向けて働く認知脳の仕組みと、社会の中でうまく適応してゆく社会脳の仕組みが共存しています。この社会脳と認知脳はシーソーのように働くネットワークをなしています。脳科学はもっぱら理科系の学問と見なされがちですが、今、心理学を中核とした人文社会科学と脳科学や情報学が相互乗り入れして、脳と社会とのかかわりの研究が新たなルネサンスの時代を迎えました。本書はこの文理融合の新しい分野をわかりやすく紹介し、脳の働きから人々をつなぐ社会脳のメカニズムを考えてゆく冒険への誘いです。
目次
社会脳ネットワーク入門 目次
まえがき
第Ⅰ部
1章 脳と心
1−1 脳と心の研究史
1−2 意識の主観性
1−3 意識とは
1−4 NCC問題
1−5 意識の階層
2章 脳の小宇宙
2−1 1・5リットルの脳の小宇宙
2−2 社会脳と認知脳
3章 脳の構造と機能
3−1 脳の地図
3−2 脳の外側・内側面と皮質下
4章 脳の探検
4−1 脳活動の観察
4−2 ブレインイメージングの方法
4−3 fMRIによる脳内血流動態の観察
4−4 コネクトーム・プロジェクト
5章 社会脳
5−1 社会脳と意識
5−2 社会脳とは
5−3 ダンバー数
6章 社会の中の自己
6−1 自己とは
6−2 自己と他者の境界─社会脳の核心
6−3 身体的自己
6−4 心的自己と帰属
7章 融合社会脳の展開
7−1 社会脳研究の諸領域
7−2 報酬を期待する脳─ニューロエコノミクス
7−3 不注意による見落とし─ゴリラ実験
7−4 恥ずかしさ─社会性の芽生え
7−5 ファイティング・トライアングル─意図の推定
7−6 いじめと社会的痛み
7−7 社会脳と芸術─ニューロエステティック
7−8 社会脳と倫理─ニューロエシックス
7−9 虚構の想像─嘘をつくこと
7−10 内側前頭前野と社会脳
8章 情報社会と社会脳
8−1 Society5.0 と社会脳の進化
8−2 ネット社会
8−3 AIの影響
第Ⅱ部
9章 脳内ネットワーク
9−1 神経基盤に対するアプローチの変遷
9−2 機能的結合性
9−3 構造的ネットワーク
9−4 安静時ネットワークの概観
10章 認知脳ネットワーク
10−1 ワーキングメモリ
10−2 ワーキングメモリネットワーク
10−3 中央実行系機能
11章 社会脳ネットワーク
11−1 デフォルトモードネットワーク
11−2 メンタライジング(心の理論)ネットワーク
11−3 ミラーニューロンネットワーク
12章 ネットワーク間の競合と協調
12−1 デフォルトモードネットワーク(DMN)とワーキングメモリネットワーク(WMN)の競合
12−2 デフォルトモードネットワーク(DMN)とワーキングメモリネットワーク(WMN)の協調
12−3 ネットワークの競合と協調のダイナミックな変化
12−4 ネットワークの機能的異質性
12−5 認知脳ネットワークと社会脳ネットワーク間の切り替え
13章 ネットワークの個人差
13−1 認知脳ネットワークの個人差と知能
13−2 社会脳ネットワークの個人差
14章 ネットワークの障害または機能不全─自閉症を例にとって
14−1 自閉症の特徴
14−2 自閉症の情報処理
14−3 自閉症の社会的情報処理の特徴
14−4 自閉症の心の理論障害仮説
14−5 自閉症のミラーニューロン障害仮説
14−6 自閉症は脳内ネットワークの障害─結合性不全仮説
15章 将来の展望
15−1 ネットワーク理論
15−2 スモールワールドネットワークとしての脳
15−3 おわりに
脳関係の略称名
引用文献
事項索引
人名索引
装幀=新曜社デザイン室
前書きなど
社会脳ネットワーク入門 まえがき
本書『社会脳ネットワーク入門─とネットワークの協調と競合』は二つの新しい視点を提供します。第一の視点は、豊かな社会性を生み出す社会脳のはたらきをネットワークの視点で捉える試みです。今日まで、脳の生物学的仕組みの解明は動物の脳を中心に、大きな成果をあげてきましたが、脳の社会的はたらきやその仕組みの解明は遅れていました。脳の社会的機能については、「社会脳(social brain)」と呼ばれる新しい研究分野が急速に拓かれつつあり、これからの社会の在り方に大きなインパクトを与えようとしています。自己を知る脳や他者を理解する脳のネットワークは、前頭葉や頭頂葉のネットワークと協調して社会脳ネットワークを形成していることが最近の脳のネットワークの先端研究で明らかになってきました。古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「自己自身を知れ」と述べ、またアリストテレスは「人間は社会的動物である」と言いましたが、まさに、この自己と社会を結ぶのが社会脳です。
われわれは外界から情報を取り込み、情報を選択しながら最適な適応行動をとっています。外界の認識と適応行動は、脳の知覚や運動のシステムがそれぞれ担っており、これは主として認知脳(cognitive brain)の役割で、具体的には知覚や記憶のはたらきです。一方、自己内部の身体感覚をはじめとして、自己という内界から出発し、他者の心を想像し(メンタライゼーション)、自分なりの信念をもち、さらに仲間と共感し合うなどの社会性を生みだすのは社会脳の役割です。われわれは生まれた瞬間から、親や友人などの他者との交わりを持続的に持ち続けることで、豊かな社会性や利他性、さらにレジリエンス(精神的復元力)を獲得します。そのプロセスが、自己の心の内部世界を成熟させ、社会のなかでの自己の位置を自覚させます。
本書の第二の視点は、社会脳を認知脳のネットワークとのダイナミックな相互作用を通して捉えようと試みている点です。社会脳と認知脳を形成する種々のサブネットワークを整理し、両者のダイナミックな相互作用がヒトの意識を創発していることを示しています。認知脳の代表としてワーキングメモリネットワークを、社会脳の代表としてデフォールトモードネットワークを想定し、脳の前頭前野の内側面が社会脳ネットワークの、そして外側面が認知脳のネットワークの機能的中心領域と想定します。両ネットワークが容量制約のある注意(気づき)という資源をめぐって、シーソーのように揺れることで動的な平衡が維持されると考えています。
認知脳と社会脳の相互作用を通して、「人間とは何か?」という問いへの一つの答えを示し、また「我々はなぜ生きるのか」を「脳から見た社会」という視点で考えます。「社会的存在としての脳」の意義は、生命の持続的維持という基本的役割に加えて「他者の心を理解し、利他性の豊かな社会性を育て、他者と協力して新たな社会を創造してゆく」ところにあります。今日、われわれは物理世界と仮想世界が入り混じり、AI(人工知能)が大きな役割を果たす近未来の情報社会(society 5.0)の入り口にいます。この近未来社会に再適応するにも、やはり脳の前頭前野にあってAIやICTを生み出してきた認知脳やHI(人間の知能:human intelligence)の研究が必要ですが、これはワーキングメモリネットワークの創発特性と深くかかわる可能性があります。また、今日の社会ではいじめ、引きこもり、ネット依存症などさまざまな社会不適応が生じ、健全な社会性が失われつつありますが、その回復にも社会脳の仕組みの研究とその研究成果の社会還元が必須です。
本種の第Ⅰ部は主に苧阪が、第Ⅱ部は主に越野が執筆しました。また、本書は社会脳シリーズ全9巻(2012-2015 刊行済み、新曜社)の解説を兼ねていますので、詳しくはシリーズの各巻を参照してください。新曜社の塩浦暲社長にはシリーズ刊行に続く本書の刊行でもお世話になりました。東美由紀氏(大阪大学情報通信研究機構(NICT)脳情報通信融合研究センター(CiNet)脳情報工学研究室研究員)には原稿の整理で、矢追健氏(京都大学大学院文学研究科助教)には原稿を読みいろいろな御意見をいただいたことについて、それぞれ感謝します。
2018年2月2日
苧阪直行
越野英哉