紹介
「なかなか死ねない時代」をどう生きるか
哲学の第一人者ですが、医療に対する関心も深く、鋭いです。本書は自らと家族の病気・医療体験を振り返りながら、日本の医療の歴史と現在を考察し、その問題点を指摘したものです。なかでも「死」の問題に視点をすえて、安楽死(尊厳死)、緩和医療、終末期鎮静、臓器移植などの問題について、家族や医者はどう関わるべきか、自殺・殺人との関係、最近のやまゆり園の大量殺害事件などを取り上げて具体的に論じます。さらに超高齢化社会をむかえて、日本の貴重な制度である「国民皆保険制度」をどうしたら護れるかにも提言します。「なかなか死ねない」時代、いまもっとも考えるべき課題に真正面から向かい合った書といえるでしょう。
目次
〈死〉の臨床学 目次
序 章 日本の医療――純個人的な体験記
第一章 戦後の医療変革――患者側からの瞥見
第二章 日本の医療――国際比較のなかで
第三章 老いと死の諸相
一 老いと死の諸相
二 医療における死
第四章 死の援助
第五章 終末期鎮静
第六章 生きるに値する命
終 章 ささやかな、ささやかな提案
あとがき
事項索引
人名索引
装幀――加藤光太郎
前書きなど
〈死〉の臨床学 あとがき
我ながら、厄介な問題に取り組んだと思う。どうしても、自分のなかで、このテーマを取り上げなければならない、と思い定めたのは、やはり、自分の老いと、それに輪をかけた厄介な病いの発覚とであった。通常の嗜みを破って、自分の家にまつわる病いと死の歴史をさらけ出したのも、このテーマを扱うことへの躊躇いや「しんどさ」を乗り越えるための、自分への励ましめいた思惑からだった。
もともと、私は、他人の命を奪うことだけは、どんなことがあっても絶対にすまい、と心に決めて生きてきた人間である。幸いに、徴兵制度に出会うには、少し遅すぎた人間であるが、戦争にかり出されていたら、「良心的兵役拒否」のような確固とした信念を貫く立場よりは、矛盾するようだが、臆病さも手伝って、一発も小銃も撃たないまま、真っ先に自分が死んでしまうような兵士であっただろう、と思っている。家庭生活においても、新しく宿った生命を絶つような立場に置かれずに済んできた。
今八十歳を遙かに超えて、「殺す」ことだけは免れたことを、感謝しているが、翻って、もし当初の漠然とした希望が実現して、医師の途を歩んでいたら、自分の力の足りなさで、他人の命を救えなかった、という事例に多数出会わざるを得なかったばかりではなく、「殺す」という行為を絶対に拒否し続けることができたとは思えない、という思いに駆られるのである。
当たり前のことだが、社会のなかでの一人の人間の役割からくる義務と、個人の倫理観に基づく行為の幅との間には、常に厳しいギャップがあり、人は、何ほどか妥協して、そこで辻褄合わせをするか、社会的な糾弾を浴び、場合によっては処刑されるか(イエスをはじめ、実例には事欠かない)、個人の倫理観を捨ててしまうか、幾つかの選択を迫られる。
本書で扱ったテーマも最終的には、最も厳しい形での選択が迫られるような性格のものだが、現実に起こりつつある社会的に重要な問題に、背を向けて目をつぶるわけにもいかない上に、自分の倫理観だけで結論を導いたところで、問題がすっきり解決されるわけでもない。
言い訳めくが、終章で辿り着いた結論の、あまりの「ささやかさ」に、失望される読者が多いであろうことは、著者である私にも判っているし、日本における胎児の中絶に批判的でありながら、医師による「命の選別」や、医療経済的な配慮、あるいは自死、安楽死などに向かう姿勢の肯定的なニュアンスに、矛盾を指摘されるであろうことも自覚している。
ただ、私が、どうしても訴えたかったことは、日本社会に特徴的な「曖昧さ」(それが全面的に悪いとは思わないが)で、議論を交わさずに、暗々裏の処理で済ませているだけでは、すまなくなってきている、という認識であり、この問題にいずれは立ち向かわなければならない、という覚悟だけは、現代日本社会に必要なのではないか、という点である。
その意だけは体して戴くよう、読者の寛容にすがるのみである。
最後に、出版事情の厳しいなか、いつもながら刊行を許される新曜社と、編集に熱い情熱を注いでくださる渦岡謙一さんに深い感謝を捧げる。
多事だった平成二十九年の終わりに
著者