前書きなど
◆記憶のゴミ箱 訳者あとがき
本書はフレデリック(フリッツ)・パールズの自伝 In and Out the Garbage Pail の全訳である。1969年に Real People Press から出版されたが、1992年に The Gestalt Journal Press がイラストも含め初版に忠実に復刻している。現在入手できるのはこちらの版である。
こんな破天荒な自伝はそうあるものではない。人生の終わりにあたって、記憶のゴミ箱の中の書かれたいと欲する出来事には全て表現のチャンスを与え、パールズが生涯を賭けて創り上げたゲシュタルトセラピーをパールズ自身に試してみて、自分の退屈感や喫煙や過剰な自己顕示欲、のぞき趣味などの悪癖にゲシュタルトセラピーがどう効くのかを読者の前に明らかにし、自分をゲシュタルトセラピーの生きた見本にしよう、というのがこの本の趣向である。ゲシュタルトセラピーがパールズの分身である以上、パールズの半生と共にゲシュタルトセラピーもまた読者の前に明らかにされねばならない。読者は本書を読みながらパールズの思考の経過や感情の振幅を、葛藤や行き詰まりも含めて克明にたどり、見物しながらゲシュタルトセラピーのアイデアが生まれ成長する過程を生き生きと追体験することができる。
実は人生を回想しながら文章を書いているときの状態は、ゲシュタルトセラピーで言うところの中間領域に属していて、今を生きていないし、体の感覚からも離れている。何とかそこから逃れ、今を生き生きと生きようとして、パールズは文章をリズムに乗せて詩のように歌おうとするのだが、すぐに堂々めぐりの壁にぶつかり、人との出会いを避け、ただリズムに乗って自分の中をぐるぐる回るだけの自己満足に陥ってしまう。そこからパールズのさらなる苦闘が続いていく。
自分に正直に、読者を退屈させないように、ゲシュタルトの理論になるべく忠実に、自分を退屈させないように、綱渡りは続いていく。
パールズは自分の性的な嗜好や両親の不和、妻や親族の欠点なども容赦なく書き出しているが、その正直さがパールズを実に身近に感じさせてくれる。
本書の中でパールズは、ゲシュタルトセラピーの基本理論である内部領域、中間領域、外部領域での気づきや、コンタクトの理論、四つの抵抗システムであるプロジェクション(投影)、イントロジェクション(取り込み:鵜呑み)、レトロフレクション(反転行為)、コンフルエンス(融合)などについて分かりやすく説明し、どの点がまだ上手く理論化できていないのか、どんな可能性が残されているのかについても述べている。パールズの日本での禅の修行体験や禅僧との公案をめぐるやり取りも実に興味深い。ゲシュタルトセラピーを学ぶ者にとって本書は格好の入門書となっている。
1964年にエサレン研究所に移り住んでからのパールズは、知性による感情の抑圧、ごまかしを警告し、ワークの中では質問や議論を嫌い、感情を表現することを強く求めたが、本書を読んでわかるのは、パールズが優れた知性の人であり、パールズの頭の中では量子力学から政治体制に至るまで、常に議論や考察が行われていたということだ。 途中ひんぱんに対話の形で登場する声は、パールズのワークの中ではトップドッグ(勝ちイヌ)とアンダードッグ(負けイヌ)と呼ばれ、自分の中の「~すべき」と命令するパートと「~できない」あるいは「やります、もし~してくれれば」などといって怠けようとするパートを表している。これらはフロイトの精神分析における超自我と自我に対応している。ゲシュタルトセラピーにおいては、どちらか一方を排除するのではなく、両方の声を自分の中に統合し、両者を生かすことが大事であると考える。どちらも大事な自己の一部分だからだ。
本書は一方で、ユダヤ人知識人による優れた歴史の証言にもなっている。第一次大戦の西部戦線フランドルの塹壕戦と毒ガス戦、軍隊内のユダヤ人差別、中流下層のユダヤ人家族の生活と教育、ナチスの台頭とユダヤ人社会の反応などが、パールズの実体験を元に生き生きと描かれている。パールズはいち早くナチスによるユダヤ人虐殺を予見し、一刻も早い脱出を周囲のユダヤ人や親類達に訴えたが、聞き入れられなかった。「当時のユダヤ人たちが根拠のない楽観主義を改め、財産や親戚を捨て、未知の土地で生きる勇気さえ出せたら多くの人は助かったのに」、とパールズは残念がっている。ユダヤ人にも選択のチャンスはあったのだ。
「私は私のことをやり、あなたはあなたのことをやる、私はあなたの期待に応えるために生きているのではないし、あなたは私の期待に応えるために存在しているのではない」で始まる有名なゲシュタルトの祈りの詩は、時に個人主義的過ぎるとして批判されるが、その背景には、ドイツから逃げたパールズは生き残り、逃げるようにとの勧めを受け入れなかった親類は全て強制収容所で殺されたという現実がある。まさに、生き残るために私は私のことをやらざるを得なかったのである。その結果の残酷さ、だからこそ祈りなのだ。
ゲシュタルトセラピーは、フリッツ・パールズ、ローラ・パールズ、ポール・グッドマンの三人によって形作られた。 K・ホーナイ、W・ライヒに分析を受け、左翼的精神分析家グループとしてベルリンで活動していたフリッツ・パールズは、1934年ナチスの台頭によってドイツを逃れ、アムステルダムを経て南アフリカに渡り、南アフリカ初の精神分析研究所を設立する。そこで精力的に精神分析を行っていたフリッツと妻ローラは、過去に原因を求め患者との個人的な交流を拒否する当時の精神分析の方法に疑問を感じ、分析中の患者の動作やしぐさに注目し、患者と対面して分析する方法を考え出す。同時にフロイトの「抵抗は肛門期のみに存在する」という理論に対し「乳児に歯が生え始める頃、乳児は母親の乳首を噛むことで抵抗を表現する、抵抗は口唇期にも存在し、乳児の攻撃性を認め統合することで、人間の発達をより自然でバランスのとれたものにすることができる」とする抵抗の新しい理論、攻撃性の理論を確立していく。
1936年、「口唇期抵抗」の論文を胸に勇躍、南アフリカからチェコスロヴァキア・マリエンバードでの国際精神分析学会に参加したパールズはフロイトの強い拒絶に会い、やがて精神分析と決別する道を選んでいく。
ゲシュタルトセラピーの成立にあたって妻ローラの果たした役割は非常に大きい。ローラはフランクフルト大学でハイデガー、ブーバーに哲学を学び、ゲシュタルト心理学をウェルトハイマーとゴールドシュタインに、実存哲学をティリッヒに学んでいる。攻撃性の理論はローラの育児経験が元になっている。
しかし、ゲシュタルトセラピーという名称は、周囲の反対を押し切ってパールズが強く主張して名付けた。ゲシュタルトという機能、未完了のゲシュタルトを完成させようとする根源的な働きをフロイトの精神分析におけるリビドーに置き換えたことで、ゲシュタルトセラピーは根本的に精神分析を乗り越える心理療法となった。このアイディアはパールズの世紀の卓見である。
ポール・グッドマンは作家、詩人、批評家であり、アナーキズムの信奉者であり、アメリカの60年代カウンターカルチャーを代表する知識人である。グッドマンはオットー・ランクの「今、ここ」を重視する精神分析手法に非常な関心を寄せていて、それをゲシュタルトセラピーの中心に持ち込んだ。
1946年、フリッツ・パールズとローラ・パールズはニューヨークに移住する。パールズの依頼によりポール・グッドマンがパールズのメモに自身のアイデアを加えて英語の文章に仕上げ、さらにR・ヘファーリンが実験的エクササイズの部分を書いて Gestalt Therapy ― Excitement and Growth in the Human Personality (Julian Press, 1951) が三人の共著として1951年に出版されると、パールズの周囲にはゲシュタルトセラピーに関心を寄せる人々が集まるようになった。
1952年、フリッツ・パールズ、ローラ・パールズ、ポール・グッドマンらによってニューヨーク・ゲシュタルト研究所が設立される。Gestalt Therapy は着実に売り上げを伸ばし、ゲシュタルトセラピーに対する関心は高まり続けた。
1962年、イサドラ・フロム、ローラ・パールズ、ポール・ワイスなどニューヨーク・ゲシュタルト研究所のメンバーがクリーブランド・ゲシュタルト研究所でトレーニングコースを担当するようになると、複数の講師によるトレーニングを主張するメンバーと個人によるカリスマ的な指導を好むフリッツ・パールズとの溝が深まり、フリッツ・パールズはニューヨークを離れ、西海岸を旅しながらワークショップとトレーニングを行うようになる。
1964年パールズは、日本、イスラエルなどを巡る世界旅行の後、カリフォルニア、エサレン研究所に居を構え、エンプティーチェア(空の椅子)の技法に代表されるグループワークとデモンストレーションを数多く行い、全米の注目を集める。
エサレン研究所が人間の潜在能力回復運動の中心地として大きな注目を集めるにつれて、ゲシュタルトセラピーもエサレンを代表するセラピーとして多くの信奉者を獲得していく。フリッツ・パールズが用いたエンプティーチェアや多数の観衆の前でワークするホットシートと呼ばれるやり方は、それまでのニューヨークなど東海岸で行われていた対話と気づき、個人セッションを中心としたゲシュタルトセラピーの技法とは大きく異なっていた。
「デモンストレーションに重点が置かれ、単なるパフォーマンスになっている」などと批判も受けたが、TIME誌、LIFE誌にも大きく取り上げられ、エンプティーチェアのデモンストレーションのわかりやすさとドラマ性がフリッツ・パールズのカリスマと相まって、ゲシュタルトセラピーは広くアメリカ社会に認知された。一方で、ゲシュタルトセラピーとはつまりエンプティーチェア・テクニックでありインスタントなセラピーであるという浅薄な理解を生み、ゲシュタルトセラピーの哲学的な基盤や革新性、正統に精神分析を批判し乗り越えたホリスティック(全体的)な心理療法であるという事実はあまり注目されなかった。エンプティーチェアのテクニックはうわべだけ模倣されて自己啓発セミナーなどで使用され、ゲシュタルトセラピーの信頼を傷つけた。フリッツ・パールズとローラ・パールズはゲシュタルトセラピーがテクニックだけを鵜呑み(イントロジェクト)にされることに警鐘を鳴らした。
フリッツ・パールズの死後、ゲシュタルトセラピーに対する一時の熱狂は去ったが、ローラ・パールズはニューヨーク・ゲシュタルト研究所で精力的に活動を続け、クリーブランド・ゲシュタルト研究所では集団指導制による独自のプログラムで多くの優れたゲシュタルトセラピストを生み出し、ゲシュタルトセラピーを組織や集団、カップルに適用する道を切り開いた。
アーヴィング・ポルスター、ミリアム・ポルスター夫妻は Gestalt Therapy Integrated を著し、自分や他者とのコンタクトとその境界を重視するゲシュタルトセラピーの新たな方向性を示した。ヨーロッパ、オセアニア、中南米、日本、台湾と、ゲシュタルトセラピーは文化の違いを超えて世界中に広がり続けた。
1990年代に入ると、ゲシュタルトセラピーに対する関心が再び高まり、おびただしい数の学術論文が発表されるようになった。現在では、Gestalt Journal, British Gestalt Journal など英語の専門雑誌だけで11誌が出版され、フリッツ・パールズ個人の言葉に囚われるのではなく、ゲシュタルトの理論と哲学、世界観をテーマに、ウェルトハイマーやクルト・ゴールドシュタインのゲシュタルト心理学、W・ライヒの性格の鎧理論、クルト・レヴィンの場の理論、フッサールの現象学やハイデガーの実存主義、ブーバーの対話の哲学など、ゲシュタルトセラピーに影響を与えた要素を再認識しながら新たなアイデアを生み出し続けている。
世界では200を超えるゲシュタルト研究所が個性豊かな活動を展開し、世界最大のゲシュタルトセラピーの国際学会 AAGT (The Association for the Advancement of Gestalt Therapy) をはじめ、IGTA (International Gestalt Therapy Association)、ヨーロッパ地域のEAGT (The Europian Association for Gestalt Therapy)、ニュージーランド、オーストラリアに基盤を置くGANZ (Gestalt Association of Australia and New Zealand) など、多くの会員を擁する学会が活発に活動している。
ゲシュタルトセラピーに関するインターネットのサイトの数は、最初のサイトが1995年にウェブ上に現れてから4年間で10倍に増加した。(Ancel L. Woldt, Sarah M. Toman, Gestalt Therapy History, Theory and Practice, Sage Publications, 2005, p.18)
訳者(原田成志)は2006年のAAGTバンクーバー国際学会に参加し、日本人として初めてプレゼンテーションを行った。2008年AAGTマンチェスター国際学会では企画委員とプレゼンテーションの審査委員を担当した。AAGTは自らをゲシュタルトセラピーを具体化する壮大な実験的コミュニティーと位置づけ、次々とコミュニティーの中で浮き上がってくるゲシュタルト(形態)に忠実に、アメーバのように形を変えながら、生き生きと会員の要求をかなえることを目的としている。日本のゲシュタルトセラピーもオリジナルなアイデアを世界のゲシュタルト・コミュニティーに発信する段階に到達している。
フリッツ・パールズが最晩年に目指したゲシュタルトセラピーを基礎とする共同体「ゲシュタルト・キブツ」の夢は、形を変えて世界のゲシュタルト・コミュニティーの中で生き続けている。
本書がゲシュタルトセラピーの源流を理解する助けになり、読者を刺激する触媒になれば幸いである。本書を出版する機会を与えてくださった新曜社の塩浦あきら氏に感謝致します。
2009年5月10日
原田成志