前書きなど
36歳の時に書いた『蒲団と達磨』の後日談として、この『家庭内失踪』を書いた。
『蒲団と達磨』は、高校教師の野村のところに後妻として入った雪子が、先妻の子であるかすみの結婚式の夜に、夫の野村に別居を言い出すという話だった。雪子は野村の性的な欲求に耐え難いものを感じていたのだ。
年月が経ち、野村は年齢からくる精力の衰えに苦悩している。雪子にとってそれはあの頃の立場の逆転を意味しているわけだった。そして結婚したかすみはいかなる理由でか、夫である石塚のもとにいることを嫌い、実家である野村家に身を寄せている。それがこの『家庭内失踪』の状況。この逆転の話を書いた私は63歳になっている。36が63、あ、逆だと……いや、別にはしゃぐほどのことでもないが。
性的なものを描く演劇は数々あれど、性生活それもお父さんの、となればあまり目にすることはなかろうと思って『蒲団と達磨』を書いた。お父さんの、というのは一家の家長として揺るぎない存在でなければならない人が、文字通り一人の人間として自らの性欲に懊悩する、そこに悲劇とも喜劇とも言えるものがあるだろうと思ったからだ。『家庭内失踪』では、すでに一家の家長というより、家長であった人という野村の存在になっている。
書き終わって稽古をするうちに気づいたことがある。この『家庭内失踪』が、チェーホフの『ワーニャ叔父さん』に似ている、と思ったのだ。若く美しい女エレーナを嫁に持つセレブリャーコフが自らの老いにイラついてエレーナにあたる。とエレーナはたまりかねてこう言う。「そのうち私も歳をとりますから!」
私は、まさにそのシーンを“性的なものを扱ったシーン”として若い演劇志望の人たちに授業めいたことをやったことがあった。『蒲団と達磨』では似てるなど微塵も感じさせなかったのに、何年かの時間を経て主人公夫婦に年齢を重ねさせ、登場してなかったかすみという人物を登場させたことで「似てる」状況になっていることが、何だか面白い。まったく意識はしていなかったことが、意識の上に浮上してきたものを見るような心持ちだ。ソーニャにあたるのが、かすみという存在ということになる。ただワーニャにあたる人物はいない。
そう、ナサニエル・ホーソーンの『ウェイクフィールド』という短編小説にヒントを得てこの戯曲を書いたということは言っておかねばならない。望月という登場人物がまさにそれだ。19世紀前半に書かれたこの小説が私にとってはあまりにも現代的であり演劇的だった。妻の前から、金曜日に戻ると言い残して出かけ、20年間失踪するのだが、その20年の間ウェイクフィールドは近所にアパートを借りてそこで暮らしているのだ。そして妻のことを観察している。間近ですれちがいさえする。そして何事もなかったかのように20年ののち、妻の元へ帰ってゆく。こうやってあらすじを書いているだけでうっとりする。
かつて引用が多すぎるのではないかと言われたある映画監督が、オリジナルなものなど誰にもない、と言い放ったと記憶しているが、この私とて埋め込まれた他者の物語から解放されることはない、ということなのだろう。──岩松了「あとがき」より