紹介
《日仏交流の全体像》
鎖国状態の日本の扉を、砲艦による強引な威嚇外交で
こじ開けたのは、1854 年にやってきたペリー提督率いる
米国の艦隊だった。
その後、欧米列強は次々に日本との和親条約・修好条約を
締結していった。
彼らが一応に驚いたのは
日本には常備軍が存在しないということだった。
そのため、日仏の交流は国防問題からまずは開始された。
軍事規律はいうまでもなく、その他の分野でも
フランス文化の強い影響が押し寄せた。
岩倉欧米視察団が出発したのは明治4年。
欧州文化の中心フランスには様々な領域で
学問が高度に達しており、日本が学ぶべきものが
多岐にわたることを痛感した。
最初の日仏関係は、彼我の文明には落差が大きすぎ、
日本側が一方的に恩恵を蒙るものだった。
目次
(序章)日仏交流のはじまり
(1章)造船技師ヴェルニーと海港ブレスト/
日仏交流の原点を求めて
(2章)ナポレオン三世の対外政策/
遠隔地メキシコと日本の場合
(3章)岩倉具視使節団とフランス/
明治の日本人に見えなかったもの
(4章)パリ・コミューン、ルイーズ・ミシェル、
大佛次郎
(5章)ゾラ『壊滅』と大佛次郎『パリ燃ゆ』
をめぐって
(6章)大佛次郎『天皇の世紀』とフランス/
かくれたテーマを求めて
(7章)ドイツ占領下のリヨンを生き抜いた
瀧澤敬一(1884 〜1965)そのご遺族を現地に訪ねて
(8章)日系フランス人の住むニューカレドニア再訪
(9章)比較翻訳論の試み/
フランス人の翻訳観を中心に
(付録)清岡卓行『マロニエの花が言った』を読む