目次
目 次
はじめに──宗旦研究の歴史 3
第Ⅰ部 赤松宗旦の一生13
一 初代の赤松宗旦 15
二 『利根川図志』の著者─宗旦義知 30
三 宗旦義知の青年時代 40
四 医師開業 49
五 地方医師の医療活動 64
六 文人医師・宗旦 72
七 印旛沼の開発と『利根川図志』 81
八 『利根川図志』執筆の開始 92
九 取材旅行 101
十 江戸出府と出版実現 115
十一 安政の大地震と出版中断 131
十二 『利根川図志』の完成 157
十三 『利根川図志』販売の旅 162
十四 諸国売弘めの許可 184
十五 「続編」の執筆と死 198
十六 宗旦義知の遺族 203
第Ⅱ部『利根川図志』をめぐる人々205
一 『利根川図志』に画いた絵師たち 207
⑴ 葛飾北斎 208
⑵ 葛飾為斎 209
⑶ 山形素真 210
⑷ 湖城喜一 213
⑸ 玉蘭斎貞秀 214
⑹ 一立斎広重 218
⑺ 鈴木鵞湖 219
⑻ 玉 峨 220
⑼ 挿絵の欠落 221
二『利根川図志』とシーボルト 224
⑴ 宗旦と本草学者 226
⑵ 幡崎鼎とシーボルト 235
三『利根川図志』編述の助力者たち 244
⑴ 君塚玄圃 244
⑵ 深河潜蔵 249
四『利根川図志』の販売と購読者 272
⑴ 『利根川図志』の販売について 272
⑵ 『利根川図志』の購読者について 276
赤松宗旦家略系図 290
赤松宗旦略年譜 291
前書きなど
はじめに
黒船が江戸前の海に現われて、日本中を驚かせた幕末安政のころ、関東平野の中央を北西から南東に貫流する大河・利根川の岸で、『利根川図志』という全六冊の書が生まれた。
この書は当初、もっと壮大なものになる予定だった。利根川の源流は、越後国と上野国の国境に近い文珠山に発すると思われていたが、本書はこの文珠山より筆を起こし、関東平野を貫流して太平洋に流れ出る川口の、下総国銚子にいたる七十里余(約二七二キロメートル)の全流域を対象とすること。そして、この地方の名所旧跡、神社仏閣、産業、交通、地理、歴史から、人情・風俗、動物・植物の生態にいたるまでを、すべて記録すること。こういう壮大な構想を持った「地誌」であった。
しかし、激動の歴史の中にあった当時の状勢は、壮大な構想を実現する十分な時間を与えなかった。そこで、まずは中利根川の「房川の渡し」の少し下流、赤堀川と権現堂川とが分流する地点から書きはじめ、川口の銚子湊までの中・下利根川とそれに接続する手賀沼・印旛沼の沿岸地域を対象として、全六巻・六冊にまとめられ、安政四年の秋に出版された。
そのなかには、上越国境の利根川源流から銚子川口までの沿岸のくわしい地名を記した「利根川全図」をはじめ、沿岸の風景や神社仏閣の祭礼、利根川を登ってくる鮭やサケ虫、川菜や鷺ノシリサシなどの動植物、カッパ、アシカなどから、手賀沼・印旛沼の図、銚子磯めぐりの図などまで、約八十枚に近い当時の情景を伝える絵図が入れられている。その説明は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』から『常陸国志』『佐倉風土記』『東国戦記』などまで、六十種に近い古典・書籍を引用して述べてあり、開いて見ているだけでも楽しくなるような本であった。
このころ、全国各地で書かれていた「地誌」は、『下野国誌』とか『上総国誌』といったような、国を中心にまとめたものが多かった。そのようななかで、国や郡という単位を越えて、利根川という一本の河川を中心に置いてまとめる構想は、非常にユニークで、『利根川図志』はその意味で、他にほとんど類例をみない特異な「地誌」だったのである。
この、まれにみるユニークな感覚をもって『利根川図志』を書いた人は、いったいどんな人物だったのだろうか。
宗旦研究の歴史
『利根川図志』の著者は、利根川中流の河岸(川の湊)であった下総国布川に住む、一町医者であった。その名を、赤松宗旦義知といった。
この人物に関する本格的な研究は、これまでほとんどなかった。ただ、『利根川図志』との関連で、その解題などの中でとりあげられてきたものが大部分であったが、その研究の歴史を簡単に追ってみよう。
先ず最初に赤松宗旦義知について書かれたものは、昭和十三年一月に出た行方沼東の「『利根川図志』の著者、赤松宗旦義知のこと」であった。これは、布川の赤松宗旦家に残った関係史料を一覧し、遺族の話を聞いて書いたものなので、大筋において当を得たものであった。しかし、中には間違いや不確実な記述も多くみられる。たとえば、義知が文化五年に鈴木友七の三女トヨと結婚したこと(義知は当時三歳の幼児)、俳人小林一茶との交流(一茶が江戸を去って再び関東を訪れなくなったのは文化十四年で、義知は当時十二歳。一茶との交遊は義知の父宗旦恵のことである)、浮世絵に独自の世界を開いて有名な葛飾北斎が、一時期師の怒りにふれ、布川に来て赤松家に寄食し、『利根川図志』の挿絵を描いたということ(北斎は嘉永二年に九十歳で没した。柳田国男が「図志の世に出るより十年も前に、九十で歿した人だから事実に反する」と否定した通りである)、宗旦義知の祖父の時、はるばる播磨の国より布佐の松岡氏と共に印旛沼開拓の用務を帯びて東国に移って来たこと(布川(のち布佐)に移住して来た松岡氏の弟で、この兄の許で少年時代を過した柳田国男は、「是だけは事実で無いことを私が保障する」と強い調子で否定した)、等々である。
同じ昭和十三年の十一月、『利根川図志』が岩波文庫の一冊として世に出たが、この解題を柳田国男が書いた。この解題は名文で、その後『利根川図志』の解題は多く書かれているが、これに比肩するものはいまだに見ることができない。それは、柳田国男が多感な少年時代を布川ですごし、兄松岡氏は同業(医師)の故もあって宗旦義知の聟養子であった宗旦宗伯と親しく、赤松家とは家族ぐるみの交際があったという背景もあろう。それにしても、この解題は一編の文学作品となっており、まれにみる傑作である。また、柳田国男は前述の行方沼東の論文を読んだようで、これを強く意識して書いていることも見のがせない。しかし、この傑作も歴史的事実という視点から厳密に検討すると、幾つかの誤記や思い違い等が見られる。おそらく、柳田国男にとって赤松宗旦は、熟知したあまりにも身近かな存在であったために、歴史事実の客観的な検討が甘くなったためであろう。
この柳田国男の解題に刺激されて、昭和十五年四月布川の町に調査に出張した者がいた。当時「東京市史稿」の編さんに当っていた島田筑波である。彼は布川の町で赤松家を訪ねて関係史料を一覧し、町内を聞き歩き、宗旦義知の墓のある来見寺や羽中の応順寺等を踏査した。その調査報告書である「利根川図志の著者赤松宗旦翁」に於て、柳田国男解題の中の絵師・玉蘭斎貞秀に関する記事が誤りであることを発見し、指摘している。
戦後になって、昭和三十五年四月、筆者は歴史地理学会の見学会で布川の赤松家史料を拝見し、その年七月に友人・後輩と共に再度訪問して赤松磐氏の全面的協力を得て関係史料の仮目録を作成し、史料の筆写・写真撮影を行なったが、史料目録を「歴史地理」誌上に掲載したのみで、調査の成果を発表する機会を得なかった。
それより十数年後の昭和四十八年八月、崙書房より『影印版・利根川図志』が刊行され、その付録として寺田万吉作成の「赤松宗旦(義知)年譜・赤松家系図」が出されたが、これはこれまでの研究成果をふまえず、赤松家に残る関係史料の検討も杜撰で、非常に誤りの多いものであった。しかし、これが戦後でははじめて年譜・系図という形でまとめられたものであり、入手し易かった関係から、この後に出される赤松宗旦関係の書は、これを無批判にとり入れて、寺田氏作成年譜・系図の持つ誤りを長く継承することになるのである。
その後、阿部正路、守屋健輔、津本信博等の各氏により「利根川図志」との関連で赤松宗旦に触れた成果が出されるのであるが、宗旦に関する限り昭和五十年代は、正に年譜・系図に汚染された時代であった。昭和六十年代に入り、拙稿「『利根川図志』の販売と購読者層」、「赤松宗旦・『人物誌』にみる地方文人」が出る。しかしこれは、近世における利根川文化圏形成の一要素としての視点であって、赤松宗旦を正面からとりあげたものではなかった。
赤松家に残されていた関係史料は、その後種々の事情で散佚したが、太田尚一氏の多大の努力により大部分が再び収集されて、利根町歴史民俗資料館に寄託され、昭和六十一年に利根町教育委員会より詳細かつ正確な『赤松宗旦家資料目録』が刊行されて、赤松宗旦に関する本格的な研究の基礎が築かれた。この基礎の上に乗って成されたのが、昭和六十三年よりの拙稿「『利根川図志』の著者・赤松宗旦について」であって、これを中心としてまとめたものが本書である。
なお、本書に引用する史料の中で、所在が明記されていないものは、赤松宗旦家旧蔵文書(利根町歴史民俗資料館寄託等)である。