目次
目 次/カフカース——二つの文明が交差する境界
序 言——文化と文明の交差点としてのカフカース…………………………鈴木 董 7
一 東西の路と南北の路と 8
二 文明と文化の交錯するところ 9
三 オスマン帝国とサファヴィー朝と 10
四 スラヴ系正教徒のロシア人とカフカースと 11
・ オスマン帝国の黒海支配とスラヴ
第1章 帝国のフロンティアとしてのカフカース——一八世紀の帝政ロシアのカフカース進出とオスマン帝国…黛 秋津 17
プロローグ——帝国のせめぎ合う場所 18
一 ピョートル大帝登場以前の帝政ロシアとオスマン帝国 20
二 ピョートル大帝時代のカフカース進出(一八世紀初頭) 26
三 エカテリーナ二世時代のカフカース進出(一八世紀後半) 30
四 一九世紀初頭のカフカース進出 44
エピローグ・・帝政ロシアをカフカースへと駆り立てたもの 51
第2章 忘れられた歴史と二つの系図が交差するところ——アフガニスタンのグルジア人……………………前田弘毅 57
プロローグ——二つの文明の十字路 58
一 グルジア人の統治者 59
二 「国民史」の陥穽 61
三 忘れられた歴史 62
四 ペルシア語史料からみえる「グルジア人の歴史」 63
五 グルジア語史料の記述から 71
エピローグ——歴史に埋もれたグルジア人 79
第3章 知られざる悲劇の歴史と記憶のはざまで——チェルケス人の「大追放」………………………………宮澤栄司 81
一 流刑地で想う、「一八六四年五月二一日」のこと 84
二 帝政ロシアの北西カフカース征服——大国間の駆け引きに翻弄される山岳民族 89
三 チェルケス人の「大追放」・・カオスとなった移住と定住 93
四 競いあう歴史と記憶のはざまで——大追放とハジェレト、二つの物語 101
・ 反グローバリズムの建築空間——アナトリア高原の建築文化
プロローグ…………………………………………………………………………篠野志郎 108
第4章 アルメニア共和国の建築文化——空間のトポロジー………………篠野志郎 113
一 不在の場所、非在の建築 114
二 建築と空間 132
三 東地中海のキリスト教建築 137
四 アルメニア建築空間の架構技術 153
五 地域主義としてのアルメニア建築 170
第5章 図説・アルメニア建築——「多様性」への巡礼……………………藤田康仁 175
一 建築史のフィールドに立つ 176
二 初期(四〜七世紀)のアルメニア建築 178
三 中・後期(九〜一四世紀)のアルメニア建築 197
第6章 アナトリアの覇者——セルジューク王朝の建築文化 ……………守田正志 211
一 アナトリア地域へのイスラーム文化の伝播 212
二 アナトリア・セルジューク建築概要(モスクとマドラサ) 214
三 墓廟建築 219
四 隊商宿——キャラバンサライ 223
五 セルジューク建築空間の特徴 227
六 将来を見据えて 230
第7章 地震工学者の目に映ったアルメニア共和国の建築…………………瀬尾和大 233
一 はじめてのアルメニア訪問 234
二 アルメニアの自然環境 234
三 一九八八年スピタク地震 236
四 歴史遺産としてのアルメニア教会建築 243
五 高層プレキャスト建築の問題点 246
六 今後の展開——文化遺産と現代建築を地震災害から守るには? 247
・ ロシア文学とカフカース
第8章 ロシア文学が「ゆりかご」で見た幻影………………………………木村 崇 255
一 「見るもの」と「見られるもの」のすれ違い 256
二 「野蛮なるアジア」・・イメージ生成のメカニズム 258
三 ドブロリューボフのシャーミル観 267
四 幻影をこえて 276
第9章 ロシアは「曖昧」な帝国か?——ベストゥージェフ=マルリンスキイ『アマラト・ベク』を読む………乗松亨平 283
一 植民地主義への曖昧な「はじまり」 284
二 ロシアの「曖昧」なオリエンタリズム 288
三 ベストゥージェフ=マルリンスキイ 292
四 『アマラト=ベク』のアンビヴァレンス 297
五 アンビヴァレンスは「ロシア的」か 303
第10章 原初への遡行、他者との出会い——二〇世紀ロシア文学のカフカース表象を考える……………………中村唯史 311
一 伝統と時代のはざまで 312
二 原初への遡行(マンデリシターム・一九三〇年) 315
三 他者との出会い(ビートフ・一九六七年) 324
四 まったき他者、消去される他者(マカーニン・一九九五年) 334
結 語 バルト海から黒海へ、スラヴ世界を遍歴する………………………早坂眞理 343
前書きなど
序 言 文化と文明の交差点としてのカフカース
鈴木 董
一 東西の路と南北の路と
ユーラシアの歴史を回顧するとき、人々のまなざしは、自ずと東西軸に向きがちである。確かに遊牧の民の去来した遥か北方の「草原の道」と、そしてシルクロードの異称によってより有名なユーラシア内陸部の南縁をはしる「オアシスの道」は、いずれも東西の延長は一万キロメートルを超え、千古の時空に広がる壮大な歴史のロマンを想起させる。しかし、ユーラシアの歴史において、内陸部とユーラシアの南縁を縁取る沿海部とを結ぶ南北軸もまた、実に東西軸に優るとも劣らぬ重要性を有しているのである。
ユーラシア史上、とりわけ注目に値する南北路は、少なくとも二つある。そのひとつは、中央アジアの東部、今日のタジキスタンあたりからアフガニスタンを通過し、パキスタンの地を経てインド洋に至る道である。この道は、古代にはヘレニズム文明の影響が北インドからガンダーラを経て中央アジアへと至った道であった。近世には、草原の英雄ティムール五代の孫バーブルが中央アジアでの政争に敗れて中央アジアから南下してカーブルを経て北インドに入り、ムガール帝国建設のチャンスを手中にした道でもあった。一九世紀から二○世紀初頭においては、豊穣なるインドを手中の玉とした英国と、インド洋をめざし南下を試みるロシア帝国がしのぎを削った地でもあった。そして、近年には、旧ソ連が国際権力政治の間隙を縫ってアフガニスタンに侵攻した路でもあったし、この危機に対し米国とパキスタンの支援を得てパキスタンで結成されたイスラームの神学生の義勇軍タリバーンが共産主義とロシア人の支配から祖国アフガニスタンを解放すべく攻め登った路でもあった。
いまひとつの南北路は、西に傾きヨーロッパとアジアの狭間を縫う路であった。それは、バルト海からロシア平原、ウクライナ平原を経て黒海を抜け、アジアとヨーロッパとを隔てるボスポラスとダーダネルスの両海峡を経て東地中海へと至る路である。この路は、バルト海に産する琥珀がロシア平原を南下する「琥珀の道」であり、また、ロシアの森林から高貴な黒貂の毛皮が南下してビザンツの皇帝やオスマン帝国のスルタンの手に達する道であったから、「黒貂の道」とも名づけ得よう。
この「琥珀の道」ないしは「黒貂の道」は、正教を奉ずるビザンツ帝国の文明が北上してスラヴ民族の雄ロシア人を感化して取り込んだ道でもあり、ついに正教に帰依したロシア人たちが、コンスタンティノポリス、アトス山、さらにイェルサレムと正教キリスト教徒の聖地の巡礼に赴いた道でもあった。一五世紀末から一八世紀初頭までは、黒海の北岸のクリミア半島に拠ったムスリム化・トルコ化したモンゴル人の国でキプチャク・ハン国の末裔のひとつクリム汗国を通じて、前近代イスラーム世界後半のスンナ派のイスラーム的世界帝国オスマン帝国が北方に影響を及ぼした道でもあった。そして、一七世紀末以降は、ピョートル大帝の西洋化改革以降、力をつけたロシア帝国が、不凍港を手中にすべく黒海、そして東地中海へと南下を試みた路でもあった。
本書のテーマであるカフカース地域は、このバルト海と黒海・東地中海を結ぶ南北路の東よりの一支線上に位置する。
二 文明と文化の交錯するところ
このようなロケーションからして、カフカースは古来、東西南北の諸文明・諸文化の交錯するところ、様々の言語を操る諸民族の去来するところであった。そしてその結果、様々の宗教・宗派、様々の言語、様々の民族に属する人々が互いに入り組んで分布する、宗教・宗派と言語・民族のモザイクのような様相を呈する地域となった。ローマ帝国から東ローマすなわちビザンツ帝国の時代には、その東北方の涯のフロンティアをなし、キリスト教化したローマ、ビザンツの影響下で、カフカースの民のうち黒海東北岸のグルジア人や、カフカース南半からイラン高原西北部、アナトリア東部に広がるアルメニア人の主流は、キリスト教徒となり、ビザンツの文明と文化の強い影響下に入った。それでもアルメニア人は、辺境の民ゆえか、ビザンツ帝国の国教たる正教とは一線を画するアルメニア教会を立ち上げ、その信仰を保ち続けた。アルメニア人の文化的独自性の成立と、カフカースとその周辺諸地域におけるアルメニア人と近隣の諸文化、諸民族との関わりについては、本書第Ⅱ部において篠野論文をはじめとする一連の論考で詳述される。
七世紀中葉から八世紀中葉にかけての「アラブの大征服」によるイスラーム世界の形成後に、カフカースの地はビザンツ世界とイスラーム世界の境界の北端となった。そして、一一世紀に入り、中央アジアからムスリム・トルコ系の遊牧民オグズ族が南下西進したためか、カフカース東北端に位置するダゲスタン人はイスラームを奉ずるに至り、カフカース南半は、ムスリムのアゼリー・テュルク人ないしアゼルバイジャン人の定着するところとなった。こうして、カフカースは、土着の諸民族とアゼリー・テュルク、キリスト教諸派とイスラームのせめぎ合うところと化した。
三 オスマン帝国とサファヴィー朝と
この趨勢の中で、一六世紀に入ると、カフカースの東南縁のアゼルバイジャンで新しい動きが生じた。それは、カスピ海西南岸に近いアルダビールの街を拠点に一五世紀初頭に初めスンナ派イスラームの神秘主義教団として出発したが後にシーア派に転向したサファヴィー教団が、トルコ系遊牧部族の帰依を得て王朝化し、シャー・イスマーイールの指導下、一六世紀初頭にアゼルバイジャンとイラン高原に加えてアナトリア東部にまで広がるシーア派政権、サファヴィー朝が成立したことであった。
このことは、かつてのビザンツ世界の心臓部であった、アナトリア西部・中部とバルカンを拠点とし、ムスリム・トルコ系の人々の立ち上げたスンナ派のオスマン帝国に脅威を感じさせた。オスマン帝国の当時のスルタン、第九代セリム一世は、国内の親シーア派分子を粛清したうえで、一五一四年にサファヴィー朝遠征を敢行した。同年のチャルディラーンの戦いでシャー・イスマーイールのサファヴィー朝軍を大破し、オスマン帝国は対サファヴィー朝戦略上、アナトリア東部に版図を広げるとともに、東南方ではイラクからアラビア半島ペルシア湾岸、東北方では、アゼルバイジャンからグルジアへと勢力圏の拡大に努めた。こうして一六世紀から一七世紀にかけて、カフカース、とりわけその南半は、オスマン帝国とサファヴィー朝の抗争の渦中におかれ、カフカース土着の諸勢力と両王朝との複雑な和戦両様の関係が展開した。この間の事情は、本書第Ⅰ部の前田論文で詳述される。
他方、一六世紀も中葉に入ると、一四五三年におけるビザンツ帝国の消滅にともない、その伝統を継承したことを主張しつつ、ロシア平原で力をつけたモスクワ大公国は、イヴァン雷帝の下でモスクワの東南方への進出もめざし、ヴォルガ川の河川交通を利用しつつ東南方に南下し、まずモスクワとカスピ海との中間に位置するムスリム・トルコ系のカザン・ハン国を征服し、余勢をかってヴォルガ川を南下し、さらにカスピ海西北岸のアストラハン・ハン国をも手中に収め、カフカースに西北方から接近しはじめた。しかし、ロシアのカフカースへのより本格的な接近は一七世紀後半以降のことに属する。
四 スラヴ系正教徒のロシア人とカフカースと
一六世紀から一七世紀にかけてのカフカース情勢はカフカース土着の諸勢力、とりわけグルジア人と、外来の二大勢力、オスマン帝国とサファヴィー朝との綱の引き合いの場として推移していった。しかし、一七世紀も後半に入ると、正教東欧世界の雄としてのロシアの存在感は増大していった。とりわけ一七世紀末以来、ピョートル大帝が、世界の非西欧文化諸世界中、初めて近代西欧モデルの受容による大規模な改革に着手して以来、ロシアは力を蓄え、一七世紀末から、まずカフカースをも支線とする南北軸の西の大道、「黒貂の道」を黒海に向けて南下しはじめた。この南下の動きは、イスラーム世界の超大国オスマン帝国が軍事を中心とする領域での対西欧比較優位を漸次的に喪失するに伴い激化し、一八世紀後半、エカテリーナ二世時代には遂に黒海地域の最大の拠点、クリム・ハン国を失うに至った。
本書第Ⅰ部の黛論文で詳細に論ぜられる、この南北軸の大道におけるロシアの南下の進展は、当然、その支線のひとつたるカフカースにも影響を及ぼすこととなった。実際、一九世紀初頭に入ると、西欧世界に対するイスラーム世界側の技術的・文明的比較優位の喪失の趨勢の中で、ロシア帝国は、カフカースに本格的に進出しはじめた。このカスカースに対する南下は、正教東欧世界とイスラーム世界の東側のフロンティアの状況の大変化をもたらしていった。
と同時に、ロシア人にとっては、それは、新たな異文化体験ともなった。そもそもロシアの一六世紀から一八世紀にかけての東西ヨーロッパ世界の外における拡大は、一六世紀のモスクワ東南方のムスリム系のカザン・ハン国の征服を除けば、ユーラシア北辺のシベリアにおける人口圧も極めて稀薄で高度の文化的・文明的抵抗力をもたぬ狩猟民を中心とする人々の世界の征服に限られていた。それ故、一八世紀末以降の南北軸の本道たる「黒貂の道」上のクリム・ハン国の征服、そして一九世紀初頭以来その支線たるカフカースの征服が、人口圧も相対的に高く、高度の文化的・文明的抵抗力をもつ社会との殆ど初めての対決となった。しかも、とりわけカフカース征服の進行した時期が、ロシアにおける近代的意識の成立期であったことが、カフカースとその征服過程に特別の意味をロシア人にとって与えたのであろう。カフカース征服とカフカースの土着的な人々、とりわけイスラーム世界という異文化世界に属する異民族であるムスリム系のカフカース住民とのかかわりのロシア人側の心象風景は、本書の第Ⅲ部を構成する木村、乗松、中村の各論文の主要テーマとなっている。ただそこでは、同じく異文化世界としてのイスラーム世界に属する人々との出会いの中での異文化体験を持ったに違いない一六世紀後半のカザン征服、一八世紀末のクリム・ハン国併合の際のロシア人側の心象風景との比較ないし対比は、なされていない。この論題にも目配りする時、一九世紀というロシア人の自意識とロシア人の歴史にとっての決定的な転換点における異文化体験としてのカフカース体験の意味がより鮮明に写し出されることとなるであろう。
そしてまた、ロシアによるカフカース征服とカフカース支配という問題に関していえば、むしろロシア人より真の主役たるべきカフカースの人々のこの問題に関する状況と心象風景こそ問われるべきであろう。本書では、この点についても、僅かに本書第Ⅰ部の宮澤論文において、オスマン帝国に亡命したチェルケス人のケースが描かれているにとどまる。
今後、カフカースを中心としつつ、国際関係、社会史、そして比較文化の視点をあわせつつ、そこに生きた人々の関係の実態と心象風景の検討がより長いタイム・スパンの中で、より多面的に展開されるとき、それは、多元社会における異文化接触とその諸結果についてのパイオニア的ケース・ワークとなりうるのではあるまいか。