目次
はじめに
スペイン戦争(内戦)1939.03〜
年表
日中戦争の背景 1928〜
ノモンハンの戦い 1939.5.14〜
コラム①ユダヤ人の迫害
ポーランド戦役 1939.09〜
フィンランド戦争 1939.11〜
コラム②ホロコーストと杉原千畝
ラプラタ河沖海戦—グラーフ・シュペーの最後 1939.12
デンマルク・ノルウェー戦役 1940.04〜
ドイツ軍ベネルクスへ侵攻 1940.05〜
コラム③コマンドウ
フランス降伏 1940.06.22
バトル・オブ・ブリテン—イギリス本土防空戦 1940.08
コラム④戦闘機
ムッソリーニの火遊び 1940.08〜
ドイツ・イタリア、バルカン進出 1940.12
イタリア軍砂漠で敗走 1940.12
ビスマルク撃沈 1941.05
コラム⑤Uボート
バルバロッサ作戦 1941.06
1941〜45年の太平洋戦線
真珠湾攻撃 1941.12.8
マレー攻略戦 1941.12.8〜
香港攻略戦 1941.12.8〜
フィリピン占領・バターン攻略 1941.12.8〜
ビルマ攻略戦 1942.01〜
コラム⑥零戦
オランダ領東インド攻略 1942.02
年表
ドウリトル東京空襲 1942.04.18
珊瑚海海戦 1942.05.07〜08
ミッドウェイ海戦 1942.06.04
砂漠の追撃戦 1942.05〜07
コラム⑦航空母艦
スターリングラード包囲戦 1942.06〜
死闘ガダルカナル 1942.08〜1943.02
エル・アラメインの戦闘 1942.10〜
トーチ作戦 1942.11
モスクワ攻防戦 1942.09〜1943.01
年表
コラム⑧バッジとインシグニア
ビスマルク海海戦 1943.03
ソロモン海の諸島 1943.04
コラム⑨ 戦車
北アフリカの解放 1943.05
クルスク戦車戦 1943.07
シチリア島占領 1943.07
ムッソリーニ失脚 1943.07
コラム⑩ 小火器
イタリア本土戦 1943.09〜1944.06
年表
蛙跳び作戦—マーシャル・ギルバート攻略 1943.11
ノールカップ沖海戦 1943.12
レニングラード解放 1944.01
コラム⑪ジェット機とロケット機
インパールでの蹉跌 1944.03〜07
マリアナ沖海戦—マリアナの失陥 1945.03〜08
ワルシャワ解放まで 1944.06〜1945.01
コラム⑫ 重戦車/自走砲
「オーヴァーロード」作戦—ノルマンディー上陸 1944.06
年表
南フランス上陸作戦 1944.08
パリーは燃えているか? 1944.08
失敗したアルンヘム作戦 1944.09
コラム⑬V1、V2
レイテ攻略作戦 1944.10
バルジの戦い 1944.12〜
ルソン島攻略 1945.01
コラム⑭ 爆撃機
ヤルタ会談 1945.02
ドレスデン大空襲 1945.02
硫黄島 1945.02
コラム⑮神風特別攻撃隊
沖縄戦そして「大和」の最後 1945.04
ベルリン陥落・ドイツ降伏 1945.05
ソ連軍の参戦 1945.06
ポツダム会談と宣言 1945.07〜08
広島・長崎への原爆投下 1945.08
日本の降伏調印 1945.09
そして戦争は終わったが…
あとがき
参考および引用文献
前書きなど
郵便切手は近代的な郵便事業の産物であり飛脚の時代には無かった文物である。
初期の郵便切手は料金前納のプリペイド・スタンプであり、そのデザインは、数字、国王の肖像、紋章がほとんどであったが、新独立国や植民地ではもっと具体的で代表的な建造物、風景が採用されるようになり、好奇心を感じた人たちが切手を集めるようになった。
このことは、明治四年(一八七二)に日本が郵便切手を発行するというニュースが英国の切手収集者向け情報紙に掲載されたことからも知ることができる。
切手そのものがPRやプロパガンダの媒体となるのに時間はかからなかった。なぜなら、切手の発行数はどれほど少数であっても数万枚、郵便需要の多い国では億を超えており、わずか四平方センチ足らずの表面に表現された情報とはいえ、全地球的に広がる、インターネット以前には切手のみが持つ媒体力があったからだ。
今でこそ郵便の民営化が先進国に広がりつつあるが、かつては重要な国営事業であり、いまだ国営事業である国がほとんどである。必然的にその国の政治、歴史、文化が切手に反映されることとなり、国家のプロパガンダ媒体となっていったことを物語っている。
それをいち早く採用したのがソ連で、レーニン、労働者、農民、兵士、工業化、農業の機械や電化など、革命の成果を次々に方寸の紙上へ表現し、社会主義の優位性を宣伝したのだった。ナチス・ドイツも十年間にナチ思想の宣伝、領土の奪還など多くの切手を発行した。この傾向は独・ソ共に第二次世界大戦に関する切手へと継続されて行くことになった。
こうしてプリペイド証紙としての切手に宣伝媒体としての役割が生じ、大戦後には収入源としての機能が発見された。
その発端といえるのが、モナコ公のレイニエ三世とハリウッドスターのグレイス・ケリーの結婚式である。全世界のマスコミがこの世紀のイベントをとり上げたが、観光(カジノ、高級ホテル)の収入だけでは結婚式の経費は不足するため、夫妻の結婚記念切手を発行して、かかった費用のほとんどを賄ったということも大きく報道された。
これによって、それまでにも人気のあった夏期、冬期オリンピック、自動車、自転車、サッカーなどの国際試合、有名な絵画と画家、花、動物、宇宙などのテーマ切手をセットで発行して、世界の切手収集者やにわかマニアへ販売する動きが盛んになった。
つまり、外国へ売ってしまえば、それ持ち込んで使用されることがなく、額面全額が負債とならないこと、自国にデザイン、印刷、販売の機能を持たなくても、それらを企画するエイジェントが一切をやってくれるので、ほとんど手間がかからないこと、などが主な理由である。
そのため、オリンピックに参加しなくてもその記念切手を発行したり、ディズニーのキャラクター、マリリン・モンロー、ビートルズ、葛飾北斎や安藤広重の版画などが発行販売されて、国庫を潤している。
それは第二次世界大戦(WWⅡ)に関する切手も同様で、当時国として存在しなかったマーシャルやパプアニューギニアがこのテーマの切手を発行しているが、それはまだその国の歴史として認められる。
しかし、当時は国として存在もしないし、戦闘もなかったアフリカや中南米諸国でも多くの切手を発行していることは、本書をご覧になれば一目瞭然である。
切手収集用語で軍事切手という場合は「軍人が出す郵便に貼る切手」を意味し、それは必ずしも軍人や兵器といった軍事に関する図であるとは限らない。また、軍事・戦争をテーマとして切手展覧会に出す場合には、はがき、封筒、消印、文書などの分件によって構成することがよく行われている。
しかし、筆者はあくまで「切手の印面に戦争、兵器、軍事的な図案が画かれている切手」の収集をしているため、八月六日の広島局印を押したはがきや、九月二日のアメリカ戦艦ミズーリの消印を押した米水兵の差出した封筒などは割愛した。
郵便切手によってWWⅡを物語るといっても①戦時中に発行された②戦後当事国(戦場となった地域を含む)で発行された③その他の国で発行された、切手がある。
①は非常に少なく当事国といえども、戦時中のため切手の発行どころではないケースが多い。
②は戦時国およびその植民地や被占領国が独立してから発行するケースが多い。しかし戦争というエネルギーの消耗は、三〇年たっても解消されず、五〇周年になってやっと大量発行されるようになった。特に敗戦国では国内、国際的にその責任の取り方などにコンセンサスを得ることが難しいのか控え目にオズオズと発行している感がある。
特にユダヤ人虐殺(ホロコースト)や原爆投下については、完全に決着して、すべてが清算済みとはいえない。とりわけ米の原爆投下切手が日本の反対によって発行中止になったことがそれを物語っている。
③については、国庫収入のためならどんな切手でも発行するという方針である以上、なんともコメントのしようがない。あえて言えば、敗戦国ではできない戦闘や武器の切手を発行してくれていることに意義があり、収集者としては、切手という歴史資料に記録されていることに感謝しなければならないであろう。それでなければ、WWⅡ五〇周年切手の発行点数が約一七〇〇種にもなることはなかったのだから。
しかし、歴史資料としてWWⅡのすべてのシーンが切手に見られるかというとそれは困難である。
それは、第一に企画・発行者が消費者の関心のあるテーマを選ぶからで、バトル・オブ・ブリテン、ノルマンディー上陸作戦と真珠湾攻撃をテーマとしたものが非常に多い。第二にはWWⅡが国の存続に重い足跡を残し、しかもその後の政権が歴史教育や収入に役に立つとして多くの切手を発行しているポーランドやフィリピンにその例が見られる。
したがって多発行されているものについては、ビジュアル的に優れていても制限せざるを得なかった。反対に日中戦争については、日本が切手の媒体力を認識していなかったためと戦後は政治的な理由で——これはドイツも似たような事情があるが、発行できず、中国や台湾発行の切手があるにすぎない。またマレー(マレーシア)、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)もほとんど無い。
切手がビジュアルな広報・宣伝媒体という性格をもつ以上、宣伝画的な感があることはいなめない。しかしその反面、圧政者の意志、反逆者の闘魂、被災者の悲しみ、栄誉、失望、友情、解放の笑顔などさまざまな喜怒哀楽や普通の生活の大切さなどを感じ取っていただければ幸いである。