紹介
ミナマタ:ジェノサイドから「存在」の現れへ
九州の不知火海全域を巻き込んだ水俣病が1956年に公式確認されてから来年で半世紀になろうとしています。昨年10月に「水俣病関西訴訟」の最高裁の判決が出ましたが、その後未認定の水俣病者から認定申請が相次いでおり、水俣病はまだ終わっていません。
本書はこの水俣病の50年の歴史をふまえつつ、この問題を戦後日本の政治構造のなかに位置づけようという画期的な試みです。フーコー以来、近代社会における〈生政治〉が指摘されてきましたが、近年では、ジョルジョ・アガンベンによって〈剥き出しの生〉として形象化されています。不知火海全域で10万~30万ともいわれる発症は、アウシュヴィッツ、ヒロシマ、ナガサキにならぶミナマタというジェノサイドで、まさに〈生政治的現実〉です。この現実を生き抜いてきた一人の漁師の極限思考から、著者は「存在」が現れる「新しい人間像」を描いていきます。法理から言えば、チッソと行政の「加害責任」は問わなければならない。しかし、人間のこととしての水俣病という地平に立つとき、加害と被害の別は溶け合って灰色の領域を構成する。この出口なしの八方塞りのグレイゾーンに踏みとどまって、これを内破する身体の運動こそが「新しい人間」としての生を踏み出すことができる。他者を支配する権力位置を離脱して、あるがままの人間として肩を並べて加害と被害のグレイゾーンを突破していく企て:「課題責任」。ここに〈生政治〉を乗り越える可能性を見出しています。
目次
序にかえて 新作能「不知火」を観て
Ⅰ「存在の現れ」の政治━水俣病という思想
1.「さまよいの旗」から
2.自己決定の政治
3.代行政治とグレイゾーン
4.あなたが存在して欲しい
5.存在の現れの政治
6.「私たち」が変わる
7.「またあしたね」
Ⅱ水俣病という身体━風景のざわめきの政治学
1.「水俣病がある」風景/Mの身体
2.Mの初原の風景
3.不在の風景
4.「清くさやけき水俣」/煙はこもる町の空
5.植民地朝鮮・興南の風景
6.親密性と公共性の風景
7.苦海・発生の風景
8.政治病の風景
9.市民社会・差別の風景
10.表象の政治/代理身体
11.水際へ
Ⅲ市民は政治の地平をどのように生きたか
はじめに━市民的な判断力への離陸と着地
1.「市民的政治」の形成
2.生活政治の展開
3.「人間の政治」の現れ
4.住民運動・エゴイズムの肯定
5.公共性の逆構造転換
6.環境政治の展開
7.共同性・親密性の政治社会学
8.アソシエーション・生活共同組合
9.ボランティア・市民活動・NPO
10.地球市場化と市民政治
11.新しい親密圏から公共圏を直立させよ
おわりに━響きあう二つのエッジ
Ⅳ人間の再生と共生へ━水俣病は終わっていない
1.祈りと記憶━水俣・東京展の意味
行政責任ということ
素顔(ヴィサージュ)で立つ
患者の本当の声
重層的な繋がり
2.アウシュヴィッツ、ヒロシマ、ミナマタ━水俣病公式公認から四〇年
海からのジェノサイド水俣病
人間存在の代替不可能性
「すべての生命の幸福」に立つ━公共性の逆構造転換
3.法理と倫理の新しい関係を求めて━水俣病展に映るもの
魂起こしとしての前夜祭
遺影に見られること
「存在の現れ」の政治━法理と倫理の新しい関係