目次
はじめに
第一章 境界としての桂川
桂川が隔て、結んだもの
一、古代
葛野の開発
葛野大堰
松尾大社
月読神社
櫟谷宗像神社、大井神社
法輪寺と空海
伏見稲荷と秦氏
石清水八幡宮と秦氏
上賀茂・下鴨神社と秦氏
木嶋坐天照御魂神社
二、中世~近世
用水指図
「御庄」とは?
土一揆と起請文
隔てつつ結ぶ
三、「桂男」、「桂女」をめぐって
「桂」という地名
桂男
桂の樹に倚る月神
桂女
桂女像の転換
近世の桂女
近代の桂女
四、近現代の桂川
保津川下り
水害と河道整備
堤外地(河川敷)の利用
桂川河川敷の農地
流作地の拡がり
都市近郊空間としての流作地
近代の河川管理と桂川堤外地
時代を映す堤外地風景
未来に向けて
五、京都の坤境界としての桂川
第二章 桂川に南面する吉祥院
一、吉祥院天満宮近辺
吉祥天女社と天満宮
吉祥院六斎念仏踊り
二、南條――吉祥院菅原町近辺
『雍州府志』にみる小島
喜田貞吉の小島村考
検非違使とキヨメ
小島村の草場
牛馬吟味
近代の南條
在日朝鮮人の集住
南條の六斎講
六斎念仏講の衰退と菅原講での継承
菅原講の危機と再建
運動のリニューアル、学校との連携
地域活動のネットワーク化
境界からの発信
三、西條――吉祥院西ノ茶屋町近辺
西條茶屋
陽泉亭
日向地蔵と日向大神宮
日向地蔵の受難と再生
日向地蔵再びの危機
八九年ぶりの新築
大乗仏典塔の発掘調査
自前の水
第三章 桂川に北面する久世
一、久世大築町近辺
清目の田畑
清目の暮らし
近世舁揚村の動向
舁揚村の近代
久世の米騒動
大藪水平社
久世結婚差別事件
一斗缶の便所
新川からニューリバーへ
二、久世殿城町近辺
岩倉と久世
癲狂院一件
廃仏毀釈と大日堂
廃仏毀釈と癲狂院
大日堂と下久世村
善定の行方
三、久世上久世町近辺
蔵王堂
久世六斎念仏
綾戸社と国中社
駒形稚児
少将井駒形神人
駒頭の行方
上久世村としての供奉
終章 「坤の境界」が持つ意味
一、地理的周縁と身分的周縁
二、癒し、再生の場としての周縁
三、中心による周縁の位置付け
駒形の移動
祇園社の氏子圏
周縁による中心の「逆定言」
四、都市・京都の中心と周縁
五、おわりに
坤境界の変容
坤境界の特性
あとがき
前書きなど
はじめに
日本民俗学の祖・柳田國男は、『山島民譚集(二)』の四四「逆さ杉」に次のように記しています。
「杉は直なる木であるからスギだという説は正しいであろうが、スキという語は同時に土地の境の意味もある。境を単にサカと云ふことは、阪道祖、阪迎、阪戸等の例多く、阪即ち傾斜道路をサカと云ふもの其始は境の義から轉じたのである。」
阪=坂(サカ)は、元々傾斜道路だけでなく、「境」=境界一般を指す語だったというのです。
このように「坂」を広義の「境界」と捉えるならば、京都盆地周辺の坂は、筆者が前著『京都の坂――洛中と洛外の「境界」をめぐる』(二〇一六年一〇月、明石書店刊)で取り上げた清水坂、狐坂、長坂、逢坂のような山麓の坂だけでなく、盆地南部・南西部にもあると見なければなりません。
坂=境と見れば、それは傾斜した道路―坂道だけではなく、「平坦な坂」もあるはずです。京都盆地は南方が開けていて、桂川・宇治川・木津川の三川が合流して淀川になる淀・山崎のあたりは、昔から京都への出入り口とされてきました。この付近から京都の中心部へ向かう経路は、淀(納所)・草津から北へ伸びて東寺口(平安京の羅城門)に至る「鳥羽作道」という古道と、桂川右岸を北上して久世で渡河し、吉祥院を経て東寺口に向かう西国道が主なものでした。また、丹波方面から京都に向かう山陰道は、亀岡から老ノ坂を越え、樫原宿を経由して現桂大橋地先で桂川を渡りました。
その桂川は、亀岡盆地から保津峡の狭隘を抜け、嵐山付近で京都盆地に出て、以後は東南流して鴨川を合わせた後、南―西南流して大山崎の三川合流点に至ります。ということは、京都中心部から坤(ひつじさる―南西)~酉(とり―西)方面へ向かう際にはどこかで桂川にぶつかるので、その先に行く必要があれば渡河しなければなりません。同方向の盆地外部や周縁から京都中心部に向かう際には、桂川の渡河は必須です。
今は、桂川は自動車道や鉄道(JR、阪急線)の橋でそれと意識せずとも短時間で渡ってしまいますが、古代~近世には橋は数も少なくかつ不安定だったため、渡し舟や浅瀬の徒渉によって渡るしかない場合もありました。京都から出る時も、京都に入る時も、桂川は意識的に越えなければならない境界線だったのです。
桂川を挟む左右両岸の地は、大河・桂川によって分かたれていることによる異質性もありますが、それよりも「桂川沿い」という同質性の方が強く、桂川とその両岸地域という「ゾーンとしての境界」を形成していると思います。この境界ゾーンを、以下「京の坤境界」と呼ぶことにします。
本書では以上に記したような視点から、まず境界としての桂川の歴史を古代から近現代まで跡づけます。その後、桂川の古くからの渡河点である久世橋地先の左右両岸に位置する集落―吉祥院と久世―についても古代から現代に至る歴史を個別・詳細に見ていきます。
それぞれの集落が「境界の集落」としてどのような変遷を辿ったかを見ることにより、第一章と併せて桂川を挟む帯状の地帯――京都の坤境界の歴史と現在が浮び上ってくるのではないでしょうか。また、坤境界の動向は、多かれ少なかれ京都中心部の動向と関連しているので、坤境界の歴史と現在には、京都中心部の歴史と現在が投影されているといえます。その意味で、本書は前著『京都の坂』に引き続き「境界からの京都論」として、記していきたいと思います。