目次
はしがき
第1章 文化資本を考える
1 外国の文化を知る
2 日本の文学を考える
3 海外の文学作品から文化資本を獲得した個人の体験
4 文化資本とは
5 文化資本をもっと知る
6 親の文化資本
7 生涯学習と文化資本
8 生涯学習のねらい
9 農村共同体の文化を再考する
10 現代社会に関心が薄い市民
11 さまよう日本社会と文化資本
12 文化資本と資産選好
13 子どもの頃のいろいろな文化資本
14 家族の文化の再生産
第2章 リベラルアーツを考える
1 リベラルアーツとは
2 小説の神様・志賀直哉とリベラルアーツ
3 文化資本の分類とリベラルアーツ
第3章 教科書について考えてみよう
1 ふつうの市民から見た教科書
2 教科書は膨大な時間とお金がかかっている
3 なぜ教科書は嫌われるのか
第4章 生きていくための土台になる教養
1 小学校の学びと生きる力
2 小学校で学ぶ国語
3 小学校で学ぶ算数
4 小学校で学ぶロジカルな発想
5 小学校の社会科
6 小学校の理科
第5章 幸せ度をアップする中学の国語と数学
1 中学で学ぶ国語
2 中学で学ぶ数学
3 数学とリベラルアーツ
4 中学で学ぶ数学のカリキュラムを精査する
第6章 生活力がアップする中学社会科
1 中学で学ぶ歴史
2 中学で学ぶ地理
3 中学で学ぶ公民
第7章 仕事力がアップする中学理科
1 理科の学びとリベラルアーツ
2 中1で学ぶ理科
3 中2で学ぶ理科
4 中3で学ぶ理科
第8章 グローバル化した社会での英語
1 全体の概要
2 中1で学ぶ英語
3 中2で学ぶ英語
4 中3で学ぶ英語
5 英語を活用する場面を考える
6 英語とリベラルアーツ
終章 文化資本とリベラルアーツでコミュニティを
1 文化とは
2 日本の文化と立居振舞
3 文化資本とは
4 社会関係資本とは
5 これからの社会関係資本とつながり
6 リベラルアーツで分断化した社会を修復する
補論1 日本経済をよく知るための4冊
1 『日本の分断』(吉川徹,光文社新書、2018年)
2 『平成時代』(吉見俊哉,岩波新書、2019年)
3 『平成経済衰退の本質』(金子勝,岩波新書、2019年)
4 『資本主義の方程式』(小野善康,中公新書、2022年)
補論2 「令和の日本型学校」答申を冷静に読み解く
1 「令和の日本型学校」答申(2021年1月26日)の概略
2 STEAM教育とは
3 Society5.0を考える
4 AI時代の文化資本とは
あとがき
索引
前書きなど
はしがき
昭和から平成という時代に入ってから、日本では社会問題が山積し、生活に影響を与える危機も定期的に起こっている。
1980年代後半はバブル経済絶頂期で、1991年はソビエトが崩壊した頃にバブルが弾け、金融危機がひたひたと迫っていた。1990年代は東西のイディオロギー闘争が終焉し、労働者を解放するはずだった平等社会を目指す「計画経済社会」は頓挫した。アダム・スミスの言う、見えざる手を借りて生産と消費を規制なく自由に活動できる、資本主義社会だけが存続することになって、30年以上が経過しようとしている。
(…中略…)
海外に目を移せば、二酸化炭素(CO2)による地球温暖化の問題、有限な化石燃料の不安定な提供、食糧生産と人口増加とからんだ貧困の問題などが山積している。富める国とそうでない国の南北問題、発展途上国間の南南問題は、国内の格差だけでなく、国と国との間の経済格差の社会問題である。また現在も地球上のどこかで紛争や戦争が生じている。
このような日本国内及び海外で、我々人類が直面する危機的な状況が続いていると、多くの国の市民や知識人や指導者的立場の人は思っている。それを解決する手段のひとつが「教育」であるという考えのもとでOECD(経済協力開発機構)が本腰で「教育」の分野への提言を続けている。
私も「教育」が危機を回避するキーワードであると考えているが、この用語は一般の市民には大変受けがよくない。「また教育か……。もう学校卒業したから関係ないよ!」、と教育関係者以外の方は思うのではないだろうか。それは「教育」という営みが常に試験や受験という呪縛から解き放されないからであろう。
このような議論の時、我々は今まで教育の内容について真剣に検討してこなかったのではないだろうか。このような疑問が常に頭を過っていたので、私なりに「文化」「文化資本」「リベラルアーツ」「社会関係資本」という4つの用語をキーワードに、学びの内容を、具体例とロジカルな方法でグイグイ迫っていこうとしているのが本書である。
自然科学系・社会科学系を問わず、何かを解決しようと思ったら、何らかの「知識」が必要であることは言うまでもない。日本で生活していくために必要なものも含め、主に小・中学校で様々な「知識」を得ることになっている。それらの「知識」が多量に蓄積されていくと、それは「文化」となり、その「文化」を活用することによって「文化資本」になる。活用しなければそれは単なる特権階級の「教養」に過ぎない、そういう立場で論を進めている。
学校教育がうまく機能せず多数の市民の「知識」が少なかった場合を想定してみよう。このような社会では一部の特権階級が「知識」を独占している可能性が高い。知識が豊富なカリスマ的なリーダーのもと発展途上の国では、一般の市民が追随して発展してきたことは、世界の歴史を見れば明らかであろう。ギリシャ・ローマの頃の7科の学問を「リベラルアーツ」と呼んだのは、その最たるものである。一部の指導的立場の人の学問であり教養であることは、この用語を思い出せば、だれでもが納得するのではないか。
このような構図になるのは、多数派の市民の「知識」が不足しているため、世の中に関心を持たない市民が多い状態になっているとも解釈できる。
一方、多数の人が「知識」を重視する社会での役割を現代の日本を例として検証してみることにしよう。知識を豊富にすると高学歴を獲得する確率は高くなる。ピエール・ブルデューの言葉を借りれば他の人との差異化(ディスタンクシオン)のための「文化資本」となるが、象徴的価値に近い「文化資本」であるから、他の人のために役立つとか自分の利益になる知識ではなさそうだ。マウントを取るために、高学歴を得るための勉強であり、社会との「つながり・連帯感」は意識していない。またそのような市民社会では、知識や文化を独占しようとして、何らかの組織のリーダーになろうとする人も出てくる。他の市民よりもたくさんの知識を独占しようとする熾烈な競争を展開すると、それは格差を通り過ぎ、分断化した社会へと突き進むことは明らかである。これは今までの「知識」や「文化資本」は、特権階級のリベラルアーツであるとの思い込みから生じる現象ではないだろうか。
しかし今日本は成熟した経済であり、耐久消費財よりも、サービスを中心とした文化・芸術・スポーツを楽しむ市民が多くなってきた社会とも言える。物を買うよりもサービスを消費する行動は、文化資本の多寡によって左右されるのではないか。このような社会では、世の中の動きに機敏な一般庶民のための「リベラルアーツ」があってもよいのではないだろうか。ギリシャ・ローマ時代とは違うふつうの市民が社会参加をするのが議会制民主主義の大前提ではないか。成熟経済の社会だからこそ、余裕をもって市民社会を形成していくことが可能である。そのキーワードは「文化資本」であり、人と人とのつながりをふやす「社会関係資本」である。それらの「文化資本」は、特権階級ではなく一般庶民の「リベラルアーツ」ととらえ直すと、混迷した社会を打開できる光を見ることができるのではないだろうか。その「文化資本」や「リベラルアーツ」の素になっているのは、中学で学ぶ5教科(社会科・理科・国語・数学・英語)であることが、第5章から第8章を読んでいただければ、納得していただけるのではないだろうか。
(…後略…)