目次
はじめに
第1章 伝わらないことの快楽――映画『ロスト・イン・トランスレーション』から観光経験について考える[須藤廣]
第2章 観光の加速主義・宣言――あるいは逃走のマジカル・ミステリー・ツアー[遠藤英樹]
第3章 スードウ・エンドの観光社会学――「一九八三年のエドガー」から考える[山口誠]
第4章 ウォルトがディズニーランドからいなくなる日――融解・流動化するTDRのテーマ性[新井克弥]
第5章 旅先の「相乗り」とコミューン・ツーリズムの両義性――恋愛観察バラエティ『あいのり』に見る旅先の共同性から[鍋倉咲希]
第6章 イメージどおりを確認されること/演じること――浦和レッズサポーターによるアウェイ観戦旅行へのまなざし[鈴木涼太郎]
第7章 「港町横浜」の観光的リアリティ――アニメ映画『コクリコ坂から』を通じて[堀野正人]
第8章 『めがね』を通して旅を見る――「自由」と「たそがれる」にピントを合わせて[神田孝治]
第9章 困難な観光――モビリティに課せられた「複数的現実」と「他者性」について[山本朋人]
第10章 リゾート法がもたらしたもの――雑誌『公害研究』掲載の論考から[千住一]
第11章 観光の「ユートピア」、観光の「ヘテロトピア」――メディアと観光の連関に見る現代社会の見当識(の可能性)[濱野健]
第12章 『ゴールデンカムイ』とアイヌ観光――北海道平取町二風谷の事例から[須永和博]
第13章 トラベル・ライティングが生み出す観光的想像力――ウィルフレッド・セシガーが描き出す観光的リアリティのコネクティビティ[安田慎]
第14章 映画の偶景/偶景の映画――『インド夜想曲』におけるガイドブック表象を手がかりに[松本健太郎]
第15章 パリの墓地を歩く――幾重もの疑似イベントをめぐる観光社会学[高岡文章]
おわりに
前書きなど
はじめに
(…前略…)
『観光化する社会』の公刊後も数々の論考を発表し、学会や大学院などで後進の育成に力を尽くしてきた須藤は、観光を私的で個人的な消費活動とも、また純粋でロマンティックな創造行為ともみなさない。観光は、自由に、あるいは任意に世界を構築できるわけではない。むしろ須藤がときにシニカルに、ときに期待と愛情をこめてクリティカルに論じてきたように、観光とは資本や権力、収奪や無理解などがさまざまに交錯する、両義的で複合的な社会行為である。
言い換えれば観光には、つねに両義性が作用し、虚構性、偶然性、他者性などがかかわり、そして覚醒と幻覚が併存している。観光をすればするほど、新たな発見や初めての体験から遠く離れていき、自由な逃避は不自由な惰性になっていき、非日常は日常化されていくことがある。観光こそが共同体を疲弊させ、資本を暴走させ、他者や外部を収奪することもある。やはり観光は近代社会の「場」であり、近代性そのものが具現化した出来事なのだろう。
この「観光化する社会」、すなわち「スードウ・ワールド」において、われわれは何を欲して観光することをやめず、さまざまに続けているのだろうか。いったい観光は、われわれに何を与え、何を奪ってきたのだろうか。そして世界をつくりだす作用と世界を解体する反作用をあわせもつ観光の両義性は、われわれをどこへ連れて行くのだろうか。
本書は、かつて『観光社会学』を著した須藤と遠藤のもと、そして同書を世に送り出した出版社のもと、その学術的影響を直接・間接に受けた研究者たちが集い、われわれの時代の観光をめぐる問いを継承して、新たな地平へと接続するための試みである。
ここでは、すべてを一網打尽に説明し尽くす概念や理論枠組みを求める道ではなく、須藤と遠藤が歩んできた道に倣ならい、次の方法で各章のテーマを探究することに努めた。すなわち(一)過度な一般化を避けるため、個別で具体的なメディア表現(映画、小説、音楽、ゲームなど)とそれに関係する観光の事例を取り上げ、(二)そこに観察できる「スードウ・ワールド」あるいは「観光化する社会」の生成のプロセスを考察することで、(三)観光とは何か、そして観光を研究することとは何か、について、(四)「私」という、やはり個別で具体的な地点から文脈的に問う、という道である。
そうして本書は、一五の章から現代社会の観光の事例とその生成を考え、観光社会学の新たな地平をまなざすことを試みる。このたび定年を迎えて大学を離れ、さらに自由に移動できるようになった須藤廣が、これまで学会の研究発表や質疑応答で、または講義や講演で、ときには旅先や、宴席や、帰りの列車で、さまざまに口ずさんできた、あの言葉とともに――たかが観光、されど観光。