目次
序論
第1章 二足歩行の雄牛狩り
第2章 ニムロド、あるいは狩人の主権
第3章 伝染病にかかった羊と狼男
第4章 先住民狩り
第5章 黒人狩り
第6章 狩る者と狩られる者の弁証法
第7章 貧民狩り
第8章 警察による狩り
第9章 狩りをする群れとリンチ
第10章 外国人狩り
第11章 ユダヤ人狩り
第12章 不法者狩り
結論
追記
訳者解題/訳者解題 注
原注
前書きなど
序論
一五世紀フランス、奇妙な狩りがアンボワーズの庭園でおこなわれた。「おぞましいことに、人間を狩る悦びを知っていた」ルイ一一世は、罪人に「殺したばかりの鹿の皮」をかぶせて追い立てるという挙行に出たのだ。庭園内に放たれ、王が飼っていた猟犬の群れにすぐに捕まったこの罪人は、「犬に引き裂かれ」、こと切れた。
人間狩りの歴史を書くことは、支配者たちの暴力に関する長きにわたる歴史の一節を書くということである。それは、支配関係の確立と再生産に不可欠である捕食技術論をめぐる歴史を書くことなのだ。
本書では、人間狩りを隠喩として理解してはならない。人間狩りは、人間存在が狩りというかたちで突如引きずりだされ、追い回され、捕まえられ、殺されるという具体的に過去に起こった出来事を指し示す。それは規則的に実施され、またしばしば大規模に実施されるものである。その最初の形態は、古代ギリシアで理論化され、その後、近世以降、環大西洋資本主義の発展に応じて驚くべき飛躍を遂げた。
狩りとは、「狩る行為、追いかける行為」、つまり「とりわけ動物を追いかけること」として定義される。しかし、狩ることは、「暴力的に外に追いやること、何らかの場所から外に出るように強制し、従わせること」をも意味する。追跡する狩りと追放する狩りがある。捕まえる狩りと排除する狩りがある。二つの活動は区別されるが、しかし補完的関係として結びつけられる。つまり、人間を狩り追い回すことはしばしば、その人間があらかじめ公共の領域から追い立てられ、追放ないしは排除されていることを前提とする。どんな狩りも被食者に関する理論を伴う。その理論が、なぜ、あるいはいかなる違いや区別によって、あるものが狩られ、別のものは狩られないかを説明するのである。それゆえ人間狩りの歴史は、追跡技術や捕獲技術の歴史によってのみ作り出されるのではない。それは、人間共同体のなかで狩ることができる人間を規定するための排除に関する手続きの歴史、つまりそこで引かれる境界線の歴史によってもまた作り出されるのである。
それでも狩る者の勝利―とその喜び―は、もし狩られる者が実際に人間でなければ、つまらないものともなってしまう。社会的に上位にあるというだけでなくその絶対的な証明でもある優越感は、人間であって、動物ではないとわかっている存在を狩ることに由来する。というのも、バルザックが本書の原則にもなる定式のなかで書くように、「人間狩りは、人間と動物とのあいだに隔たりがある他の狩りよりも優れている」からである。したがって人間狩りには、この隔たりが承認される必要がある一方で、否定されてもいる。それこそが人間狩りに固有の挑戦である。つまり、狩られる人間と動物としての獲物にある隔たりは、理論的ではなく実践的に、捕獲や処刑を実行することによって解消されることになる。それゆえ、暗黙のうちに獲物に人間性を認めながらも実際にはその人間性を度外視することが、人間狩りを構成する二つの相反する態度なのである。
ここに動物化があるとすれば、それはおそらくハンナ・アーレントが次のように書く意味においてである。「人間というのは、ヒト科の動物の一個体になってしまわない限り完全に支配されることはありえないのだ」。それゆえ、到達するのが難しい領域である全体的支配というのは、「人間」ではなくなるという意味での人間存在の動物化ではなく、人間性が人間の動物性に切り縮められる段階を経る。この動物性は、つねにその怖るべき可能性を秘めつづけているのだ。
主要な問題は、狩る者と狩られる者が異なる種に属していないことにある。捕食者と被食者の区別は、自然本性のうちに書き込まれていない以上、狩る者と狩られる者との関係が、それぞれの立場の反転から免れているわけでもない。ときには被食者が結集して、狩る者となる番が来る。権力の歴史はこうした反転に向けた闘いの歴史でもあるのだ。