目次
序章 研究の課題と先行研究の検討
第1節 研究の課題
第2節 先行研究の検討
1.日本におけるメディア教育、メディア・リテラシー研究の特徴
2.バッキンガムのメディア教育理論を批判する先行研究
3.教育実践におけるバッキンガムの「有効性」を検討する先行研究
4.カルチュラル・スタディーズの延長上にバッキンガムを位置づける先行研究
5.先行研究のまとめと本研究の意義
第3節 各章の概要
第1章 イギリスのメディア教育におけるバッキンガムの位置
第1節 バッキンガムの立場とイギリスにおけるメディア教育の特徴
第2節 イギリス文化/労働者階級の文化を保護するメディア教育論
1.イギリス文化を保護するメディア教育――リーヴィス
2.リテラシーの必要性と労働者階級の文化――D.トムソン、ホガート
3.保護主義をこえて
第3節 メディア教育を取り巻く1980年代、1990年代の政治的・文化的状況
1.メディア環境の変化と対抗文化
2.サッチャリズムとメディア教育のカリキュラム化
第4節 バッキンガムによる参加型メディア教育の歴史的位置づけ
小括
第2章 メディアの教材利用と文化形成の連続性
第1節 初期ホールの理論的立場――「ポピュラー芸術」運動へ至る経緯
1.ジャマイカ時代、オックスフォード時代
2.ニュー・レフト運動から「ポピュラー芸術」運動へ
第2節 「ポピュラー芸術」運動の歴史的な位置づけ
1.文化の識別――リーヴィス、D.トムソン、ホガートとの連続性
2.文化の識別をこえて――1960年代の中の「ポピュラー芸術」運動
第3節 ウィリアムズとホール
1.ウィリアムズとホールの共通点――「感情構造」という概念をめぐって
2.ウィリアムズとホールの相違点――コード概念をめぐって
3.二つの「エンコーディング/デコーディング」モデルの差異
第4節 批判的なメディア利用へ向けて
1.二つの「エンコーディング/デコーディング」モデルのあいだ
2.対抗文化における批判的なメディア利用
小括
第3章 バッキンガムにおける抑圧/自律の二元論とその学校教育論としての可能性
第1節 バッキンガム・マスターマン論争
1.バッキンガム・マスターマン論争の基本枠組み
2. 特性論と関係論の混在
第2節 学校教育論への応用
1.学校教育論のスタンス
2.メディア制作の教育実践――ポピュラー音楽の広告を制作する
3.二元論の社会的条件
第3節 二元論の両義性
1.バッキンガムの両義性とマスターマンの両義性
2.「解放」から「参加」へ
小括
第4章 メディアの拘束に対する抵抗可能性
第1節 参加型文化論とメディア教育――ジェンキンスとの比較
1.メディア教育に求められる能力
2.社会的スキルとしてのメディア・リテラシー
第2節 バッキンガムの着眼点とメディア制作の教育
1.イデオロギーから関係へ
2.メディア制作の教育実践――アイデンティティ・ポスターの制作
第3節 教育哲学におけるメディア概念――今井康雄を中心に
1.メディア概念の拡大による教育行為の再解釈
2.コミュニケーション・メディアというメディア概念の可能性
第4節 (マス)メディア内存在の生徒によるメディア教育
1.振り返りの不可能性
2.不均衡な制度的関係
3.制度への介入
小括
第5章 参加型メディア教育の政治的展開――イギリス黒人の文化形成とバッキンガムによる教育実践の再解釈
第1節 言語とシティズンシップ教育
1.シティズンシップ教育論におけるバッキンガムの位置づけ
2.教育学におけるハーバーマス受容とコミュニケーションを通した公共圏の構築
第2節 言語と人種
1.ニュー・カマーという問題
2.カルチュラル・スタディーズにおける人種問題
第3節 政治的参加型メディア教育の実践
1.メディア制作の教育実践――人種の表象
2.イギリス黒人の文化形成ともう一つの公共圏――ギルロイからの示唆
小括
第6章 参加型メディア教育の文化形成的展開――フレイレの理論展開とバッキンガムによる教育実践の再解釈
第1節 ジルーのポピュラー文化への接近――境界教育学におけるポピュラー文化論
1.抵抗理論から境界教育学へ
2.ジルーのポピュラー文化論
第2節 バッキンガムとジルー
1.バッキンガムの批判的教育学批判
2.感情的傾斜と快楽を通したポピュラー文化との接触――バッキンガムとジルーの共通点
第3節 フレイレの意識化概念とフェミニストからの批判に伴う理論展開
1.意識化による現実構成
2.意識化概念の拡大――現実の認識から現実の変革へ
第4節 文化形成的参加型メディア教育の実践
1.メディア制作の教育実践――広告制作
2.「編集者」としての生徒――フレイレからの示唆
小括
第7章 政治的/文化形成的参加型メディア教育としての可能性
第1節 もう一つの公共圏における/「編集者」としての生徒によるメディア教育
1.イギリス黒人、黒人女性、「編集者」としての生徒
2.参加型メディア教育の二層構造
第2節 メディア教育における学習概念の再考
1.振り返りから文化的作業へ
2.メディア制作の教育実践をこえて
小括
終章 参加型メディア教育の可能性と課題――新たなメディア教育のために
第1節 総括――参加型メディア教育の特徴
1.イギリスのメディア教育におけるバッキンガムの位置
2.メディアの教材利用と文化形成の連続性
3.バッキンガムにおける抑圧/自律の二元論とその学校教育論としての可能性
4.メディアの拘束に対する抵抗可能性
5.参加型メディア教育の政治的展開――イギリス黒人の文化形成とバッキンガムによる教育実践の再解釈
6.参加型メディア教育の文化形成的展開――フレイレの理論展開とバッキンガムによる教育実践の再解釈
7.政治的/文化形成的参加型メディア教育としての可能性
第2節 新たな示唆
参考文献
関連年表
本書の関係図
謝辞
索引
前書きなど
序章 研究の課題と先行研究の検討
(…前略…)
第3節 各章の概要
以下、各章の概要を述べておこう。大枠を述べるならば、本研究は大きく四つのブロックで構成する。第一ブロック(第1章~第3章)、第二ブロック(第4章)、第三ブロック(第5章、第6章、第7章)、第四ブロック(終章)である。第一ブロックは、主に思想史的アプローチを採用する。残りのブロックは、理論的アプローチを採用する。
第一ブロックでは、バッキンガムがメディア・テキストを批判的に読み解くメディア教育をいかに参加型メディア教育へと移行させたのかを明らかにする。第二ブロックではバッキンガムの参加型メディア教育の可能性と課題を検討する。第三ブロックでは、参加型メディア教育の教育実践を再解釈し、バッキンガムの課題を踏まえメディア教育の新たな方向性を模索する。そして、それらをまとめて参加型メディア教育の新たな展開可能性を示す。第四ブロックはこれまでの考察を総括し、参加型メディア教育の可能性と課題、そしてメディア教育に対する示唆を明示する。以下、各章の概要を述べる。
第1章では、バッキンガムの理論的立場、イギリスのメディア教育の歴史、そしてバッキンガムが活躍した1980年代、1990年代のイギリスの政治的文化的状況を整理する。それらを通してバッキンガムのメディア教育論を歴史的に位置づけ、バッキンガムは何を不十分と捉え、自らのメディア教育を展開したのか。さらに、それはいかなる社会状況の中で立ち上がり、展開されたのか。本章は、バッキンガムのメディア教育論が有する政治的、歴史的文脈を捉え、バッキンガムによる参加型メディア教育論の歴史的位置づけを明らかにする。
第2章では、カルチュラル・スタディーズをリードしたホールの初期の活動――中等学校教諭、雑誌編集者時代――を取り上げ、バッキンガムのメディア教育理論とカルチュラル・スタディーズの関連を1960年代まで遡行して考察する。とりわけホールの理論展開に焦点を当て、ウィリアムズとの関係、テレビの登場のはざまで、ホールがメディアの教材化をいかに行ったのかを明らかにする。ホールは、メディア・テキストの分析とは異なるメディア教育のあり方を模索している。ホールはなぜ一時期であれ、このような試みに取り組んだのか。第2章では、彼の出自や当時の社会状況を踏まえて、メディアの教材利用の意味を検討し、参加型メディア教育の原型を見出す。
第3章では、ホールとの連続性を踏まえた上で、バッキンガムとマスターマンの論争を取り上げる。そのことを通して、先行研究も依拠するバッキンガムの二元論、すなわち抑圧/自律の二元論の構築過程を明示する。さらにその後の理論展開に注目し、彼が学校教育論として二元論をいかに応用したのかを検討する。とりわけ、メディア教育のカリキュラム化に焦点を当て、二元論が学校教育論として応用されていく過程に社会状況が影響していることを明らかにする。参加型メディア教育がいかなる社会状況で立ち上がり、時代の要請に応えようとしたのかを明示する。そして、その教育学的意味について考察する。
第4章は、バッキンガムの参加型メディア教育とH.ジェンキンス(Henry Jenkins)の参加型文化論との比較を通して、バッキンガムによる参加型メディア教育の学習論としての可能性を明らかにする。他方で今井康雄のメディア概念に注目し、言語を中心とした広義のメディア概念を採用した際、バッキンガムの試みがどのように解釈可能であり、いかなる課題を有するのかを明らかにする。論点を先取りすれば、メディア内存在として生徒を捉えた際、バッキンガムのメディア教育論の鍵となる諸概念にいかなる限界があるのかを考察する。
第5章では、バッキンガムによる人種の表象をめぐる授業実践を再検討する。その際に、参照点とするのはJ.ハーバーマス(Jurgen Habermas)の多文化主義に関する考えとギルロイによるイギリス黒人の文化形成論である。そして、この文脈にバッキンガムのメディア制作の教育実践を再配置する。言語活動を中心として合意や承認によって成立するハーバーマス的公共圏をこえて、言語も含めた多様なメディアを使用する共同的かつ文化的作業によって成立するもう一つの公共圏の可能性を明示する。そして、情報の送受信の枠組みへ介入する政治的参加型メディア教育の可能性を考察する。
第6章は、バッキンガムによる広告制作の授業実践を再検討する。ここではバッキンガムのメディア教育とジルーのポピュラー文化論との比較を通して、両者の共通点と相違点を明らかにする。そして、フレイレ、b.フックス(bell hooks)を手がかりに、バッキンガムとジルーの共通の地平を乗りこえ、意識化概念とその拡大による理論展開を検討する。それらを通して、これまでのメディア教育に関する議論では提示されていない形で、現実構成に参加する生徒像を提示し、文化形成的参加型メディア教育の可能性を考察する。
第7章は、第5章と第6章を踏まえて新たな参加型メディア教育の構造を記述し、その可能性と課題を明らかにする。具体的には、これまでの検討を通して見出した参加型メディア教育の特徴をまとめる。見通しを述べるならば、参加型メディア教育が政治的プロジェクトと文化形成的プロジェクトが並列する二層構造を有することを明らかにする。前者は新たな公共圏を構築する側面があることを、後者は生徒がメディア教育とは異なるメディア文化を形成する側面があることを明らかにする。このように参加型メディア教育を構造的に記述し直すことを通して、新たなメディア教育の展開可能性を明示する。
以上を踏まえ終章では、各章を再度整理し、バッキンガムによる参加型メディア教育の特徴を明らかにし、その可能性と課題を明確にする。そして新たな示唆として、批判的読解を通したメディア批判でも、メディア・コンテンツの制作を通したメディア制作でもなく、政治的プロジェクト/文化形成的プロジェクトとしての参加型メディア教育の可能性を示す。