目次
はしがき
第1章 われわれはいかにして慰安婦問題を認識したのか
戦後日本における慰安婦問題認識/七〇年代の日韓連帯運動の中で/千田夏光と金一勉の本/韓国での慰安婦論/植民地支配を反省謝罪せよの声と慰安婦認識/吉田清治の登場/朝鮮植民地支配謝罪と反省を求めて/八〇年代後半の慰安婦報道/韓国民主革命の勝利と日本の変化
第2章 慰安婦問題の社会的登場
民主革命後の韓国における慰安婦問題の噴出/挺身隊問題での対日公開書簡と挺身隊問題対策協議会の設立/金学順ハルモニの登場/戦後補償問題、関心の高まり
第3章 河野談話が出されるまで
資料調査へ/宮澤首相訪韓/日韓両政府の第一次調査結果発表/挺対協はハルモニと国連に目を向ける/金泳三政権の新方針/進む慰安婦問題の国際化/フィリピン、台湾、インドネシア、日本、北朝鮮での動き/河野官房長官談話へ/河野談話のとりまとめ/河野談話の内容/直後の反応
第4章 細川内閣から村山内閣へ
細川首相の侵略戦争反省発言/責任者処罰を求める運動/羽田内閣と野党社会党/村山内閣の発足/平和友好交流事業計画と慰安婦問題/村山首相の施政方針と訪韓/朝日新聞の「見舞金」リーク報道/村山首相の八月三一日談話/三党プロジェクトはじまる/五十嵐官房長官の決断/慰安婦小委員会第一次報告へ
第5章 アジア女性基金の設立
反動の逆風/基金構想の最初の修正/アジア女性平和友好基金の設立へ/呼びかけ人と基金のスタート/韓国政府の反応と運動団体の反対/呼びかけ人の心情/慰安婦被害者との面談/呼びかけ文の作成
第6章 基金のしくみと最初の動き
基金のしくみ/尹貞玉先生との話し合い/一九九五年八月一五日――新聞広告と村山談話/パンフレットの製作――慰安婦の定義/募金の努力/償い金を考える/反対運動との対話/クマラスワミ報告の波紋/総理のお詫びの手紙の案/償い金の額の決定/総理のお詫びの手紙/医療福祉支援の検討/公開討論
第7章 アジア女性基金、償い事業を実施する
フィリピンでの事業開始/韓国での事業実施の準備/韓国での事業の実施/インドネシアでの事業の決定/韓国事業の一時停止/危機からの脱出を求めて/アメリカにおけるあるハルモニの号泣/台湾での事業開始へ/歴史資料委員会の活動/反動の企て失敗に終わる/韓国での広告掲載と事業再開/討論「齟齬のかたち」/金大中大統領の下で/関釜裁判の「一部認容」判決/原理事長の大統領への手紙と大統領の訪日/東信堂アジア女性基金本の出版/オランダ事業の内容と実施/金大中大統領との懇談/韓国事業転換の決定/挺対協との秘密会談/韓国事業の停止/歴史資料委員会の活動成果/原理事長の死
第8章 基金の事業の展開
村山理事長の就任/女性国際戦犯法廷/韓国からの激励/事業終結期限を前にして/ハマー氏の質問が呼びおこした波紋/立法解決を求める動き/二〇〇四年パンフレットの刊行/基金の終了の時期について/国際シンポジウム「道義的責任と和解の実現」
第9章 基金の専務理事として
私が専務理事を引き受けた経緯/インドネシア事業の新展開/国際シンポジウム「過去へのまなざし」/意見広告の挫折/アジア女性基金セミナーの開催/中国慰安婦裁判弁護士の訪問/インドネシアからの新たな申請/安倍首相への質問状/アジア女性基金の解散の公示/基金を記録する――オーラルヒストリー/デジタル記念館――基金をネット上に展示する/のこった資金を活用してアフターケア事業にあてる案/韓国事業での事故事例/村山理事長告訴される
第10章 アジア女性基金の評価とその後
アジア女性基金の評価/アジア女性基金解散直後/民主党政権時代の試み/安倍第二次政権のもとで/日韓外相会談合意
付録 アジア女性基金の会計報告
引用文献
関連年表
人名索引
前書きなど
はしがき
(…前略…)
私は、基金に関わった歴史家として、アジア女性基金の歴史を書くことは私の責任だと思ってきた。本来であれば、高崎宗司氏と共同の作業として書くことを希望していたが、高崎氏が病をえたためにそれはできなくなり、私一人の仕事として進めることになった。
本書を書きはじめたのは、二〇一四年のことであった。第一稿が完成したので、平凡社に出版を依頼したが、このような大部の本よりは新書版で問題のエッセンスを世に問うことが必要ではないかと説得され、二〇一五年五月に『慰安婦問題の解決のために――アジア女性基金の経験から』(平凡社新書)を出すことになったのである。(……)
このように書き直しても、新しい資料の発見があり、自らの認識を修正せざるをえなくなったことが一度や二度ではない。アジア女性基金の歴史の全体像をつかむことはそれほどに難しいことなのである。もとより政府の資料がすっかり公開されなければ、完全にはわからないだろう。それでも、私は自分の経験したことと自分の手元にある資料を検討して、ぎりぎりのところにまで肉迫したつもりである。
いまから思えば、村山談話とアジア女性基金の一九九五年は希望の年であったと言わざるを得ない。そのとき私は五七歳であった。いまは二〇一六年、私は七八歳の老人だ。私には二〇一六年の日本が濃い霧の中にあるように思える。その霧の中にいる同時代人たちに本書を捧げたい。