目次
謝辞
まえがき ある大転換
産業資本主義の社会的妥協
脱集団化の力学
個人からなる社会のグレーゾーン
リスク社会?
(諸)問題となる社会国家
社会問題、都市問題、民族問題
一九九五年から二〇〇九年へ、そしてその後は?
方法について
第Ⅰ部 労働の規制緩和
第1章 隷属と自由のあいだの労働――法の位置
純然たる隷属としての労働
職業をめぐる権限
契約による秩序
公共空間への参入としての労働
労働の社会的尊厳の条件
労働の自由を最低限保障する労働法
第2章 労働にはいかなる中核的重要性があるのか
賃労働社会の衰弱
診断を最新のものにする?
破局論的言説
労働の終焉――混乱と虚偽
労働と保障の組み合わせの手直し
第3章 労働法――手直しか、つくり直しか
第4章 若者は労働と特殊な関係をもっているのか
労働市場の変容に直面する若者
若者の労働における、また労働にたいする態度の多様性
第5章 賃労働を乗り越えるのか、それとも、雇用以前にとどまるのか――不安定労働の制度化
賃労働社会から不安定社会へ
低雇用によって非雇用を脱出する?
流動性、安全、連帯
第Ⅱ部 保障の再編成
第6章 社会国家の名において
空間と時間における比較アプローチ
公的/私的
健常者と障害者
国家と労働界
労働を確保する
公的サービスを展開する
成長国家の脱成長
社会国家への二つの挑戦
能動的社会国家?
第7章 変転する社会国家のなかの社会事業
社会事業における国家責務の増大
再問題化する統合
新たな公共、新たなアプローチ
クライアントとしての利用者と市民としての利用者
第8章 守られるとはどういうことか――社会保障の社会人間学的次元
社会保障の刷新?
持たざる者の社会復帰
社会の選択
第9章 リベラル改良主義、あるいは左翼改良主義?
社会闘争の移動
既得権益と特権生活者
排除という隠蔽の概念
労働状況の連続体
雇用の全般的体制
市場にたいしてとるいくつかの立場
第Ⅲ部 社会喪失への道のり
第10章 社会喪失の物語――トリスタンとイズーについて
第11章 歴史のなかの周縁人
烙印を押された世界
周縁と排除、社会的脆弱性
周縁と社会変化
第12章 排除、罠の概念
第13章 どうして労働者階級は敗れたのか
賃労働者の従属
労働者階級の分裂
第14章 市民社会と他者性――フランスにおける民族マイノリティの差別的扱い
内部でも外部でもなく
周縁から中心へ溯る
社会的アイデンティティの支え
共同体主義か、多様性の政策か
他者性の構築
結論 個人になるという課題――超近代の個人をめぐる系譜学の素描
前史――神、最初の個人の支え
第一の近代――個人の支えとしての私的所有
第二の近代――私的所有から社会的市民権へ
超近代の個人――「超過する個人」
超近代の個人――「欠乏する個人」
註
訳者あとがき
索引
前書きなど
訳者あとがき
本書はRobert Castel, La montee des incertitudes : travail, protections, statut de l'individu, Paris, Seuil, 2009の全訳である。原題を直訳すれば、『不確実性の高まり――労働、保障、個人の地位』となるが、日本の読者にとってより興味をひくと思われる題名に変えた。カステルの著作にかんして、本書は三冊目の邦訳に当たる。一冊目は『社会の安全と不安全――保護されるとはどういうことか』(庭田茂吉、アンヌ・ゴノン、岩崎陽子訳、萌書房、二〇〇九)、二冊目は『社会問題の変容――賃金労働の年代記』(前川真行訳、ナカニシヤ出版、二〇一二)である。これ以外に、本書のなかでも重要な概念としてとりあげられる「社会的所有」については、雑誌論文のかたちで出された拙訳がある(『現代思想 特集:社会の貧困/貧困の社会』二〇〇七年九月号所収)。
(…中略…)
このように本書は、一九九五年に出版された『社会問題の変容』の続編として、以降およそ十五年分のアップデートを加えつつ、前著を修正ないしは補完したものだといえる。もちろん、賃労働の歴史をめぐる大著をまだ読んでいなくとも、本書だけで十分に完結している議論が提示されているので、まず入門編として本書を読み、それから『社会問題の変容』に進むという読書の仕方もありうるだろう。そして、本書を繙くに際しては、各章は比較的独立しているので、どこから読み始めることも可能だが、作者が注記でも述べているように、「まえがき」は全体の見通しを与えるために、独立して最後に執筆されたものなので、やはりまずここから読むのが、手がかりを得るためには好適である。第I部は労働や雇用について、第Ⅱ部は社会保障について、具体的な考察が続き、それぞれは互いに関連し合っている(この関連は註で示されている)。そこからも多くの示唆を得られるが、本書の白眉は何といっても、第Ⅲ部の「社会喪失」をめぐる論考、そしてそれに続き、最後を締めくくる結論部である。社会喪失の概念は、カステルが独自につくりあげたものだ。その詳細は、第Ⅲ部に含まれる五つの章、とりわけ第10章の『トリスタンとイズー』の物語をめぐる分析で明らかにされているので、ここで詳細に立ち入る必要はないだろう。ここではただ、カステルが「排除」の概念を警戒しており、それに代わるものとして、社会喪失の概念を提示しているという点を指摘しておく。(……)
そして、結論部で詳しく論じられる「超過する個人」と「欠乏する個人」も、カステル独自の重要な概念である。「超過する個人」は、ナルシス的にみずからの主観性のうちに閉じこもり、自分の力だけで生きているかのような錯覚を抱いて、社会のなかで生きていることを忘れてしまう。他方で、「欠乏する個人」は、個人として自立するための最低限の社会的支えを欠いており、みずからの個性を発揮できないでいる。個人がこうした二つの姿へと分岐していく現象は、今の日本でも観察することができよう。一方では、個人の創意に基づく企業家精神が尊ばれ、それを阻むような社会的規制が敵視される。例えば、一部のIT関連の企業家のように、自分の才能と富との結びつきをごく自然なものとみなし、巨額の稼ぎを自身の「すぐれた」才能の当然の帰結とみなす者がいる。他方で、そうした才能を発揮しようにも、そもそもそのための基礎をまったく欠いた者もいる。これまで日本においては、個人の問題はしばしば「個人主義」というかたちで語られてきた。つまりそれは、ある考え方や価値観、ライフスタイルとして考えられてきた。しかし現実には、単身世帯の増加が進み、もはや従来の「個人主義」という言葉ではとらえられないような現実が進行している。単身世帯のなかには、高齢者で生活保護を受けている者もいる。他方で、先のIT企業家のような、都心の数億円する高層マンションで暮らす単身世帯もある。そのあいだには、明らかな生活環境の隔たりがある。しかし、両者とも単身世帯には変わりなく、またいずれも「個人からなる社会」の進展のなかで生じた現象であり、かつては稀だった世帯のかたちである。そこには分岐、つまり同一の根から生じる二つの方向があり、カステルはそのことを、この二つの概念で示そうとするのだ。
(…後略…)