目次
はしがき
第1章 私にとっての宗教的体験
幼き日の宗教的体験
従兄弟の死から親鸞思想へ
母の躾け
第2章 人生を考える青年期の思索
親鸞思想との出会い
モンテーニュの『随想録』でも
第3章 私の親鸞理解
自分の生きる現実をみる
宿業を考える
私の考える「共業」について
さるべき業縁とは何か
浄土というものをどう考えるか
第4章 親鸞の宗教的洞察力
なぜ部落解放運動は混迷状況に陥ったのか
「一切の有情は……」
「大慈大悲心」のイマジネーションなき社会
さらに驚くべき親鸞の信教的発想
生命の誕生・進化と親鸞思想
「宿業」をどうみるか
『スッタ・ニパータ』の言葉をどうとらえるか
第5章 『観無量寿経』の教え
「是旃陀羅」の痛み
『観無量寿経』に描かれたドラマ
親鸞が受けとめたもの
親鸞思想の一貫性
第6章 釈尊の原始仏教の姿勢
現代の仏教の中にある差別観
より釈尊の教えの原点に
第7章 『聖典』の中にうごめく差別をどうするか
『無量寿経』の「変成男子」について
捨てるべきものを捨てる
第8章 『聖典』につづられている高僧の論理展開
龍樹の『十住毘婆沙論』にみる平等観
天親の『浄土論』にみられる差別観
曇鸞の『浄土論註』にみる差別観
「往還回向」について
教団教学の第一人者の差別的言動
豊水師の差別性
「真俗二諦」の詭弁を批判する
第9章 「是旃陀羅」について
「是旃陀羅」はどのように説かれてきたか
『経典』の差別性の解決は
真宗大谷派の考えは
経書・経典は「不磨の大典」の扱いでよいのか
経典の歴史性を問う
二重三重の課題と変形の積み重ね
あとがき
前書きなど
はしがき
部落解放運動の実践的課題の前に立たされて、この複雑な「人間なるもの」の関係性について考えさせられた。そして、人間の変革、差別性の克服がいかに困難なものであるかを思い知らされた。ついこの間まで部落解放運動における盟友だとばかり思っていた日本共産党が、全国的にわれわれの運動の前に立ちはだかり、時には反動勢力と組んで差別キャンペーンに狂奔するということにも遭遇した。街の資産家など保守的立場の人は、表向き上品に構え部落解放運動に理解を示す装いをみせながらも、内心は共産党のやることを支持する人もいた。
当事者であるわれわれ被差別部落民同士でさえも、さまざまな利害と感情が入り混じって、地域での闘いが統一的に取り組めないという困難にぶつかったりもした。
少し大局的立場に立てば、分裂的言動に走らなくてもよさそうなことでも対立し、分裂的雰囲気をかもし出す。このような状況をさして、私は「分裂訓練学校の優等生」と揶揄して、被差別の仲間にその克服を訴え続けてきた。いずれにしても人間社会における差別・被差別の関係、支配と被支配の関係は、その人、その集団、その階級総体の、構成員の人間力の優劣によって作られ、かつ持続されるものである。
私はそこに着目し、被差別者集団の人間力(主体の確立)を培うことが何より優先されると考えるようになった。もちろん、従来の融和主義的発想に基づく、差別される者の「人間的な劣性」に差別の原因を求めようとするものではない。部落差別は「市民的権利が行政的に不完全にしか保障されていない」ことに因果を発している。これを私たちは「部落差別の本質」としている。被差別者の生活・教育・文化等各般における低水準の現象は、常に本質に照らして分析しなければならない。
(…中略…)
宗教はその点について、懺悔とか内省とか、なお、感性の深い部分に迫る煩悩なる言葉をもって、表面的なことにはこだわらず、人間社会の深層部に迫る「智慧」を教える。この「智慧」をもつ人間でなければ、他の動物にはみられない、つまり自己コントロールのできる人間とはいえない。「真に部落解放を実現するに足りる主体の確立」ということにはならない。部落解放運動の次元に立って、私が宗教とりわけ仏教、わけても浄土真宗の親鸞思想から学びたいとしたのは、そのような意味からである。浄土真宗の宗祖・親鸞は内省、自省の人間力において抜群であるといえよう。
(…中略…)
浅学非才、未熟な私にして、そこを体系的に、部落解放運動の理論として、人々に示すことは、とても困難で大きな仕事である。
だが幸いにも、親鸞の思想・人生観との出会いがあった。親鸞の名文・名口調に惹かれるという点もあったであろう。
中国(明)の王陽明の名言に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」というのがある。主体的であることの難しさをいったものである。要は人間がいかに主体的であるかによって、ものごとは動いたり、動かなかったりしていくのである。注意してこの際、学習を深めておかなければならないことは、この「主体」のとらえ方において、浄土真宗の場合は、弥陀の本願力を「自力」に対する「他力」によるものと規定して、これを信仰するというものである。したがって、「自力」の否定を説き、往々にして、ここでいう「主体」と「自力」を混同し、思想的一貫性を失うということである。
そのようなことがあるから、このポイントを、深く深く考察しなければ、「他力」と「主体の確立」と「自力修行」を概念において混乱し、時として衝突させることがある。その難しさのゆえに、「主体」ということと「自力」ということの論理的検討を避けて通ろうとする場合がある。
どうしても、人間は「主体的」でなければ、ものごとの「けじめ」がつかない。私は、部落解放ということと人間解放ということは、究極において一つのことであると考えている。だから人間がいかに主体的であるかが決定的なことだと思い、「変革」のために問い続けているのである。本書が、そこに何ほどかの一石を投ずることができれば、このうえもない喜びとするところである。読者・諸姉兄氏のご批判とご教導を望んでやまない。