目次
はじめに――ささやかな「介助者学」のこころみ
第1章 障害者介助の現場より――健全者・介助者(介護者)・コーディネーターとして思うこと(渡邉琢)
1 生い立ちと出会い
2 障害者介護保障のこれまでについて
3 障害者介助の現場の課題
4 障害者介護保障の今後に向けて
第2章 介助者の課題――足文字を読むということ(深田耕一郎)
1 介助者の課題とは何か
2 闘争の言語としての足文字
3 足文字と介助者――その構造と学習過程
4 足文字のアンビヴァレンツ――理解を求め、拒む
5 介助者の課題
第3章 介助者がしていること――知的障害のある人の自立生活をめぐって(寺本晃久)
地域生活とその介助言葉を足す
言葉をつなぐ
「できないこと」はわからない
見守りからはみ出る
ひきずられる
「迷惑」に付きあう
第4章 介助とジェンダー(瀬山紀子)
1 介助へのかかわりから
2 女性労働問題としての介助
3 介助という行為とジェンダー
4 介助から開ける世界
第5章 座談会 女性と介助――からだのこと、子育てとの両立、人とのつながり(小泉浩子/佐々木彩/段原志保/松波めぐみ/丸山育子)
第6章 アディクト/ケアワーカー/アクティビストを生きる(くも)
アディクト/ケアワーカー/アクティビスト
わたしのアディクション
わたしの被暴力1
わたしの被暴力2
家族
ジェンダー/パワーゲーム
ケアワーカーになる
アクティビストになる
「サポート」の罠
「底つき」から回復の歩みへ
財産としてのトラウマ
コミュニティの病としてのアディクション
「介護」という仕事に出会えてよかった
第7章 野宿と介助(小川てつオ)
第8章 インタビュー テント村と介助(いちむらみさこ/小川てつオ/聞き手・杉田俊介)
テント村のなかのケア
野宿者と障害・女性・子ども
ホームレス文化再考
テント村からのオルタナティヴ
第9章 「介助を仕事にしたい」と「仕事にしきれない」のあいだ――自立生活運動のボランティア介護者から重度訪問介護従事者になる経験(高橋慎一)
介助労働者とは何か
介助労働者になる前――重度身体障害者のボランティア介護の経験
介助労働者になる
介助の労働化に抵抗する――介助・労働・お金
第10章 介助と能力主義――友達介助を再考する(杉田俊介)
単なる能力主義に陥らない介護
問いを「私たち」に切り返す
メリトクラシーとは何か
友達介助を再考してみる
第11章 座談会 介助者の経験から見えること(川口有美子/杉田俊介/瀬山紀子/山下幸子/渡邉琢)
おわりに
前書きなど
おわりに
本書の企画は2009年頃にさかのぼる。
障害当事者の声や運動をめぐる歴史は掘り起こされてきた。しかし、その人たちのかたわらで並走してきたはずの、介助者たちの生の声は、あまり聞かれない。参照できる歴史的な資料もあまりない。それが気になっていた。
それなりに理由はあるだろう。
たとえば、介助者が何かを要求することは、危険だ。介助者はもともと当事者(ケアを必要とする人々)に対して社会的な優位にある。にもかかわらず何かを要求したり主張したりすれば、当事者の立場がさらに弱くなりかねない。あるいは、そもそも当事者のニーズは当事者自身が語るべきであり、介助者がそれを代弁すべきではない。
そういうことがずっと言われてきたし、事実そのとおりでもある。
それならば、介助者たちは相変わらず黙ったままでいたほうがのぞましいのか。介助者たちの日々の経験を「言葉」にしていくことは無意味なのか。
もちろん、簡単には言えない。簡単に答えの出ること、はっきりとした結論の出ることでもなさそうに思える。
事実、本書に参加した介助者の人々は、そのようなあいまいなところ、どこか煮え切らないと言えば煮え切らないところに――語ることと沈黙することのあいだに――とどまりながら、介助者として働く・生きるとはどういうことなのか、粘り強く考えようとしている。
(…中略…)
個別のミクロな支援とマクロな制度設計をいかに結び付けるか。それはつねに困難な課題である。しかし社会のありかたが高度に複雑化し専門化してくると、みな「専門性に基づいた量的な実証的調査に基づいて、具体的に制度設計をしなければ、意味がない」と考え始める。そのような主流派の考え方からすれば、ミクロな介助の経験や現場で生じている出来事に多角的にこだわる本書のような試みは、まどろっこしく、無益なものに思えるかもしれない。本書の企画を聞いたある難病当事者からは「実証的な調査と政策提言をしないとダメだ、社会福祉学や障害福祉政策を学んで出直して来い」と言われたこともある。
しかし、自分や他人の身体や生活を大切にできない人々が、ほんとうに、よい制度を生み出すことができるのか。制度を設計・メンテナンス・改善していくのもまた「人間」なのだから。この単純な事実が忘れられる。だが、主流派の言葉の「速さ」に対して、私たちもまた別の「速さ」によって対抗し、競い合おうとするならば、おそらく本末転倒になってしまうのだろう。私たちの言葉は、これでもまだまだ、性急で拙速すぎるのかもしれない。様々な当事者の様々な生の速度に必要な形で寄り添っていく、という意味での絶対的な「遅さ」が足りないのかもしれない。
(…後略…)