目次
はしがき
第一部 戦争の時代
第一章 壬辰戦争義兵概論
はじめに
一 慶尚道義兵
二 全羅道義兵
三 忠清道義兵
四 咸鏡道義兵
五 黄海道義兵
六 平安道義兵
七 京畿道・江原道義兵
まとめ
第二章 壬辰戦争と黄海道義兵
はじめに
一 黄海道地方の戦況
二 抗日の気運
三 義兵李廷軍
おわりに
第三章 南冥学派の壬辰戦争義兵活動──とくに慶尚右道における鄭仁弘義兵を中心にして
はじめに
一 南冥学派義兵
二 毛利輝元軍の慶尚道統治
三 鄭仁弘義兵の活動
おわりに
第四章 泗川戦、島津軍、鼻切り
はじめに
一 泗川戦
二 鼻切りの実態
むすびにかえて──泗川戦の歴史的意義
第五章 会寧「顕忠祠碑銘」について
はじめに
一 碑文の訓読と大意
二 碑石建立の背景
まとめにかえて──史料的価値
第六章 沙也可考
はじめに
一 降倭論
二 沙也可の出自
三 阿蘇宮越後守
四 戦後の沙也可
まとめと課題
第七章 壬辰戦争の義僧兵活動および戦間・戦後の朝日交渉における惟政(松雲大師)の考察
はじめに
一 義僧兵の抗日活動
二 朝日講和交渉──惟政・清正会談
三 戦後の朝日交渉──惟政・家康会見
まとめと今後の課題
第二部 通信の時代
第一章 尾張・三河地方における朝鮮通信使来聘史料の考察
はじめに
一 尾張藩史料──蓬左文庫蔵・朝鮮使節関係史料解説
二 地方史誌・個人文書等朝鮮使節関係史料解説
付編──蓬左文庫蔵・原文史料
「天和壬戊韓使来聘」
まとめ
第二章 「甲申韓使来聘記事 完」──読み下し文・校註
はじめに
「甲申韓使来聘記事 完」
まとめ
第三章 一地方儒学者の見た朝鮮使節──南川金渓著「金渓雑話」校註・解説
一 南川金渓著「金渓雑話」校註・解説にあたって
二 「金渓雑話」巻之中 解読文・校註
三 解説 南川金渓と「金渓雑話」
第四章 許浚撰著『東医宝鑑』と日本の受容
はじめに
一 朝鮮王朝時代の医療
二 日本の受容
むすび
第五章 朝鮮通信使初出史料
(1)織田岐山と朝鮮使節問答
はじめに
一 織田岐山、遠州見付宿で使節迎接
二 詩文の応酬
三 問答
四 岐山の子孫たち、そして使行録
むすび
(2)乙未朝鮮使節正使趙筆板刻漢詩文
はじめに
一 漢詩文
二 趙の使行録「扶桑日記」
三 趙の経歴
まとめ──史料的価値、問題点
(3)三田家蔵朝鮮使節関係書画
はじめに──発見の経緯
一 既刊本・三田家朝鮮使節関係記録
二 使節書画
三 朴徳源、金有声
四 三田家蔵朝鮮使節応接文書
むすび
(4)建仁寺両足院蔵朴徳源・趙書幅
はじめに
一 朴徳源他墨筆書幅
二 趙墨筆書幅
むすび
あとがき
付図
付表
索引(地名・人名)
前書きなど
はしがき
一九九八年(平成一〇)三月、定職を退き時間的にも精神的にも随分余裕ができた。ちょうどこの時期は、壬辰戦争(文禄・慶長の役、壬辰・丁酉倭乱、万暦朝鮮役)四〇〇年、朝鮮通信使開始四〇〇年という節目に当たり、それに関係する諸行事が国内外で多彩に取り組まれた。これらの行事に私も歴史研究者の一員として積極的に参加し、この過程で私の研究テーマは壬辰戦争研究と朝鮮通信使研究の二本立となった。それは豊臣氏の朝鮮侵略とその終息、日朝両国の国交回復の過程、さらに徳川氏の通信事業(朝鮮通信使来聘の意)の開始と実態などの研究に向かった。本著「豊臣・徳川時代と朝鮮──戦争そして通信の時代へ」のタイトルの所以である。
私の研究生活もそれに応じて変化した。専門分野の壬辰戦争研究基盤は地元で四〇数年続く「名古屋朝鮮史研究会」であり、当研究会は専ら壬辰戦争に関する朝鮮に残る一次史料の講読を継続した。次いで一九九九年(平成一一)には新たに「東海地方朝鮮通信使研究会」(以下、東通研)を立ち上げ、同会は専門を問わず関心のある幅広い市民の参加を募って結成し、朝鮮通信使に関する地元を中心に基礎的な史料の収拾・調査・報告を行い、新出資料の捜出に心掛けた。
この一〇年余の間、各種行事・学会を通して内外の幅広い研究者、市民の方々との交流が従来の生活では考えられないほど豊かになり、多方面から示唆に富んだご教示やご協力を受け研究の励みとなり、下記の拙稿に結実した。ここに前著『豊臣政権の海外侵略と朝鮮義兵研究』(青木書店、一九九六年(平成八))上梓以降の拙稿を集め、改題、改稿、補訂して単著とした。
(…中略…)
本著で主題とした日朝の戦争(朝鮮侵略)時代から通信(朝鮮通信使来聘)時代への歴史的経過と事実が数百年前の出来事とはいえ、歴史を鏡とするならば東アジア三国の歴史認識共有形成の一助となればという思いから筆を執った。この主題名は国家的概念のものであるが、民衆的視点から見れば、三国民衆は戦争では(直接)多大な犠牲を被り、通信時代は平和を享受しながら、その体制維持の担い手の役割を受け持ったのである。しかし、徳川時代も時を経るに従って、国家も民衆も過重な負担に耐え切れず両国の通信関係は途絶し、近代の不正常な日朝・アジア関係に突入していった。
しかし、最近、日韓両国はかつてない人的交流、とりわけ民間交流にいたっては一日一万人以上の人々が往来するという盛況を極め、その結果、両国民間相互の好感度も高い数値を示している。一方、朝鮮民主主義人民共和国とは六〇年余以上にわたって国交未回復の不自然な関係のままである。また、近年日本国内では歴史学会で実証ずみの日朝中の歴史的事実が不当に歪曲され、偏狭なナショナリズム史観の台頭も出て危惧する状況になっている。現在、東アジアの日韓中の三国間では期せずして政治レベル先行の東アジア共同体形成、未来志向関係の構築が提唱されているが、それらには理念的にも具体的にもまだ重大な欠落と危弱さを内包している。
二〇一〇年(平成二二)は松雲大師没後、許浚撰著『東医宝鑑』完成共に四〇〇年、「韓国併合」一〇〇年など日朝関係にとって看過できない節目の年である。歴史の連続性・継承性に鑑み、温故知新の立場に立脚するならば、歴史学の果たす役割が今日一増強く求められている。