目次
序章 予防拘禁とアメリカの「強制収容所」
第1章 国内治安政策史から見た日系アメリカ人強制収容——国家的非常事態における「自由」「忠誠」「人種」
1.第二次世界大戦以前のアメリカにおける市民的自由
2.日系アメリカ人集団強制収容への意思決定過程
3.強制収容をめぐる最高裁判決
(a)ヒラバヤシ対合衆国事件(1943年)
(b)コレマツ対合衆国事件(1944年)
(c)ミツエ・エンドウ事件(1944年)
4.強制収容政策の終結とその後
結論
第2章 緊急拘禁法(1950年国内治安法第2部)の成立——国内治安維持対策としての予防拘禁の合法化
1.1950年国内治安法の立法過程
2.国内治安法の内容
3.緊急拘禁法をめぐる議会審議に見られる言説上の攻防
4.緊急拘禁法案の議会審議に見られる日系アメリカ人強制収容の記憶
結論
第3章 緊急拘禁法への反応とその影響——マッカーシズム全盛期における市民的自由
1.政治家およびリベラル団体の国内治安法への反応
(a)議会内での反応——国内治安法撤廃への試み
(b)トルーマン政権の反応——ニミッツ委員会の設立と解散
(c)リベラル団体の反応
(d)法学者からの反応
2.緊急拘禁法が1950年代のアメリカ社会にもたらした影響
(a)拘禁キャンプの建設
(b)FBIの「国内治安人名録」
(c)アイゼンハワー政権と1954年共産主義者取締法
3.1950年代および60年代の国内治安関連事件に対する最高裁判決
(a)デニス対合衆国事件(1951年)
(b)イェイツ対合衆国事件(1957年)
(c)共産党対破壊活動取締委員会事件(1961年)
(d)アルバートソン対破壊活動取締委員会事件(1965年)
結論
第4章 緊急拘禁法の撤廃過程(1)——「強制収容所」建設の噂と撤廃運動の始まり
1.1960年代における人種関係の変化と国内治安問題
2.「強制収容所」問題に対する世論の関心の高まり
(a)「強制収容所」に関する噂の広がり
(b)「強制収容所」の噂の拡大要因
3.緊急拘禁法撤廃運動の始まり
(a)日系アメリカ人コミュニティにおける緊急拘禁法への関心の高まり
(b)「緊急拘禁法撤廃を求める特別委員会」
結論
第5章 緊急拘禁法の撤廃過程(2)——撤廃法の立法過程
1.緊急拘禁法撤廃法案の提出
2.下院国内治安委員会(HISC)による、緊急拘禁法撤廃法案に関する公聴会
(a)緊急拘禁法撤廃に関する主流派の言説
(b)緊急拘禁法撤廃に関するマイノリティの言説
(c)緊急拘禁法撤廃への反対
3.緊急拘禁法撤廃への最終章
(a)議会保守派による拘禁法撤廃阻止戦略
(b)下院司法委員会における拘禁法撤廃に関する公聴会
結論
終章 新たな「強制収容所時代」?——9・11同時多発テロ以降の治安と自由
あとがき
索引
前書きなど
序章(一部抜粋)
(…前略…)
本書の構成
本書では、予防拘禁にかかわる3つの事件、すなわち日系アメリカ人強制収容、1950年緊急拘禁法の成立、および1971年の同法の撤廃の際に、アメリカで繰り広げられた市民的自由に関する議論を詳細に分析する。その主たる目的は、日系アメリカ人強制収容が戦後のアメリカ社会に与えた影響を考察することである。先行研究においては、強制収容がその対象となった日系人コミュニティに対してどのような影響を残したかを詳しく研究しているものがいくつかある25)。しかし、強制収容をひとつのエスニック集団の歴史体験としてのみ捉えると、この政策がはらんでいたより大きな憲法上の問題点が見落とされてしまう。したがって本書は、強制収容が戦後アメリカにおける市民的自由と国内治安に与えた影響という観点から、この政策の遺産を再考察する。日系アメリカ人強制収容は、戦後に緊急拘禁法の政策的モデルを提供し、それによって正当化された予防拘禁のシステムが1950年代以降、国内治安を名目とした治安当局による国民の監視と政治的抑圧の体制の一翼を担った。つまり強制収容は、単にその対象となった日系アメリカ人、あるいは人種的マイノリティの人権侵害を引き起こしたのみならず、すべてのアメリカ人の自由を脅かす政策であったのである。
本書では、日系人強制収容を国家的非常事態における予防拘禁という観点から再考察する。第1章では、まず第二次世界大戦以前のアメリカ合衆国における市民的自由の歴史を概説し、次に第二次大戦勃発後、アメリカ政府がどのようなからくりを使って、人種的カテゴリーに基づいた市民の集団的転住と拘束を行ったのか、そしてこの政策を最高裁判所がどのようなレトリックを使って正当化したのかを解析する。政策実行にかかわった官僚や、それを裁いた判事たちは、戦争という緊急事態において、いかに市民の自由と国家安全保障のバランスをとるか、また市民の生活にどの程度軍が影響を与えることを認めるべきかについて思い悩んだ。強制収容が実行されたこと、そして裁判所がそれを間接的であれ認めたことは、当事者の意図とは裏腹に、市民的自由および法のもとの平等という憲法上の大原則を揺るがし、市民生活に政府が干渉する権限を大きく拡大することにつながった。
第2章では、1950年に連邦議会が緊急拘禁法を成立させた法的なプロセスを分析する。緊急拘禁法は、日系アメリカ人強制収容が実質的に憲法にもたらしたほころびを、法的に確定した。この法律は、スパイおよび破壊活動防止の名目で、政府に強大な権限を与えたが、そのモデルとなったのは、わずか数年前に起こった市民の集団的予防拘禁の先例たる日系人強制収容だったのである。この章では、議会で展開された緊急拘禁法に関する議論を詳細に分析し、強制収容の記憶が、潜在的不忠誠者の拘束という政府の非常事態権限の形成にいかに影響を与えたかを考察していく。
第3章では、拘禁法成立後、さまざまな政府機関や市民団体などが同法に対してどのように反応したかを分析し、1950年代から60年代にかけてアメリカ人の市民的自由や国内治安に関する考え方がどのように変遷したかをたどる。国内の主流リベラル派のなかには、予防拘禁の抑圧的性格に対して不快に感じつつも、強制収容の記憶ゆえに緊急拘禁法を支持する者が多かった。一方保守派は、反共主義や愛国主義のレトリックを使って、国内の思想的弾圧を推し進め、人種差別撤廃を目指す一連の社会制度改革を阻止し、白人中流階級的価値観へと国民の思想をできるだけ統合する方向で動いた。FBIはこの間、人員、予算、および政治的影響力を急速に拡大し、政府の非常権限に基づいた国民の監視システムを発展させる一方、緊急拘禁法が定めていた市民的自由を保護する条項はまったく無視した。また第3章では、この時期の自由に対する意識の変遷を明確にするため、1960年代半ばのアール・ウォーレン主席判事時代の最高裁判所が推進した国内治安に関する一連の改革を扱っている。
第4章では、1960年代に緊急拘禁法撤廃を要求した草の根の運動について報告する。人種関係が緊張し、ベトナム反戦運動が高まる中、政府が急進的左翼学生や黒人コミュニティをターゲットにした強制収容計画を進めているという噂が広がり、一部の人々から懸念が表明されるようになった。マスコミでも、緊急拘禁法がその根拠と報道されるようになり、この「強制収容所法」に対する反対運動が左翼団体などによって進められたが、それが大きく社会から支持を受けるようになったのは、日系アメリカ人が運動に加わってのちのことである。日系アメリカ市民協会(JACL)を中心として、日系人は組織的な緊急拘禁法反対運動を展開した。この章では、「強制収容所法」に世間の注目を喚起するためにJACLがとった戦略を詳しく分析する。草の根レベルの撤廃運動の過程を見ると、日系人が自らの収容体験を公に語るようになったことが、撤廃支持を拡大するための鍵となったことがわかる。また、拘禁法撤廃運動は、それまで強制収容されたことを恥や罪の意識のために沈黙していたコミュニティが、収容は政府による不正義であったという方向で再認識することにもつながり、このことは日系人全体にとって自尊心の回復へとつながっていったのである。
第5章では、連邦議会において緊急拘禁法が撤廃された立法過程を説明する。草の根レベルの運動と同じく、議会レベルでも日系アメリカ人は法律撤廃に決定的な役割を果たしている。この章では下院国内治安委員会の議事録を中心に分析する。委員会では、さまざまな政治家、市民団体、人種・エスニック団体が拘禁法について証言しており、そのほとんどが撤廃を要請した。その証言は必ずと言っていいほど、日系アメリカ人の強制収容に言及しており、しかも強制収容を正当化する意見はほとんど見られなかった。現実的に日系人が拘禁法によって逮捕・拘禁される可能性は限りなくゼロに近かったにもかかわらず、日系人が撤廃の過程にかかわったことは、拘禁法が乱用される可能性がゼロではないという印象をアメリカ一般国民や連邦議会の議員にもたらした。「鉄条網と監視塔」の視覚的イメージは、拘禁法が民主主義国家にふさわしくないという撤廃支持派の主張を強め、拘禁法を擁護する側の論理を著しく弱めたのである。
(…後略…)