目次
第I部 日系移民の北米稲作史
第一章 楽園ハワイに稲作のあけぼの
1 万延元年遣米使節が食べたコメ
2 漂流民・ジョン万次郎の報告
3 明治元年のハワイ移民
4 グアム、幻の“コメ作り第一号”と“悪徳奴隷商人”ヴァン・リード
5 移民が支えたハワイコメ作りの盛衰
第二章 それはチャールストンから始まった
1 漂流船、チャールストンに
2 コメで賑わったニューオーリンズ
3 名残をとどめるコメ料理は
4 アメリカ米はインディカ種?
第三章 日系移民も西海岸へ
1 会津若松からエルドラドへ
2 カリフォルニアの夢のあと
3 大陸横断鉄道と中国人排斥法
4 サンフランシスコに大和屋開業、だが……
5 「鉄道働き」は南京米、「キャナリーボーイ」は日本米
6 シアトルの「十仙めし」
第四章 テキサスに日本人コロニーを
1 アメリカに渡った品種、「神力」と「渡船」
2 代議士辞めてテキサスへ─西原親子のコメ作り
3 片山潜のユートピア
第五章 カリフォルニアに新品種誕生
1 アメリカ農務省、自作米への試行錯誤
2 カリフォルニア米誕生
3 新品種「カルローズ」を開発
4 “プレミアム”カリフォルニア米を作った男
第II部 南米三国移民物語
第一章 榎本武揚の情熱、メキシコ移民団
1 メキシコ移民百年
2 榎本の開拓構想
3 「榎本殖民団」出発
4 チアパスに着けば手違いの連続
5 移民地に植えられた稲は?
第二章 ペルーの地に「八百の同胞死に瀕す」
1 移入民を求める国
2 秘露(ペルー)視察と移民の決定
3 カニエテでは死者多数の惨状
4 ペルーのコメ事情
5 さらなる新天地を求めて
第三章 ブラジル移住の苦難と発展
1 国交結ばれ、移民計画
2 古くからある「アグーリャ米」料理
3 そこは「舞って楽しみ留まる国」か?
4 “話が違う”悪条件に逃亡者続出
5 救世主公使の再登場
6 初期移民のコメ作りあれこれ
7 日本移民の稲作地帯でコメ輸出国に
8 コメから「アマゾンの黒いダイヤ(胡椒)」へ
9 戦後移民はアマゾンの奥へ
10 コメ五十キロの値段がピーマン一キロと同じ!
第III部 漫遊南米コメどころ
第一章 メキシコ人に丼物を
1 リベルタ市場のカルド・ミチ
2 三世の握るすしはカリフォルニア米
3 試験場から産まれた「モロレス米」
4 クアウトラでコシヒカリに挑戦
第二章 ペルーでかわすコメ談義
1 リマの天丼の米はカリフォルニア米に匹敵
2 大福のモチゴメは国府田の「松竹梅」
3 プカルパに残る水田のコメ
4 テロリストに破壊された水田
第三章 新世代が拓くブラジル
1 サンパウロに集まる多彩なコメ
2 カテテ、アグーリャ、アグリーニャ
3 本屋さんで聞いたグァタパラの話
4 グァタパラ移住新世代
5 歴史を語る「拓魂の碑」に感慨
第四章 基地代償のボリビア、棄民のドミニカ
1 高山病に“地獄に仏”の焼魚定食!
2 移民の生業はゴムからコメへ
3 ボリビア米の品種を推測
4 「カリブ海の楽園ドミニカ共和国が日本移民を招く」
5 日本政府の棄民
6 ダハボン水田への道
7 我らが老骨を礎に
8 改良品種「谷岡五号」と「プロセキーサ」
9 国境の川へ
第五章 赤テラ・ロッサ土のパラグアイ、肉食国のアルゼンチン
1 シウダーデルエステでの出会い
2 日本レストラン失敗談
3 スーパー経営者の余技はすし握り
4 甘めのすしめしは「農林二十二号」
5 イグアス移住地四十周年祭
6 国境越えて客よぶ「光後米」
7 アルゼンチンすしブームの先駆者一家
8 羨ましいすしネタ
9 肉食国のすし屋いろいろ
第六章 三国国境の大穀倉地帯
1 ウルグアイブランド「光後米」と「弥勒米」
2 世界最大の水田地帯
3 ポル・キロ(量り売り)のすし屋さん
4 サンパウロで最初の日本レストランは?
5 大手のレストラン進出と「吉田米」
第IV部 北米に見るコメ産業の未来
第一章 移民の夢と新品種
1 西原農場の跡地へ
2 日系人最後のコメ作り
3 「田牧米」ができるまで
4 短粒米戦争が勃発
第二章 北米産ササニシキが輸入される日
1 コメどころ目指して右往左往
2 ライス・キャピタル(コメの首都)の農業博物館
3 狙いは一つ、コシヒカリ!
4 そして日米コメ摩擦へ
第三章 アメリカで作り、加工し、輸出する
1 健康ブームが日本食ブームに
2 おコメを炊くビジネス?
3 玄米ずしとマクロバイオテック
4 ついにアメリカ製弁当が日本へ
主要参考文献
あとがき
前書きなど
あとがき
これは、ハワイ、カリブ海域を含んだ南北アメリカ大陸におけるコメ作りの歴史と共に、かの地において稲作に奮闘努力した日本人移民の記録です。
私は一九七五(昭和五十)年以来、二十余年にわたって、マンハッタンで「竹寿司」というすしレストランを経営してきました。
それで他の人よりはずっとカリフォルニア米に接する機会が多かったわけですが、このカリフォルニア米には幾ら感謝してもし足りません。
と言いますのは、アメリカで(他の海外でも)日本レストランで食事をするということは、日本で言うならば高級フランスレストランに行くことに匹敵します。すなわち日本レストランの料理の値段は非常に高いのです。
これは日本から板前をよび寄せたり、あるいは日本から輸入した食材を使うので、必然的にこうした値段になってしまうのです。
でも、もしアメリカにカリフォルニア米が存在せず、お米まで日本から輸入するとなると、日本のお米はアメリカ米の五倍もしますから、メニューの値段はますます高くなってしまい、一般の人ではとても日本レストランに足を踏み入れられなくなってしまいます。
すなわち極論ですが、カリフォルニア米があったからこそ、こうして今日のアメリカにおける日本レストランの隆盛があるわけです。
さて、毎日こうしてカリフォルニア米を使って商売しているうちに、一体このコメはいつ、誰が、どうやって作り出したのだろう?と考えるようになりました。
それがきっかけで北米、中南米の稲作の歴史をひもといてみると、各地でその発展に努めた日本人(日系移民)の姿が見えてきました。さあそうなると別にカリフォルニア米に限りません、北米及び中南米では今どんなコメ作りをしているか、それまでの歴史はいかがな様子だったのか、を知りたくなり実際に現地を歩き回るようになりました。
ニューヨークに拠点があったのは幸いでした。仮に日本からサンパウロに行くとなると、途中最低飛行機を二回乗り換え、また飛行時間も三十時間をこえてしまいます。ところがニューヨークからなら直行便で十時間もあれば着いてしまいます。それと、日本からだと昼夜が完全に逆転して時差に苦しむことになりますが、ニューヨークからだと南北の移動ですからそれがありません。
それにしても大勢の日本人移民の方々に、本当にお世話になってしまいました。
突然訪れたそれまで全く見も知らなかった人なのに何時間もかけて話し相手になってくれたり、食事まで御馳走してくれたり、中には家に泊めてくれる人さえいたのです。
紙数の都合で、そうしてうかがったエピソードの数々を全部紹介出来ないのが残念です。また本文には出てきませんが、ブラジルのグァタパラ耕地で食料品店を営んでいる川上修司さんには、サンパウロのセアザを案内してもらったばかりでなく、グァタパラまで車で連れて行ってもらうというお世話をかけました。この場でお礼を申し上げます。
(…後略…)